衆議院に於ける質問 

1936年05月

開会中の特別議会衆議院予算第二分科会で、五月十四日委員大口喜六は美術問題に関する質問演説をなし、平生文相との間に一問一答を行つた。大口委員の意見に依れば現在の状態では帝国美術院設置の目的を達せられぬから、英断を以て根本から之を建直すべしと言ふのである。

帝院第一部四会員意見書提出 

1936年05月

帝国美術院第一部に属する会員小室翠雲荒木十畝松林桂月松岡映丘の四名は、予て帝展改革案を練りつつあつたが、帝国美術院総会の時期も近く予想されるので、愈々具体案を纏めて意見書を文相に提出することとなり、病気中の松岡を除く右三名は四月二十八日午後芝紅葉館に会合して協議を重ね、其の後竹内栖鳳とも打合せたが同人は近く単独に意見書を出すことゝなつた為、更に五月五日午後右四名は赤坂あかねに集合して案を練つた結果漸く意見書の草案を決定した。其の内容は、 一、帝国美術院は日本美術の最高諮問機関とし併せて美術の奨励補助をなすこと 一、帝国美術院自体に於いては展覧会を開催せざること 一、展覧会は民間美術団体聯立の形式に於いて文部省之を主催すること としたもので、之に旧帝展以来の欠陥を指摘した理由書を附したものであると伝へられる。 此の意見書は右四名の署名に成り、松岡が代表となつて五月七日平生文相に之を提出した。

帝院第二部五会員意見書提出 

1936年05月

帝展の問題に関して、是れ迄に提出されてゐる意見書は、総て所謂旧帝展系の作家、或は世間で不開催派と呼ぶ旧帝院以来の会員に依つて唱へられる所の所謂再改組意見であつて、新帝展支持の意見を有する会員等は、何等発言する所が無かつたのであるが、世論も多く再改組を当然と認めるやうになつた情勢に鑑みて、帝国美術院第二部所属の会員、石井柏亭有島生馬安井曽太郎山下新太郎梅原竜三郎の五名は、五月七日連署の意見書を平生文相宛に提出して所信を明らかにした。その要旨として伝へられた所は左の通りである。 「第二部旧会員の主張する帝国美術院解消論は越権の沙汰である。新帝展不開催を唱へることは初めの総会で決定した決議に反するばかりでなく春の帝展は第一回展の半分をすましただけであるから秋の分も開き一通り第一回展を終つたうへ初めて新帝展の欠陥を云々すべきであらう、帝院から展覧会を切り離して文部省展を開き審査員を別に任命することは旧帝展時代の弊害を再び繰り返すことであるから展覧会はあくまで帝院で行ひ会員が審査に当るべきである、今秋の洋画展は或は綜合の実には欠くるかも知れぬが春の帝展の成績をみると既に旧帝展改革の一つの目的たる情実打破は実現されたと見てよい、以上の理由から新帝展はあくまで続行し最初の目的に邁進すべきである。」

マドリツド日本現代版画展覧会 

1936年05月

日本版画協会の海外出品事業の一つ、マドリツドに於ける日本現代版画展覧会は、外務当局の尽力と同国関係当局の斡旋とに依つて五月六日から約一ケ月間同市現代美術館で開催され、大統領初め多数の来賓参観者あり、好評を得た。

