第一部会総会 

1936年02月

新帝展反対を標榜する第一部会では、其の主張貫徹の為会員一同帝展に出品しなかつたが、其の出品受付の締切日なる二月十三日午後、銀座皆川ビルの同会事務所に総会を開き、協議の結果、「帝展問題を繞つて現下の美術界は混乱を極めてゐるから新帝展は速かに解消すべし」と云ふ意味の建白書を当局に提出することに決定、委員を選んで起草せしめた上、近く川崎文相を訪問して之を提出することゝした。

京都画壇出品に決す 

1936年02月

前項の京都画壇不出品問題に就き、文部省石丸学芸課長は二月十一日入洛し、帝国美術院会員等と懇談を重ね、府市当局者等にも斡旋を求むる所があつたが、其の結果翌十二日円満なる解決に達する諒解成立し、会員等も一般の作家に対して不出品申し合わせの撤回を勧告した為、一同之に従つて今次の不出品運動は解消するに至つた。右に就き同日午後四時、西山、西村両名は入院中の土田の同意を得、三名の名を以て左の如き談話を発表した。 「私共は一般少壮作家の不出品にまで拡大した事態に対し心配し今後の局面打開策を考へてをりました折柄文部省では使者を派遣されわれわれとの間に種々協議を行つた結果文部省ではわれわれの目的要望をよく理解されましたので気分も自ら朗らかとなりここに至つては一般作家にも是非出品してもらはうといふことになつた次第であります、締切日などについては運送店と交渉中でありまして適当なる取扱ひをしてくれることと信じます、なほこの問題については京都市長も尽力されました。」

青松寺火災 

1936年02月

二月四日午前七時五十分頃芝区愛宕町の青松寺本堂より発火、同堂内部百六十坪を全焼し、本尊木彫釈迦如来及び脇侍文殊普賢両菩薩の三尊像並に上宮教会所蔵の鎌倉時代の作と言はれる聖徳太子像を焼失した。本堂は鉄筋コンクリート造、工費二十八万円を以て昭和六年落成したもの、本尊及び両脇侍は山崎朝雲に依つて同九年完成された名作であつた。

京都画壇の帝展不出品運動 

1936年02月

京都在住日本画家の間では、旧臘東京の第一部会が新帝展反対運動を起して参加を勧誘した時にも之に応ぜず、一般に帝展出品を目指して製作中であつたが、出品搬入日の迫つた二月上旬に至り俄かに不出品の空気が起り、主要作家の大多数並に一般出品者等も申し合せて帝展出品を中止せんとするに至つた。其の動機は、予て昨年の帝国美術院改組及び新帝展に慊らぬながら、同院総会の決議を重んじて帝展参加に決し、世上再改組などの論が行はれても自重を続けてゐたものであるが最近に至つて前記の如き竹内栖鳳の意見が伝へられてから、栖鳳の系統に属する画家達の間に、恩師の意向に順応し、之を実現せんとする気運が昂じて来て、遂に動かし難き大勢を成すに至つたものである。栖鳳を主宰者とする竹杖会は全員不出品を決議し、二月八日夜には西山、西村、土田、堂本、石崎、中村の各画塾では塾員参集して協議した結果、何れも全員不出品を決するに至つた。西山翠嶂西村五雲等は帝国美術院会員の立場から極力慰留に努めたが、此の気勢を如何ともし難く、菊池契月川村曼舟の各画塾に於ても無鑑査の作家達は友情不出品の情勢となり、一旦出品の発送を托した作家も撤回を申し出るなど混雑を極めた。右に就き西山翠嶂等は九日午後四時談話の形式で左の如く声明した。 「私達は今度の新帝院改組につきましては、素より十全のものとは思つてゐませんが、所謂再改組問題につきましては当然期待を持ち但し時機としては、第一回展覧会開催後が適当かと考へてゐましたが、最近栖鳳先生の再改組に対する御意見の表示を忖度致しますとその根本意見としましては元来私達と全く同一であり要はその時機が今日であるとの御考へであります上、また私達の立場と致しましては現在の状勢に鑑みまして、この際これに対する何等かの考慮を計りたいと思つてゐる次第であります。 西山翠嶂西村五雲土田麦僊

太蒼会結成 

1936年02月

第二部会々員伊原宇三郎中野和高、矢島堅土、阿以田治修、佐竹徳次郎、鈴木千久馬の六名は、新団体太蒼会を結成し、二月十一日其の旨を発表した。親睦と研究を趣旨とし、同人が第二部会々員たることに変りはないものである。

