日本漆芸院結成 

1936年05月

東京在住の有力な漆芸作家十七名に依つて新団体日本漆芸院が結成され、五月五日池の端雨月で其の披露会が催された。

美術公正会建言書提出 

1936年05月

美術公正会は昨年十二月展覧会改革に関する建言書を当時の松田文相に提出したが、同趣旨を再び文書にして五月五日平生文相宛提出した。其の案の内容は、展覧会を春秋二回に分ち、春季展覧会は文部省主催として鑑別した作品のみを陳列し、秋季展覧会は帝国美術院主催として、全美術界より銓衡した無鑑査作品のみを陳列すると云ふものである。

美術公正会帝院会員に進言 

1936年04月

美術公正会は美術界の紛擾を遺憾とし、其の責任と、之が粛正及び安定の任は帝国美術院会員に在るとして、四月二十八日長文の書面を印刷し各会員に送附した。

内藤伸意見書提出 

1936年04月

平生文相が各方面から意見書の提出されることを希望し、又美術界の紛争解決に就き何等かの方法を講ずる意向なることが、新聞紙上等に伝へられた為、美術界諸方面からの意見書提出は愈々盛になりつゝあるが、帝国美術院第三部所属の四会員、山崎朝雲建畠大夢北村西望内藤伸等の間でも之が提出を協議中の所、意見を纏めるに至らなかつた為、内藤伸は単独で意見書を作製し、四月二十五日郵便を以て平生文相宛に提出した。其の内容は帝展の機構を改めて、各団体より選出した作品を綜合陳列する所謂聯立綜合展たらしむる案であると伝へられる。

第三部会建議 

1936年04月

所謂旧帝展系彫刻家に依り新帝展に反対して組織された第三部会では、四月二十四日帝展を解消すべしとの意味を文書にして文部当局に建議した。

日本木彫会の会合 

1936年04月

所謂旧帝展系木彫作家の団体日本木彫会では、第一回帝展には殆ど全部の会員が出品せず、新帝展改革を希望してゐたが、四月二十三日池の端浜の家に会合を開いて協議した結果、従来の如き帝展に依存する立場を棄て、同会自身の確固たる基礎を定めることとし、来る五月東京府美術館で展覧会を開催すること等を決定した。

第一部会建白書提出 

1936年04月

既述の如く、第一部会では去る二月十三日総会を開いて文相に建白することを決議したが、其の後大事件の勃発、内閣の更迭等に依つて機を逸し延び延びになつてゐた所、愈々之を実行することとなり、四月二十三日午後、島田墨仙飛田周山野田九浦矢沢弦月勝田蕉琴の五名は同会代表として、平生文相を官邸に訪問し、会見の上、帝国美術院改組の欠陥其の他に就い て詳細なる意見を述べ、予てより同会の主張する試案並に長文の建白書を提出、文相の善処を要望した。

帝院第二部七会員意見書提出 

1936年04月

帝国美術院の第二部に属する会員、岡田三郎助中村不折藤島武二満谷国四郎和田三造南薫造中沢弘光の七名は、予てより昨年の帝国美術院改組及び新帝展に関し、不満足の意を蔵しつつ表面的には沈黙を続けて来たが、愈々帝国美術院及び其の展覧会問題に関する根本的な改革意見を纏めて之を意見書とし、四月二十三日郵便を以て平生文相に提出した。其の内容として伝へられる所に依れば、帝国美術院解消を第一案とし、之が不可能の場合は展覧会を帝国美術院より分離せしめ、帝展を廃して別に文部省主催の展覧会を開催すべきことを第二案とするもので、文展を開く場合には審査員は文部省が帝国美術院に諮り、其の会員以外の者から銓衡すべしと言ふものであることである。