日本漆芸院結成 

1936年05月

東京在住の有力な漆芸作家十七名に依つて新団体日本漆芸院が結成され、五月五日池の端雨月で其の披露会が催された。

漆芸会解散 

1936年05月

正木直彦を会頭とし明治三十一年創立以来の歴史を有する漆芸会は、既に其の目的を略果したものとして、前項日本漆芸院の結成と同時に解散することゝなり、左の声明を発した。 「明治聖代の中期に於ける近代美術工芸変遷の黎明期に当時の新人層によつて創立され、大正時代を経て現代に至つた本会が、その不短過去に斯界へ対して成し得たる業跡は尠しとしない。其間社会の支持と先輩の鞭撻並に会員の熱意努力は不断の研究会を続け数十回に渉る展覧会に研鑚して向上に励み幾多の人材を世上に送り出した。蓋し帝都に於て漆工芸の現在を荷負つてゐる大多数の中堅作家を登竜せしめた事は斯界のため誇るに足るべき貢献と謂ふべきである。今や初期以来希望せる漆芸会としての目的に略到達したるを以て此時を劃し時勢を洞察して茲に潔よく解散を決したのである。解散に臨んで数多の功労ある先輩や社会の支援に深甚の感謝と敬意を表する次第である。」

美術公正会建言書提出 

1936年05月

美術公正会は昨年十二月展覧会改革に関する建言書を当時の松田文相に提出したが、同趣旨を再び文書にして五月五日平生文相宛提出した。其の案の内容は、展覧会を春秋二回に分ち、春季展覧会は文部省主催として鑑別した作品のみを陳列し、秋季展覧会は帝国美術院主催として、全美術界より銓衡した無鑑査作品のみを陳列すると云ふものである。

美術公正会帝院会員に進言 

1936年04月

美術公正会は美術界の紛擾を遺憾とし、其の責任と、之が粛正及び安定の任は帝国美術院会員に在るとして、四月二十八日長文の書面を印刷し各会員に送附した。

第三部会建議 

1936年04月

所謂旧帝展系彫刻家に依り新帝展に反対して組織された第三部会では、四月二十四日帝展を解消すべしとの意味を文書にして文部当局に建議した。

内藤伸意見書提出 

1936年04月

平生文相が各方面から意見書の提出されることを希望し、又美術界の紛争解決に就き何等かの方法を講ずる意向なることが、新聞紙上等に伝へられた為、美術界諸方面からの意見書提出は愈々盛になりつゝあるが、帝国美術院第三部所属の四会員、山崎朝雲建畠大夢北村西望内藤伸等の間でも之が提出を協議中の所、意見を纏めるに至らなかつた為、内藤伸は単独で意見書を作製し、四月二十五日郵便を以て平生文相宛に提出した。其の内容は帝展の機構を改めて、各団体より選出した作品を綜合陳列する所謂聯立綜合展たらしむる案であると伝へられる。

第一部会建白書提出 

1936年04月

既述の如く、第一部会では去る二月十三日総会を開いて文相に建白することを決議したが、其の後大事件の勃発、内閣の更迭等に依つて機を逸し延び延びになつてゐた所、愈々之を実行することとなり、四月二十三日午後、島田墨仙飛田周山野田九浦矢沢弦月勝田蕉琴の五名は同会代表として、平生文相を官邸に訪問し、会見の上、帝国美術院改組の欠陥其の他に就い て詳細なる意見を述べ、予てより同会の主張する試案並に長文の建白書を提出、文相の善処を要望した。

日本木彫会の会合 

1936年04月

所謂旧帝展系木彫作家の団体日本木彫会では、第一回帝展には殆ど全部の会員が出品せず、新帝展改革を希望してゐたが、四月二十三日池の端浜の家に会合を開いて協議した結果、従来の如き帝展に依存する立場を棄て、同会自身の確固たる基礎を定めることとし、来る五月東京府美術館で展覧会を開催すること等を決定した。

