工芸指導所拡充

1937年08月

商工省では工芸指導所を拡大、本所を仙台より東京に移し新に関西に支所を置き、全国に対し工芸品の試験研究、原材料の品質鑑定、製作技術の伝習講話、新製品の意匠図案配布等に当ることとし、新に技師二名、技手二名を増員、新設事務の為準備に着手することとなつた。而も従来其の仕事が木工、金工等に限られてゐたものを広く工芸品一般に及ぼし、組織の拡充と相俟つて活溌な活動を起すこととなつた。右に依る工芸指導所官制改正の勅令は八月十三日官報を以て公布された。尚東京、関西共今年中に敷地を選定、来年度より新庁舎建設に着手の予定である。

日本万国博建国記念館設計懸賞募集

1937年08月

皇紀二千六百年を記念する日本万国博覧会の会場計画は同事務局工営部に於て着々進められてゐるが、其の会場中央に聳立すべき建国記念館の設計は、其の図案を一般から懸賞募集することに八月十一日会場計画委員会に於て決定し、其の募集規程を発表した。紀元二千六百年を記念すべき永久建造物とし、日本精神を象徴した壮厳雄大なるもの、建築費約百五十万円、内部には便殿、貴賓室、集会ホール、食堂等の外絵画陳列室を設ける予定とする。賞金は一等一名三千円、二等二名各千五百円、三等四名各八百円等で締切は本年十一月一日である。

ラスキン資料蒐集家破産

1937年08月

ジヨン・ラスキンの研究家として、且つラスキンに関する資料蒐集家として聞えた御木本隆三は、ラスキン文庫、喫茶店ラスキン等の事業経営から財政上破綻を来し、莫大な負債の為終に八月十日破産の宣告を受け、一切の蒐集品は家財と共に管財人の手に移されることとなつた。

第三部会小倉右一郎と絶縁

1937年08月

反官展を標榜する旧帝展系彫刻団体第三部会では八月十日同会々員小倉右一郎と今後絶縁する旨を声明した。彼が本年度文展審査員に選ばれて之を受諾した為である。

世界教育会議開催

1937年08月

世界聯合教育会主催第七回世界教育会議が八月二日より七日迄東京帝大安田講堂に於て開催され各国の教育関係代表者一千余名、日本側代表者二千名出席、会議の外に我が国文化芸術等を認識させる為種々の招待、参観等が行はれた。

安井曽太郎審査員辞退

1937年07月

文展審査員に選ばれた安井曽太郎は之に対する態度決定を保留してゐたが、七月三十日夜所属一水会々員協議の結果に基き、審査員辞退を申出た。

第二部会協議

1937年07月

第二部会では会員中文展審査員の諾否を決する為七月二十九日夜マーブルで総会を催し参集者等協議を行つたが、出席者が全会員の半数に充たなかつた為八月二日改めて総会を開くこととした。

南薫造審査員辞退

1937年07月

本年度文展審査員第二部主任に推された南薫造は七月二十九日書面を以て審査員辞退を申出た。

美術調査会計画さる

1937年07月

文部省では本年文展開催に関し細川侯爵等五名の顧問に意見を徴し之に基いて其の大綱を決定したが、尚無鑑査制度等将来に残された問題もあり、美術行政に就ては今後益々整備を必要とするもの多き為、各方面の権威者を集め美術に関する審議機関として美術調査会を新設すべく計画中なる旨七月二十七日発表された。

文展審査員及無鑑査決定

1937年07月

文部省では今秋開催予定の文展審査員の人選を了し、七月二十七日午後審査員五十六名(第一部十五名、第二部十五名、第三部十三名、第四部十三名)の氏名並に審査員長及び各部主任の氏名を発表、又無鑑査資格者は本年度に限り昭和十一年度文展に招待を受けた者並に同展に文部大臣賞を受けた者二名として之を発表した。

日本美術院献金

1937年07月

日本美術院では七月二十三日同院基本金中より金七千円を立替支出して東朝社に託し、軍用機献納資金中に寄贈した。立替金は十月を期し同人一同から作品を提供之を填補することとした。

第二部会申入れ

1937年07月

文部当局では新文展に就き審査員選定等の問題を考究其の決定を急ぎつゝあるが、審査員に帝国芸術院会員を加へることも考へられてゐるので、前年来之に反対を主張して来た旧帝展系の第二部会では七月二十二日夕丸之内マーブルに委員会を開催し、協議の結果同会としては飽く迄芸術院会員の鑑査に反対することとし、翌二十三日午後小林万吾、辻永の両委員代表として文部省本田学芸課長に面会、其の意向を伝へ尚過日発表された要綱中無鑑査出品寸法制限にも反対の旨を述べて当局の善処を要望した。

日本画会献画運動

1937年07月

日本画会では七月二十三日幹事会を開き協議の結果、同会顧問会員等一点宛の出品を集め、展覧会等の方法に依り売上げを国防献金とすることとした。

文部省人事異動

1937年07月

文部省専門学務局長は専任を欠いてゐた所、社会教育局長男爵山川健が七月二十一日附任命された。

オリンピツク東京大会場決定

1937年07月

昭和十五年に開催さるべきオリンピツク東京大会の主競技場建設に関しては、明治神宮外苑競技場改造、千駄ヶ谷拡張、郊外移行等の諸案が研究され、半歳に亙つて決定を見るに至らず幾多の困難を重ねて来たが、組織委員会の希望する外苑改造に就ては、予て反対意見を持してゐた内務当局も六月二十一日に至り条件を提示して容認する意向を示した。組織委員会は同二十二日常務委員会を開き右条件を承認の上許可願を提出、内務省の諮問に応へて之を審議すべく七月七日外苑管理評議委員会が開かれたが、更に若干の追加条件を附して承認することとなり、東京大会主競技場の外苑建設は総ての手続を経て七月十九日正式に決定された。改造に関する条件は大要左の如くである。 一、外苑競技場拡張に要すべき一切の経費は明治神宮に奉納すること、物価騰貴等の為予算超過の場合は更に追加奉納すること、一、スタンド総坪は七千五百坪以内、仮設スタンドを含み高さ七十尺以内、大会終了後は一部を取払ふこと、一、工事の設計並に施工は外苑管理署若くは内務省之を行ふこと、一、競技場の管理、使用に就ては絶対に条件を附せざること、一、東京大会延期若くは中止の場合に於ても外苑競技場として適当と認むる工事は完了すること、一、神社境内に於て行ふを不適当と認むる行為並に設備は之をなさざること、其の他

洋画家報国運動

1937年07月

鈴木千久馬の主宰する四元荘では岡田三郎助賛同の下に同研究所内に全美術家報国運動本部を設け飛行機献納の目的で絵具の空チユーブを集めること、寄贈絵画を以て展覧会を開き其の売上を献金することの運動を起すこととなり、七月十八日洋画家一般に勧誘状を発した。

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