聖徳記念絵画館壁画完成式 

1936年04月

明治神宮外苑聖徳記念絵画館の、明治天皇の御一代記を永久に伝へる壁画は、日本画洋画各四十枚合計八十枚の中、既に七十五枚は昨年迄に奉納され、大阪行幸諸藩軍艦御覧(岡田三郎助)、東京帝国大学行幸(藤島武二)、憲法発布式(和田英作)、神宮親謁(松岡映丘)、内国勧業博覧会行幸啓(結城素明)の五図を残すのみであつたが、是等諸家の努力に依つて漸く完成を見たので、四月二十一日明治神宮奉賛会総裁閑院宮載仁親王殿下台臨の下に、同館に於て厳かな完成式が挙げられた。 午後一時三十分殿下には奉賛会会長徳川家達公以下役員、奉納者、揮毫者の奉迎裡に御着、奉賛会役員の外、奉納者総代、揮毫者総代に賜謁あつて後親しく壁画を御巡覧遊ばされた。午後二時三十分中央ホールの式場に台臨、役員、奉納者揮毫者参列して式が挙げられ、左の令旨を賜はり、壁画揮毫者総代藤島武二に御目録を下賜、壁画奉納者を代表して徳川圀順公、揮毫者を代表して和田英作の奉答あり、徳川会長の挨拶で式を終つた。次で同館階下西側広間で参列者一同に賜餐あり、総裁宮殿下には午後三時二十分御帰還遊ばされた。 「令旨 明治神宮外苑聖徳記念絵画館ノ壁画完成ヲ告ケ本日茲ニ其ノ丹精ヲ尽シ精巧ヲ極メタル跡ヲ覧ルハ予ノ殊ニ満足スル所ナリ惟フニ壁画ノ事企テラレシヨリ既ニ十有余年ヲ経タリ其ノ間ニ於ケル画家苦心想察スルニ余アリ今ヨリ以往此館ニ出入スル者必スヤ髣髴トシテ明治盛世ノ事跡ヲ回顧シ祭神ノ御遺徳ヲ仰慕シ以テ益々報効ノ念ヲ固クスヘキヲ疑ハス而シテ四壁ノ絵画亦千歳ニ亙リテ不朽ナルヲ得ン一言以テ感喜ノ意を表シ併セテ深ク奉納者諸子ノ志ヲ多トス 昭和十一年四月二十一日」 聖徳記念絵画館は明治神宮奉賛会の主要なる一事業として計画せられ、絵画の作製に就ては大正五年絵画館委員及同顧問を嘱託して先ず画題の選定に着手、慎重な審議に六年余を費し同十一年六月に八十題を決定、同十二年絵画委員会の外 日本画家洋画家各六名より成る壁画調製委員会成立、揮毫者の選定其の他の審議に当り、爾来七十六名の担当画家を決定夫々執筆に従事してから十二年を経て全部の完成を見たものである。揮毫者の中業半にして物故し、後継者又は他の画家に完成を譲つたもの、児島寅次郎、平福百穂、小堀鞆音、葛谷竜岬、吉川霊華、石橋和訓、長原孝太郎の七名を数へ、完成後故人となつた画家も数名に及ぶ。画題、揮毫者及奉納者は左の通りである。 揮毫者 奉納者 一、御降誕 高橋秋華 侯爵中山輔親 二、御深曾木 北野恒富 男爵鴻池善右衛門 三、立親王宣下 橋元永邦 三菱合資会社 四、践祚 川崎小虎 侯爵池田宣政 五、大政奉還 邨田丹陵 侯爵徳川慶光 六、王政復古 島田墨仙 侯爵松平康荘 七、伏見鳥羽戦 松林桂月 侯爵毛利元昭 八、御元服 伊東紅雲 侯爵近衛文麿 九、二条城太政官代行幸 小堀鞆音 男爵三井八郎右衛門 一〇、大総督熾仁親王京都進発 高取稚成 侯爵蜂須賀正韶 一一、各国公使召見 広島晃甫 侯爵伊達宗彰 一二、五箇条御誓文 乾南陽 侯爵山内豊景 一三、江戸開城談判 結城素明 侯爵西郷吉之助/伯爵勝精 一四、大阪行幸諸藩軍艦御覧 岡田三郎助 侯爵鍋島直映 一五、即位礼 猪飼嘯谷 京都市 一六、農民収穫御覧 森村宜稲 侯爵徳川義親 一七、東京御著輦 