第一部会文相案賛成 

1936年06月

第一部会では平生文相の展覧会試案に就き態度を決する為、六月八日夜新橋東洋軒で会合を開き、協議の結果之に賛成することとなり直に建白書を作製、翌九日代表者が文相を訪問して之を提出した。

東台邦画会有志文相案賛成 

1936年06月

東京美術学校日本画科卒業生の組織する東台邦画会の有志は、六月六日夕同校倶楽部に会合し、平生文相が帝院会員懇談会に提示した展覧会試案に就き協議した結果、一同之に賛成して支持することゝなり、其の旨を文書として文相に提出することに決定、九日代表等は文相官邸を訪問し建白書を提出した。

文相主催帝院会員懇談会 

1936年06月

平生文部大臣は就任以来帝展問題を中心とする美術界の紛争解決に関心を持ち、特別議会等で多忙中にも拘らず諸方面の意見を徴し収拾策を考究中であつたが、漸く成案を得たので帝国美術院総会開催に先ち、六月四日文相官邸に帝国美術院会員懇談会を催した。会は第一部、第二部、第三部及び第四部の分科別に三回に分けて開かれ、清水院長を座長とした懇談会の形式で、席上文相より展覧会開催方法其の他に関する改革の試案を提示し会員の考慮を求めた。尚其の他に現代美術館建設、帝国美術院会員の増員等を実現する意志ある旨を発表した。之に対し会員の意見交換が行はれたが即答はなさず、各自文相案に対して十分考究することとなつた。

挿絵倶楽部著作権法に関し決議 

1936年05月

過日設立された挿絵画家の団体挿絵倶楽部では、挿絵の著作権が一般に尊重されて居らぬことを遺憾として、「著作権法中に挿絵に関して明確なる条文を加へられんこと」を希望する旨を決議し、五月二十八日著作権審議会宛に其の決議書を提出した。

京都三会員意見書提出 

1936年05月

京都在住の帝国美術院会員、西山翠嶂西村五雲土田麦僊の三名は、五月二十四日連名を以て意見書を平生文相に提出し、竹内栖鳳と同意見なる旨を明らかにした。その内容として伝へられる所に依れば、 一、帝国美術院は美術に関する最高諮問奨励機関とす。 一、美術展覧会は帝国美術院より分離し文部省これに当る。 一、美術展覧会は各美術団体聯立の機構による。 一、参与、指定、附則の階級別を改む。 とするものである。

汎太平洋博に対し洋画家建言 

1936年05月

明春汎太平洋博覧会が名古屋に開催され、其の事業として大美術展覧会が開かれる予定であるが、之に対して同市在住の洋画家達四十余名は会合意見を交換し、其の中の二十余名は更に五月十九日協議を重ねた結果 一、諮問委員会の設置方を早急に実現されたい。 一、同委員は名古屋在住者を主体とすること。 一、同展無鑑査出品は二科、国展、二部独立、春陽の各会員及び会友以上(旧帝展は特選以上)と内定せられたいこと。 の三項を市当局に要望することとし、二十日伊藤鎌、中野安治郎、魚津良吉の三名が市を訪問して之を提出した。(新愛知五・二一に依る)

第二部会批判書提出 

1936年05月

第二部会では五月十三日委員会を開き、美術界の問題に関する同会の意見を批判書として文部大臣に提出することを協議したが、同十七日夕丸の内マーブルに総会を開催し、批判書の草案を可決し近く之を平生文相宛に提出することとした。 其の内容は帝国美術院改組の経緯及び其の後の事態を批判し、帝国美術院解消を力説した長文のもので、会員全部の連名に成るものの由である。

美術展覧会場都心建設運動 

1936年05月

主要美術団体を網羅した東叡会所属の二十七団体では、現在の東京府美術館は「大衆観覧者を対象とする展覧会場としては、地の利を得ざるのみならず、その構造に於ても適当ならず」として同館を「常設美術館として、その意義あらしむることを望むと同時に、都心丸の内附近に一大展覧会場を設立」せんとする希望から、其の実現運動を起すこととなり、五月十六日夜丸の内マーブルで右団体代表者等の会合を開いて協議し、実行委員として左記二十五名を挙げた。 石川寅治、今井滋、岩佐新、梅原竜三郎太田三郎川端竜子、垣見宣修、木村荘八熊岡美彦小島善太郎坂井犀水、斎藤素巌、佐藤哲三郎、笹鹿彪田口省吾、田中咄哉州、富田温一郎、中出三也、藤岡一藤本韶三、甫喜山義夫、益田義信望月省三、湯原柳畝、吉田白嶺