聖徳記念絵画館壁画完成式 

1936年04月

明治神宮外苑聖徳記念絵画館の、明治天皇の御一代記を永久に伝へる壁画は、日本画洋画各四十枚合計八十枚の中、既に七十五枚は昨年迄に奉納され、大阪行幸諸藩軍艦御覧(岡田三郎助)、東京帝国大学行幸(藤島武二)、憲法発布式(和田英作)、神宮親謁(松岡映丘)、内国勧業博覧会行幸啓(結城素明)の五図を残すのみであつたが、是等諸家の努力に依つて漸く完成を見たので、四月二十一日明治神宮奉賛会総裁閑院宮載仁親王殿下台臨の下に、同館に於て厳かな完成式が挙げられた。 午後一時三十分殿下には奉賛会会長徳川家達公以下役員、奉納者、揮毫者の奉迎裡に御着、奉賛会役員の外、奉納者総代、揮毫者総代に賜謁あつて後親しく壁画を御巡覧遊ばされた。午後二時三十分中央ホールの式場に台臨、役員、奉納者揮毫者参列して式が挙げられ、左の令旨を賜はり、壁画揮毫者総代藤島武二に御目録を下賜、壁画奉納者を代表して徳川圀順公、揮毫者を代表して和田英作の奉答あり、徳川会長の挨拶で式を終つた。次で同館階下西側広間で参列者一同に賜餐あり、総裁宮殿下には午後三時二十分御帰還遊ばされた。 「令旨 明治神宮外苑聖徳記念絵画館ノ壁画完成ヲ告ケ本日茲ニ其ノ丹精ヲ尽シ精巧ヲ極メタル跡ヲ覧ルハ予ノ殊ニ満足スル所ナリ惟フニ壁画ノ事企テラレシヨリ既ニ十有余年ヲ経タリ其ノ間ニ於ケル画家苦心想察スルニ余アリ今ヨリ以往此館ニ出入スル者必スヤ髣髴トシテ明治盛世ノ事跡ヲ回顧シ祭神ノ御遺徳ヲ仰慕シ以テ益々報効ノ念ヲ固クスヘキヲ疑ハス而シテ四壁ノ絵画亦千歳ニ亙リテ不朽ナルヲ得ン一言以テ感喜ノ意を表シ併セテ深ク奉納者諸子ノ志ヲ多トス 昭和十一年四月二十一日」 聖徳記念絵画館は明治神宮奉賛会の主要なる一事業として計画せられ、絵画の作製に就ては大正五年絵画館委員及同顧問を嘱託して先ず画題の選定に着手、慎重な審議に六年余を費し同十一年六月に八十題を決定、同十二年絵画委員会の外 日本画家洋画家各六名より成る壁画調製委員会成立、揮毫者の選定其の他の審議に当り、爾来七十六名の担当画家を決定夫々執筆に従事してから十二年を経て全部の完成を見たものである。揮毫者の中業半にして物故し、後継者又は他の画家に完成を譲つたもの、児島寅次郎、平福百穂、小堀鞆音、葛谷竜岬、吉川霊華、石橋和訓、長原孝太郎の七名を数へ、完成後故人となつた画家も数名に及ぶ。画題、揮毫者及奉納者は左の通りである。 揮毫者 奉納者 一、御降誕 高橋秋華 侯爵中山輔親 二、御深曾木 北野恒富 男爵鴻池善右衛門 三、立親王宣下 橋元永邦 三菱合資会社 四、践祚 川崎小虎 侯爵池田宣政 五、大政奉還 邨田丹陵 侯爵徳川慶光 六、王政復古 島田墨仙 侯爵松平康荘 七、伏見鳥羽戦 松林桂月 侯爵毛利元昭 八、御元服 伊東紅雲 侯爵近衛文麿 九、二条城太政官代行幸 小堀鞆音 男爵三井八郎右衛門 一〇、大総督熾仁親王京都進発 高取稚成 侯爵蜂須賀正韶 一一、各国公使召見 広島晃甫 侯爵伊達宗彰 一二、五箇条御誓文 乾南陽 侯爵山内豊景 一三、江戸開城談判 結城素明 侯爵西郷吉之助/伯爵勝精 一四、大阪行幸諸藩軍艦御覧 岡田三郎助 侯爵鍋島直映 一五、即位礼 猪飼嘯谷 京都市 一六、農民収穫御覧 森村宜稲 侯爵徳川義親 一七、東京御著輦 