小堀鞆音 東京市 一八、皇后冊立 菅楯彦 大阪市 一九、神宮親謁 松岡映丘 侯爵池田仲博 二〇、廃藩置県 小堀鞆音 侯爵酒井忠正 二一、岩倉大使欧米派遣 山口蓮春 横浜市 二二、大嘗祭 前田青邨 伯爵亀井茲常 二三、中国西国巡幸長崎御入港 山本森之助 長崎市 二四、中国西国巡幸鹿児島著御 山内多門 鹿児島市 二五、京浜鉄道開業式行幸 小村大雲 鉄道省 二六、琉球藩設置 山田真山 首里市 二七、習志野之原演習行幸 小山栄達 侯爵西郷従徳 二八、富岡製糸場行啓 荒井寛方 大日本蚕糸会 二九、御練兵 町田曲江 十五銀行 三〇、侍講進講 堂本印象 台湾銀行 三一、徳川邸行幸 木村武山 公爵徳川圀順 三二、皇后宮田植御覧 近藤樵仙 公爵一条実孝 三三、地方官会議臨御 磯田長秋 公爵木戸幸一 三四、女子師範学校行啓 矢沢弦月 桜蔭会 三五、奥羽巡幸馬匹御覧 根上富治 日本勧業銀行 三六、畝傍陵親謁 吉田秋光 男爵住友吉左衛門 三七、西南役熊本籠城 近藤樵仙 侯爵細川護立 三八、内国勧業博覧会行幸啓 結城素明 侯爵大久保利和 三九、能楽御覧 木島桜谷 男爵藤田平太郎 四〇、初雁の御歌 鏑木清方 明治神宮奉賛会 四一、グラント将軍と御対話 大久保作次郎 子爵渋沢栄一 四二、北海道巡幸屯田兵御覧 高村真夫 北海道庁 四三、山形秋田巡幸鉱山御覧 五味清吉 男爵古河虎之助 四四、兌換制度御治定 松岡寿 日本銀行 四五、軍人勅諭下賜 寺崎武男 公爵山県伊三郎 四六、条約改正会議 上野広一 侯爵井上勝之助 四七、岩倉邸行幸 北蓮蔵 東京商業会議所 四八、華族女学校行啓 跡見泰 常盤会 四九、東京慈恵病院行啓 満谷国四郎 東京慈恵会 五〇、枢密院憲法会議 五姓田芳柳 公爵伊藤博邦 五一、憲法発布式 和田英作 公爵島津忠重 五二、憲法発布観兵式行幸啓 片多徳郎 日本興業銀行 五三、歌御会始 山下新太郎 宮内省 五四、陸海軍大演習御統監 長原孝太郎 名古屋市 五五、教育勅語下賜 安宅安五郎 茗渓会 五六、帝国議会開院式臨御 小杉未醒 貴族院、衆議院 五七、大婚二十五年祝典 長谷川昇 華族会館 五八、日清役平壌戦 金山平三 神戸市 五九、日清役黄海海戦 太田喜二郎 大阪商船株式会社 六〇、広島大本営軍務親裁 南薫造 侯爵浅野長勲 六一、広島予備病院行啓 石井柏亭 日本医学会/日本医師会 六二、下関講和談判 永井秀太 下関市 六三、台湾鎮定 石川寅治 台湾総督府 六四、靖国神社行幸 清水良雄 第一銀行 六五、振天府 川村清雄 公爵徳川家達 六六、日英同盟 山本鼎 朝鮮銀行 六七、赤十字社総会行啓 湯浅一郎 日本赤十字社 六八、対露宣戦御前会議 吉田苞 公爵松方巌 六九、日露役旅順開城 荒井陸雄 関東庁 七〇、日露役奉天戦 鹿子木孟郎 南満洲鉄道株式会社 七一、日露役日本海海戦 中村不折 日本郵船株式会社 七二、ポーツマス講和談判 白滝幾之助 横浜正金銀行 七三、凱旋観艦式 東条鉦太郎 海軍省 七四、凱旋観兵式 小林万吾 陸軍省 七五、樺太国境劃定 安田稔 日本石油株式会社 七六、観菊会 中沢弘光 侯爵徳川頼貞 七七、日韓合邦 辻永 朝鮮各道 七八、東京帝国大学行幸 藤島武二 侯爵前田利為 七九、不予 田辺至 東京府 八〇、大葬 和田三造 明治神宮奉賛会