挿絵倶楽部組織 

1936年05月

挿絵画家が団結して新団体挿絵倶楽部を組織し、五月十六日午後六時丸の内マーブルに四十余名会合、其の結成式を挙げた。

和田英作意見書提出 

1936年05月

帝国美術院会員和田英作は、単独で意見書を作製し、五月十六日平生文相宛に提出した。「帝国美術院現下の諸問題に関する意見書」と題する長文のもので、章を分つて改組以来の情勢と展覧会其の他の問題に関する批判を敘し、既定方針の大網を動かしてはならぬ旨を力説したもので、其の結論を抄出すれば、左の通りである。 「帝国美術院は既定方針に基き、其の大綱を断じて変更することなく邁進して以て其の理想とする使命の実現に努むべし。之を支持する者に対しては固より、反対せる者に対しても、斯くして初めて国家施設に対する信頼と敬意とを抱かしむるの道なりと言ふべし。現在行はるる反対意見、若くは根本的再改革意見の殆ど全部は、公正なる理想と大局に通ずる識見より出でたるものにあらず。主として私情に基き、感情的乃至利己的浅見、若くは誤解に出発したるものと認められ、且つ其の理論の傾聴に値するものあるを知らず。 固より制度は時世の進運に伴ふべきものなるを以て、帝国美術院の現行制度が永久に適当なりとするものにあらざるは言を俟たず。唯今日に於て動揺を収拾することを目的とし、応急的妥協の方策を立てゝ既定方針を動かすが如きことあらんか、必ずや大局を危殆に陥らしめ安定の目的を達し得ざるのみか、一層其の紛糾を誘致する結果を見るの他なかるべし。動揺を鎮め、美術界を明朗ならしむるの道は一に既定方針の貫徹にあり、而して政府当局の厳然たる態度と帝国美術院の公正なる運用とを以て其の要旨となす。展覧会制度に関しては、大綱は之を動かすべからず。唯、開催方法其の他の細目に就きては考究の上若干の改善を為す余地あるべく、是等は会員会議に於て協議の上、帝国美術院自ら決定すべき事項に属せり。尚展覧会の問題を中心として会員間に存在する再改革等の意見に就きても、姑く之を院内の問題として、会員会議に於て、公明なる方法に依り協議を遂ぐべきものなりと思惟す。」

竹内栖鳳意見書提出 

1936年05月

帝国美術院会員竹内栖鳳は、予てより湯河原に在つて帝展改革に関する意見書の草案を練つてゐたが、愈々之を完成して、五月十六日郵便で平生文相宛に提出した。其の要旨は大略左の如きものである。 (一)昨年の帝国美術院改革は美術界総体の幸福と円満なる発展のための自覚が極めて貧弱であつた。殊に帝国美術院が直ちに展覧会に関聯を有つ現時の機構に於いては到底思慮ある改革とは考へ得られない。其の意味に於て帝国美術院とその展覧会は分離すべきものである。 (一)昨年の改革案及びその実施は各方面に相当の無理が押されたやうで、之は文部省の権威で成立し且つ押し続けられたが、斯かる権威なくとも成立し且つ実行し得る改革でなければならぬ。 (一)無鑑査に関する新規定は何等の改革でなく旧帝展の余弊を套襲するに等しい。然も多数決によって参与、指定、附則などに分類することは作家の社会的資格を無慈悲に公表し、それ等作家の発展や将来性を人為的に封殺する如き観を呈する。 (一)美術は常に流派等を異にする各団体が対抗して各自特色を練磨して発達するものである従つて文部省が美術を奨励する要点もこれ等諸団体の存立を認め、これを統括的に管理扶育することに在るべきで、之が自分の官展改革の理想であり私案である。

