巴里万国博日本館起工式 

1936年12月

明年五月開催のパリ万国博日本館の起工式は十二月二十九日午後トロカデロ庭園の敷地で佐藤大使サベツト博覧会事務総長等日仏両国の関係者多数参集の上盛大に挙行された。同館は坂倉準三の設計に成り、建坪総計千七百五十六平方米、二階建で、明年三月中に大体完成、四月に内部の陳列を終り五月早々開館の予定である。

京都工芸院結成 

1936年12月

京都工芸界各部門の諸団体が大同団結して綜合的な工芸団体を結成する相談が行はれてゐたが、愈々十二月三十日新団体京都工芸院創設の旨が左の通り発表された。参加人数は、陶磁七十名、金工十四名、染織三十八名、漆芸二十五名、雑四名、外研究部員五十名の多数に上り明春早々発会式を挙げる筈である。 「時代の進運に鑑み工芸界の革新を企て茲に『京都工芸院』の創設を見るに至りました其れは年来工芸界に於ける一団体として聊か斯道のため力を尽して来た、五条会、綵工会、伸更会、金工作家聯盟、蒼潤社、工友園等が現下日本工芸美術の重大性に深く念ふ所あり既往の集団を拡大し一致協力工芸界の革正に当り純正なる芸術の進展を図るべき好機運たりと確信致します。 追而本院は新春を期し発会式を挙げ目的達成のため邁進するものであります。 昭和十一年十二月三十日 京都工芸院」 

日本工作文化連盟結成 

1936年12月

「生活の全的立場より建築を中心とせる工作文化の健全なる発達に寄与せんと」し、「(一)様式建築より生活建築へ、(二)有閑工芸より目的工芸へ、(三)低俗製品より価値製品へ」を指標として、主として建築家、学者等を会員とする日本工作文化聯盟が結成され十二月九日発会式が挙げられた。会長伯爵黒田清、理事堀口捨己、理事岸田日出刀で、順次具体的活動を開始する予定である。

文部省学芸課長更迭 

1936年12月

多年文部省専門学務局学芸課長の職に在り、帝国美術院幹事又は主事として美術界に尽力した文部書記官石丸優三は、大分高等商業学校長に転任、其の後任として静岡高等学校教授兼生徒主事本田弘人が任命され、十二月十九日発令があつた。

有島生馬イタリアで講演 

1936年11月

ブエノスアイレスで開かれた国際ペンクラブ大会に出席した有島生馬は、イタリアの極東協会の招聘で十一月十四日ナポリ着渡伊、約二ケ月間ローマに滞在し、同協会主催で近代日本美術に関し連続講演を行つた。

横山大観座談会 

1936年12月

国際文化振興会では在留外国人に対する日本美術の理解を増させる為、十二月四日午後五時から丸の内明治生命館の同会々議室で、横山大観を中心とする座談会を開いた。

野生司香雪帰朝 

1936年11月

印度サルナートの初転法輪寺に釈迦一代記の大壁画を揮毫した野生司香雪は、十一月二十八日神戸着の伏見丸で帰朝、同三十日上京し、盛な歓迎を受けた。

黒田子爵記念奨励買上 

1936年11月

黒田子爵記念美術奨励資金委員会では、本年度買上として今秋二科展覧会に出品された木下孝則の「I氏の肖像」一点を買上げ、十一月七日帝室博物館に寄贈した。

中部日本商業美術連盟結成 

1936年11月

岐阜、三重、滋賀、富山、福井、静岡、愛知等諸県の商業美術協会を加盟団体とする綜合的団体として、中部日本商業美術聯盟が結成され、十一月二日名古屋の愛知県商工館で創立総会を挙行した。