主線美術協会結成 

1936年04月

過般東光会を脱退した洋画家達を中心として組織された主線協会と、彫刻団体塊人社とは、「日本美術界に正しく処する態度に於て、全面的に一致し、且つ洋画、彫刻相互の研究啓発が団体としての芸術運動強化のためにも、作家の個人完成のためにも、より有意義である事を認め、茲に両者合一して新たに主線美術協会を創立」(同会趣意書)し、四月十四日新宿白十字で発会式を挙げた。絵画部二十七名、彫刻部十八名の会員より成る。 尚塊人社は彫刻研究団体として昭和四年創立されたが、「今回の合同に於て、塊人社従来の主義主張は何等の変更を見ることなく、その侭、主線美術協会の主義主張となつて生き、寧ろ益々その強化拡充に向つて邁進する事に」(同社挨拶)なつたとして、自然消滅したものである。

帝院第一部三会員協議 

1936年04月

予てより所謂帝展不開催、或は再改組の意見を抱く帝国美術院会員松岡映丘荒木十畝両名は、四月十一日午後湯河原に竹内栖鳳を訪問し、帝展改革に関する意見を交換し、種々協議を遂げた。此の協議に先ち竹内栖鳳は再改組に対する根本的態度を明かにしたとして、四月十二日附報知新聞は左の如く伝へた。 「漫然と帝展不開催を唱へるのは破壊のための破壊で自分の取らざるところである、次の建設を目指しての破壊でなくてはならない・・・・・・いやしくも帝国美術院会員たる者が改革意見を出すからには、後進出品画家の方向を考慮してやらなくてはならぬ、単なる不開催意見、解消論であつてはならぬ、あくまで官展の機構を尊重したものでなくてはならぬ、ただこれだけのことだが、これは一歩も譲らぬ、帝展の現状ではいけないといふことについては信念を持つてゐる、事実統制のとれなかつた帝展を支持するためには横車を押しても厭はぬ会員達を反省させ、聴従させなくては止まぬものである、私の意見は『論理は穏健だが、信念は固い』のである、統制の取れない帝展を統制の取れるやうにしようといふ穏健な案を提出して、それでも文部当局や帝展支持会員連が横車を押してこの案を葬らうとするなら、その時はまた何をかいはんやである、意見の一致を見ないが故に止むなく帝展不開催、あるひは廃止となるなら、その時は現状を維持して行かうといふ会員たちに帝展滅亡の責は帰せらるべきである」云々

シドニー国際美術展覧会出品 

1936年04月

濠洲シドニーの国立美術館では、本年七月各国の出品を求めて国際借款美術展覧会を開催することとなり、予て外務当局を通じて我が国にも現代美術を代表する絵画及び工芸品の出品を、点数を予定して依頼して来たので、文部、商工当局及び国際文化振興会等で協議の上同会の事業として之に応ずることとなり、出品の銓衡中であつたが、絵画六点、工芸品十二点、合計十八点を決定し、四月十三日横浜発の加茂丸でシドニーに向け発送した。品目は左の通りで、絵画は文部省所蔵、工芸品は商工省所蔵品中より貸し出したものである。 日本画 窈冥(荒木十畝)、カンナ(常岡文亀)、夕(三谷十糸子)、母子(上村松園) 洋画 裁縫女(小磯良平)、夏の内海(金山平三) 工芸 方形狂獅子模様刀漆画香盆(六角紫水)、布目象眼鋳銅瓶掛(香取正彦)、拘橘模様漆器手箱(真鍋光男)、陶試紅磁染附花瓶(商工省陶磁器試験所)、御所車桜模様花瓶(香蘭社)、真葛焼磁製青海波彫色附遊鯉図花瓶(宮川香山)、「引阮長鳴」鋳銅置物(津田信夫)、鉄刀木飾壷(稲木春千里)、花籠(飯塚琅?斎)、つづれ錦花輪図四曲屏風(川島甚兵衛)、振袖キモノ(高島屋)、カキツバタの図袋帯(竜村平蔵)