松田文相薨去 

1936年02月

文部大臣松田源治は二月一日心臓麻痺のため急逝した。

川崎文相就任 

1936年02月

松田文相薨去の為、其の後任として川崎卓吉が二月二日文部大臣に任ぜられた。

日本工芸品紐育陳列会出品物発送 

1936年01月

日本輸出工芸聯合会では、商工省補助の下に一昨年より引続き二回パリで日本工芸品陳列会を開いたが、本年は初めてニユーヨークで来る三月同陳列会を開催することとなり、昨秋東京、大阪、名古屋の三市で開かれた商工省輸出工芸展覧会終了後、其の出品中から選出された九三七点(陶磁器二五〇、漆器一七九、金属製品九〇、布帛類一九〇、木竹製品一一四、其の他綜合品一一四)を一月十四日名古屋出帆能代丸でニユーヨーク宛発送した。

竹内栖鳳の再改組意見 

1936年01月

昨夏の帝国美術院改組以来沈黙してゐた竹内栖鳳の新帝院反対、帝院再改組要求の意見が、第一回帝展を間近に控へた一月三十一日報知新聞紙上に記者の訪問記として発表され、世人の注目を牽いた。後に記す如く、京都画壇に俄に帝展不出品の運動が起つたのは、此の栖鳳の意見が動因となつたものである。紙上に伝へられた所を抄録すれば左の如くである。 「文部省の改組のやり方は案のねり方が足らず、それをまた権力でまとめて行かうとするところが見える、会員内部の反対があつても、無理に押切らうとしてゐる、面目にこだはつてゐる、面目とは商人の損得です、帝院改組後日が経つにつれ、それが益々はげしい、全美術界はもめにもめて不潔な毒ガスを発生してゐる、その中にあつて、私は「帝院再改組」を要望する一人です・・・・・・咲き競ふ各流派の美術はいはば「七色の虹」です、処が新帝展は虹を一色に塗りつぶさうとしてゐる・・・・・美術は政府直接の庇護を必要とする時代と、さうでない時期があります、今や政府の直接庇護を必要としない時期に入つたと思ひますその昔浮世絵も南画も野に咲いたからこそ栄えたのです・・・・・・従来旧帝展内部には東京方、京都方と二つの流れが対立してゐたやうに人はいつてゐる、ところが今度は、更に院展派といふ流れをも一つ加へたので、新帝展は旧帝展よりも一つはげしい闘争の府となつたのです・・・・・・文部当局が「再改組は必ずやるから第一回だけ顔を立てゝくれ」と態度をハツキリすれば、私とて一夜漬でも出品しないでもない、ところが文部当局は第一回新帝展がうまく成功すれば、そのまゝ再改組をやらずに押切らうとする意向が見える、それでは新帝展に出品すれば、それだけ再改組から遠ざかるやうなものだ、不条理を我慢してまで文部当局に義理立てする筋合はありません。」

藤井浩祐帝院会員任命 

1936年01月

昨年十一月二十九日帝国美術院総会で新会員に推薦された藤井浩祐に対し、一月十四日附を以て帝国美術院会員仰付らるゝ旨発令された。

第一部会の運動 

1936年01月

新帝展の機構に対する不満から、旧臘東京在住の旧帝展無鑑査の日本画家達に依つて組織された第一部会では、予て今春の帝展開催に反対し、帝国美術院を再改組すべしとの要求を示してゐたが、それと共に本年五月同会自ら展覧会を開催することとなり、一月六日展覧会規定起草委員会を開いて其の原案を作製した。同八日午後銀座皆川ビルに第一部会総会を開催、右規定を審議決定したが、会期を定むるに至らなかつた。又同会の主眼とする新帝展改革運動に就いては、協議の結果左の如き試案を決議し、要求貫徹の為に、飛田周山町田曲江野田九浦島田墨仙矢沢弦月勝田蕉琴吉村忠夫、小泉勝爾、水上泰生の九名を実行委員に挙げて、文部当局、帝国美術院会員等を歴訪せしめ、運動を継続することとなつた。 「現下書壇の混乱状態に処すべき試案 一、帝国美術院は日本美術の最高諮問機関とすること 一、帝院は各在野団体の展覧会に対し補助奨励をなすこと 一、旧帝展を今後一在野団体と認むべきこと 一、帝院は週期的に各団体の綜合展覧会を開催すること 以上の件会員会議に於て実行決定せられたきこと 第一部会」

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