南画連盟結成 

1936年11月

去る九月解散した日本南画院及び環堵画塾の旧同人塾員等の有志は、十一月三日新団体南画聯盟を結成し、左の宣言を発表した。小室翠雲を顧問に推さんとするものである。 「南画聯盟宣言 吾等の同志は時代思潮に鑑み師恩を重んじ友誼を厚くし一致協力以て心技一如の学画の大道に邁進せんとするものであります、吾等は徒に名利を追はず異端に趨らず、常に熾烈にして鞏固なる熱意を有する点最も強い一存在であると思惟するに憚りありません、一同誓約以て茲に宣言致します。 昭和十一年十一月三日 南画聯盟幹事 岡田晴峰、福田浩湖、白倉二峰、人見少華、外聯盟員四十名」

国際人形協会創立 

1936年11月

人形の発達と其の国際的進出とを趣旨として国際人形協会が創立され、十一月三日丸ノ内ホテルで発会式を挙げた。岡本綺堂、横山正三、塚本靖、成舞平兵衛、久保田米所、山村耕花、有坂与太郎の七名を発企人とするものである。

美術批評家協会創立 

1936年10月

「現代日本の美術界は、未曾有の混乱に陥り、美術家は生活の不安に喘ぎ、批評精神はすたれ、あまつさへ職業的な批評家は、あたかも家畜のやうな存在をさへ営んでゐるではないか。(中略)芸術の世界に於いてもまた、これを指導する進歩的な批評精神を持たないほど、悲惨なことはない。この混乱のちまたにさ迷う美術界にこそ、何よりも先ず厳正にして妥当な美術批評が確立されねばなるまい。」云々との宣言を発して、美術批評家協会が十月十日創立された。会長子爵吉川元光、書記長柳亮、事務長外山卯三郎とし、東洋美術、西洋美術、工芸、建築、商業美術、都市計画美術、舞台美術、舞踊、映画、写真、服飾、装幀等其の他の部分を受持つ二十余名の批評家を正会員とする。機関雑誌「美術批評」の発行、美術図書館設立、美術行政に対する提案建策、其の他十余項に亙る事業計画が発表されてゐる。

名古屋美術連盟結成 

1936年10月

来春名古屋に開催される汎太平洋博覧会美術館出品問題に端を発して、愛知県在住並に出身者の美術家を包含する名古屋美術聯盟が結成され、十月十日名古屋市公会堂で発会式が行はれた。

平生文相の方針伝へらる 

1936年09月

平生文相は前項藤島武二と会談後新聞記者団に美術行政に関する方針を語つたが、其の意見として報道された所の要点は左の如くである。 「帝国美術院から展覧会を完全に分離して、文展を継続して行ふ。美術行政上に対しては三大原則に依る。即ち一は美術界の元老、功労者の為に帝国美術院を確立して優遇し、諮問機関とする。二は既成作家の為に目下計画中の現代美術館を提供する。三は新人の為の登竜門として文展を継続する。」

文展委員決定 

1936年09月

文部省では今秋の文部省展覧会委員を銓衡決定する為、九月十一日午前十時半から文相官邸に帝国美術院残留会員を招いて打合会を開き、会員各部会に於て銓衡の結果夫々委員候補者合計七十五名を決定、発表した。 其の中第二部、金山平三牧野虎雄川島理一郎藤田嗣治中山巍の五名は当局の勧誘を固辞した為、其の他の七十名を委員とし、九月十八日正式に委嘱した。

藤島武二意見書提出 

1936年09月

帝国美術院会員藤島武二は昨年の帝院改組当時帝展不開催を主張し、去る四月には他の会員等と共に帝国美術院解消若くは帝展廃止意見を提出し、其の後は去る六月四日文相主催の帝院会員懇談会を初め、新文展に関する打合会等にも総て出席せず独り沈黙を守つてゐたが、九月二十五日午後平生文相を官邸に訪問、会見して所見を述べ「帝国美術院改革に関する私見」と云ふ意見書を提出した。其の内容として伝へられる所によれば、「帝国美術院の使命を展覧会開催と混同した所に誤りがあるから、之と離れて帝院本来の使命に帰るべきである。政府が展覧会を開催することは真の美術奨励に適せず、官展は廃すべきである」との意味を説いたものである。

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