衆議院に於ける質問 

1936年05月

開会中の特別議会衆議院予算第二分科会で、五月十四日委員大口喜六は美術問題に関する質問演説をなし、平生文相との間に一問一答を行つた。大口委員の意見に依れば現在の状態では帝国美術院設置の目的を達せられぬから、英断を以て根本から之を建直すべしと言ふのである。

帝院第二部五会員意見書提出 

1936年05月

帝展の問題に関して、是れ迄に提出されてゐる意見書は、総て所謂旧帝展系の作家、或は世間で不開催派と呼ぶ旧帝院以来の会員に依つて唱へられる所の所謂再改組意見であつて、新帝展支持の意見を有する会員等は、何等発言する所が無かつたのであるが、世論も多く再改組を当然と認めるやうになつた情勢に鑑みて、帝国美術院第二部所属の会員、石井柏亭有島生馬安井曽太郎山下新太郎梅原竜三郎の五名は、五月七日連署の意見書を平生文相宛に提出して所信を明らかにした。その要旨として伝へられた所は左の通りである。 「第二部旧会員の主張する帝国美術院解消論は越権の沙汰である。新帝展不開催を唱へることは初めの総会で決定した決議に反するばかりでなく春の帝展は第一回展の半分をすましただけであるから秋の分も開き一通り第一回展を終つたうへ初めて新帝展の欠陥を云々すべきであらう、帝院から展覧会を切り離して文部省展を開き審査員を別に任命することは旧帝展時代の弊害を再び繰り返すことであるから展覧会はあくまで帝院で行ひ会員が審査に当るべきである、今秋の洋画展は或は綜合の実には欠くるかも知れぬが春の帝展の成績をみると既に旧帝展改革の一つの目的たる情実打破は実現されたと見てよい、以上の理由から新帝展はあくまで続行し最初の目的に邁進すべきである。」

帝院第一部四会員意見書提出 

1936年05月

帝国美術院第一部に属する会員小室翠雲荒木十畝松林桂月松岡映丘の四名は、予て帝展改革案を練りつつあつたが、帝国美術院総会の時期も近く予想されるので、愈々具体案を纏めて意見書を文相に提出することとなり、病気中の松岡を除く右三名は四月二十八日午後芝紅葉館に会合して協議を重ね、其の後竹内栖鳳とも打合せたが同人は近く単独に意見書を出すことゝなつた為、更に五月五日午後右四名は赤坂あかねに集合して案を練つた結果漸く意見書の草案を決定した。其の内容は、 一、帝国美術院は日本美術の最高諮問機関とし併せて美術の奨励補助をなすこと 一、帝国美術院自体に於いては展覧会を開催せざること 一、展覧会は民間美術団体聯立の形式に於いて文部省之を主催すること としたもので、之に旧帝展以来の欠陥を指摘した理由書を附したものであると伝へられる。 此の意見書は右四名の署名に成り、松岡が代表となつて五月七日平生文相に之を提出した。

マドリツド日本現代版画展覧会 

1936年05月

日本版画協会の海外出品事業の一つ、マドリツドに於ける日本現代版画展覧会は、外務当局の尽力と同国関係当局の斡旋とに依つて五月六日から約一ケ月間同市現代美術館で開催され、大統領初め多数の来賓参観者あり、好評を得た。

漆芸会解散 

1936年05月

正木直彦を会頭とし明治三十一年創立以来の歴史を有する漆芸会は、既に其の目的を略果したものとして、前項日本漆芸院の結成と同時に解散することゝなり、左の声明を発した。 「明治聖代の中期に於ける近代美術工芸変遷の黎明期に当時の新人層によつて創立され、大正時代を経て現代に至つた本会が、その不短過去に斯界へ対して成し得たる業跡は尠しとしない。其間社会の支持と先輩の鞭撻並に会員の熱意努力は不断の研究会を続け数十回に渉る展覧会に研鑚して向上に励み幾多の人材を世上に送り出した。蓋し帝都に於て漆工芸の現在を荷負つてゐる大多数の中堅作家を登竜せしめた事は斯界のため誇るに足るべき貢献と謂ふべきである。今や初期以来希望せる漆芸会としての目的に略到達したるを以て此時を劃し時勢を洞察して茲に潔よく解散を決したのである。解散に臨んで数多の功労ある先輩や社会の支援に深甚の感謝と敬意を表する次第である。」

to page top