小堀鞆音 東京市 一八、皇后冊立 菅楯彦 大阪市 一九、神宮親謁 松岡映丘 侯爵池田仲博 二〇、廃藩置県 小堀鞆音 侯爵酒井忠正 二一、岩倉大使欧米派遣 山口蓮春 横浜市 二二、大嘗祭 前田青邨 伯爵亀井茲常 二三、中国西国巡幸長崎御入港 山本森之助 長崎市 二四、中国西国巡幸鹿児島著御 山内多門 鹿児島市 二五、京浜鉄道開業式行幸 小村大雲 鉄道省 二六、琉球藩設置 山田真山 首里市 二七、習志野之原演習行幸 小山栄達 侯爵西郷従徳 二八、富岡製糸場行啓 荒井寛方 大日本蚕糸会 二九、御練兵 町田曲江 十五銀行 三〇、侍講進講 堂本印象 台湾銀行 三一、徳川邸行幸 木村武山 公爵徳川圀順 三二、皇后宮田植御覧 近藤樵仙 公爵一条実孝 三三、地方官会議臨御 磯田長秋 公爵木戸幸一 三四、女子師範学校行啓 矢沢弦月 桜蔭会 三五、奥羽巡幸馬匹御覧 根上富治 日本勧業銀行 三六、畝傍陵親謁 吉田秋光 男爵住友吉左衛門 三七、西南役熊本籠城 近藤樵仙 侯爵細川護立 三八、内国勧業博覧会行幸啓 結城素明 侯爵大久保利和 三九、能楽御覧 木島桜谷 男爵藤田平太郎 四〇、初雁の御歌 鏑木清方 明治神宮奉賛会 四一、グラント将軍と御対話 大久保作次郎 子爵渋沢栄一 四二、北海道巡幸屯田兵御覧 高村真夫 北海道庁 四三、山形秋田巡幸鉱山御覧 五味清吉 男爵古河虎之助 四四、兌換制度御治定 松岡寿 日本銀行 四五、軍人勅諭下賜 寺崎武男 公爵山県伊三郎 四六、条約改正会議 上野広一 侯爵井上勝之助 四七、岩倉邸行幸 北蓮蔵 東京商業会議所 四八、華族女学校行啓 跡見泰 常盤会 四九、東京慈恵病院行啓 満谷国四郎 東京慈恵会 五〇、枢密院憲法会議 五姓田芳柳 公爵伊藤博邦 五一、憲法発布式 和田英作 公爵島津忠重 五二、憲法発布観兵式行幸啓 片多徳郎 日本興業銀行 五三、歌御会始 山下新太郎 宮内省 五四、陸海軍大演習御統監 長原孝太郎 名古屋市 五五、教育勅語下賜 安宅安五郎 茗渓会 五六、帝国議会開院式臨御 小杉未醒 貴族院、衆議院 五七、大婚二十五年祝典 長谷川昇 華族会館 五八、日清役平壌戦 金山平三 神戸市 五九、日清役黄海海戦 太田喜二郎 大阪商船株式会社 六〇、広島大本営軍務親裁 南薫造 侯爵浅野長勲 六一、広島予備病院行啓 石井柏亭 日本医学会/日本医師会 六二、下関講和談判 永井秀太 下関市 六三、台湾鎮定 石川寅治 台湾総督府 六四、靖国神社行幸 清水良雄 第一銀行 六五、振天府 川村清雄 公爵徳川家達 六六、日英同盟 山本鼎 朝鮮銀行 六七、赤十字社総会行啓 湯浅一郎 日本赤十字社 六八、対露宣戦御前会議 吉田苞 公爵松方巌 六九、日露役旅順開城 荒井陸雄 関東庁 七〇、日露役奉天戦 鹿子木孟郎 南満洲鉄道株式会社 七一、日露役日本海海戦 中村不折 日本郵船株式会社 七二、ポーツマス講和談判 白滝幾之助 横浜正金銀行 七三、凱旋観艦式 東条鉦太郎 海軍省 七四、凱旋観兵式 小林万吾 陸軍省 七五、樺太国境劃定 安田稔 日本石油株式会社 七六、観菊会 中沢弘光 侯爵徳川頼貞 七七、日韓合邦 辻永 朝鮮各道 七八、東京帝国大学行幸 藤島武二 侯爵前田利為 七九、不予 田辺至 東京府 八〇、大葬 和田三造 明治神宮奉賛会