建築学会創立五十周年記念講演会 

1936年04月

建築学会では四月九日を以て同会創立五十周年記念日に相当する為、同九日及十日に亙り祝賀会、記念放送、記念講演会等を催し、又同一日から十日迄帝大建築科教室及び建築会館で記念展覧会を開いた。

オリンピツク芸術競技参加 

1936年03月

今夏ベルリンに開催の第十一回国際オリンピツク大会芸術競技に参加の為、大日本体育芸術協会では昨年来準備中であつたが、東京科学博物館に一般参加希望者の出品を求めて三月十六日其の審査を行つた。出品総数百九十三点の中、日本画三点、洋画十一点、版画十五点、彫塑一点、合計三十点を入選と決定、此の外に審査員等無鑑査の作品を加へて都合絵画六十三点、彫刻十一点、建築五点、総計七十九点が競技に参加することとなつた。是等の出品は三月二十九日から四月三日まで東京府美術館で国内展覧会開催、同十二日横浜出帆の照国丸でベルリンに向け発送された。尚造型芸術の外、今回からは音楽も参加した。日本より出品の目録は左の通りである。 絵画 犬追物 伊藤竜涯 印地打 伊藤竜涯 羽根つき 伊藤鈴子 鞠つき 石田重子 打球 太田天洋 相撲 太田秋民 駒競 荻生天泉 水泳 加藤栄三 釣り 山田申吾 バスケツト 間宮正 アイスホツケー 藤田隆治 雪合戦 小林立堂 競泳 佐藤永芳 射弓 岩淵芳華 スキー 三浦文治 少年氷走 東山魁夷 古典的競馬 鈴木朱雀 征服 石丸一 柔道 豊藤勇 群像B 陳? ゴール前 加藤隆久 柔道 金子博信 マラソン 神田周三 二ツのフオルム 高田力蔵 薙刀 高根沢政子 剣道 鶴田宏 自転車練習 中出三也 薙刀 中村琢二 タツクル 浪江勘次郎 ドリブル前 倉田三郎 用意 草光信成 スタート 草光信成 相撲 山本徳生 テニス 山本徳生 排球 後藤繁喜 日本の女性 古淵正信 パチナージユ 海老原喜之助 版画 水泳 石井鶴三 雨中競争 石井鶴三 射的 猪熊弦一郎 フツトボール 伊勢正義 櫓 硲伊之助 アイスホツケー戦 春村ただを スケーテイング 春村ただを オリンピツクの眺 脇田和 村童野球戯の図 川上澄生 スキーの人々 田坂乾 高跳 長坂春雄 合同競争 棟方志功 市民体操 棟方志功 鉄槌投 山口進 女子砲丸投 山口進 ジヤンプ 前川千帆 ゴルフ 古川竜生 タツクル 深沢索一 相撲 深沢索一 学生相撲 小磯良平  学生相撲 小磯良平 スケート 小林朝治 スキー 小林朝治 跳ぶ 児玉篁 競馬 荒井東留 スキー 佐藤敬 彫刻 馬場に出た嬉しさ 池田勇八 打球 池田勇八 スタート 畑正吉 横綱両構 長谷川義起 国技 長谷川義起 ゴルフ 長谷川義起 バトンタツチ 宮島久七 木練坊 日名子実三 流鏑馬 日名子実三 工芸 仕切 長谷川義起 硯屏 清水亀蔵 建築 野球塔 石川純一郎 野球塔設計図 石川純一郎 プール 内田祥三 弓場 内田祥三 日本のゴルフ 岸田日出刀

エコールド東京組織 

1936年03月

洋画の最尖端を目指す青年作家達に依つて、合同的な新団体エコール・ド・東京が組織され、三月二十九日発会式が挙げられた。

平生文相就任 

1936年03月

広田内閣成立後内務大臣潮恵之輔が文部大臣兼任中であつたが、三月二十五日附を以て平生釟三郎が文部大臣に任ぜられた。 尚文部大臣秘書官として岩井尊人が三月二十七日附任命された。

彩々会結成 

1936年03月

八名の洋画家が三月新団体彩々会を結成した。

長谷川昇春陽会脱退 

1936年03月

春陽会々員長谷川昇は三月二十四日、拘束なき自由な境涯にあつて芸術に精進したいとの意味の声明を発し、春陽会を脱退した。

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