帝院第二部七会員意見書提出 

1936年04月

帝国美術院の第二部に属する会員、岡田三郎助中村不折藤島武二満谷国四郎和田三造南薫造中沢弘光の七名は、予てより昨年の帝国美術院改組及び新帝展に関し、不満足の意を蔵しつつ表面的には沈黙を続けて来たが、愈々帝国美術院及び其の展覧会問題に関する根本的な改革意見を纏めて之を意見書とし、四月二十三日郵便を以て平生文相に提出した。其の内容として伝へられる所に依れば、帝国美術院解消を第一案とし、之が不可能の場合は展覧会を帝国美術院より分離せしめ、帝展を廃して別に文部省主催の展覧会を開催すべきことを第二案とするもので、文展を開く場合には審査員は文部省が帝国美術院に諮り、其の会員以外の者から銓衡すべしと言ふものであることである。

帝院第一部三会員協議 

1936年04月

予てより所謂帝展不開催、或は再改組の意見を抱く帝国美術院会員松岡映丘荒木十畝両名は、四月十一日午後湯河原に竹内栖鳳を訪問し、帝展改革に関する意見を交換し、種々協議を遂げた。此の協議に先ち竹内栖鳳は再改組に対する根本的態度を明かにしたとして、四月十二日附報知新聞は左の如く伝へた。 「漫然と帝展不開催を唱へるのは破壊のための破壊で自分の取らざるところである、次の建設を目指しての破壊でなくてはならない・・・・・・いやしくも帝国美術院会員たる者が改革意見を出すからには、後進出品画家の方向を考慮してやらなくてはならぬ、単なる不開催意見、解消論であつてはならぬ、あくまで官展の機構を尊重したものでなくてはならぬ、ただこれだけのことだが、これは一歩も譲らぬ、帝展の現状ではいけないといふことについては信念を持つてゐる、事実統制のとれなかつた帝展を支持するためには横車を押しても厭はぬ会員達を反省させ、聴従させなくては止まぬものである、私の意見は『論理は穏健だが、信念は固い』のである、統制の取れない帝展を統制の取れるやうにしようといふ穏健な案を提出して、それでも文部当局や帝展支持会員連が横車を押してこの案を葬らうとするなら、その時はまた何をかいはんやである、意見の一致を見ないが故に止むなく帝展不開催、あるひは廃止となるなら、その時は現状を維持して行かうといふ会員たちに帝展滅亡の責は帰せらるべきである」云々

主線美術協会結成 

1936年04月

過般東光会を脱退した洋画家達を中心として組織された主線協会と、彫刻団体塊人社とは、「日本美術界に正しく処する態度に於て、全面的に一致し、且つ洋画、彫刻相互の研究啓発が団体としての芸術運動強化のためにも、作家の個人完成のためにも、より有意義である事を認め、茲に両者合一して新たに主線美術協会を創立」(同会趣意書)し、四月十四日新宿白十字で発会式を挙げた。絵画部二十七名、彫刻部十八名の会員より成る。 尚塊人社は彫刻研究団体として昭和四年創立されたが、「今回の合同に於て、塊人社従来の主義主張は何等の変更を見ることなく、その侭、主線美術協会の主義主張となつて生き、寧ろ益々その強化拡充に向つて邁進する事に」(同社挨拶)なつたとして、自然消滅したものである。

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