美術公正会声明 

1936年06月

美術公正会は六月十七日左の声明書を発した。 「今般平生文相によつて提示されたる帝展制度再改正の試案は、曩に本会より文相に提出したる試案と略合致するを以て、賛意を表するものなるも、是は全美術界総意の上に於て実施せられてこそ意義あるものにして、帝院が一方的存在となりたる場合は、本会の主張に反するによりこれが実行に対しては首肯し能はざるものなり。右声明す。」

東台邦画会有志陳情書提出 

1936年06月

曩に文相試案賛成の意見書を提出した東台邦画会の有志は、其の後従来の帝展第一部一般出品者等二百余名の賛同を得たので、文相宛の陳情書を作成し、六月十六日代表者等が文相官邸を訪問提出した。其の要旨として伝へられる所は左の如くである。 「御試案中特に春秋二分案に対する我々の陳情を諒とせられたことは我々の深く感激する所であります、我等一般出品者の為今秋の鑑査展を実現せられたく総会の決議を以て陳情する次第であります。」

人形製作家建白書提出 

1936年06月

人形製作家の団体日本人形社、人形甲戌社、人形制作社、日本人形研究会では、平生文相の試案に対し賛成支持を表明することに一致し、六月十六日右四団体の顧問西沢笛畝が文部省に出頭建白書を提出した。

藤川勇造思ひ出の会 

1936年06月

六月十五日は故藤川勇造の一周忌に相当する為、故人の親友達が発起して遺族を招じ午後七時半から味の素ビルのアラスカで思ひ出の会を開いた。出席者は約二百名に及ぶ盛会であつた。

第二部会委員会 

1936年06月

第二部会では六月十五日夜丸之内マーブルで緊急委員会を開き、同会の態度に就き協議した結果 一、第二部会は解散せざること 一、近く総会を開いて協議した上文相試案に対する意見書を提出すること の二項を決定した。

文部当局展覧会準備 

1936年06月

帝国美術院会員十余名の辞表提出に依つて同院の総会開催は不可能に陥り、既定の帝展も今秋開くことが出来なくなつたが、残留会員中には所謂不開催派多く、又平生文相の試案に対しても之を支持せんとするものが多数である為、文部省では大体文相案に基く展覧会を同省主催として開く方針を執ることとなつた。其の為に猶諸方面の意見書を蒐むる一方、六月十五日には岩井文相秘書官が主要美術団体代表として、益田玉城(第一部会)、辻永(第二部会)、児島善三郎(独立美術協会)、熊岡美彦(東光会)等を文相官邸に招いて夫々の意向を聴取し文部省展覧会への協力を希望した。

日本美術院同人帝展参与指定等辞退 

1936年06月

日本美術院同人中藤井浩祐を除く帝院会員は総て辞表を提出したが、帝展参与及び指定の作家等も其の態度に倣ふこととなり、六月十三日協議の結果 参与 小川芋銭中村岳陵木村武山石井鶴三 指定 大智勝観山村耕花荒井寛方北野恒富喜多武四郎新海竹蔵大内青圃 の十一名は連袂して参与指定辞退の手続を取つた。斯くして日本美術院は全く帝国美術院及び帝展と絶縁する態度を明かにしたものである。

京都日本画家意見書提出 

1936年06月

京都在住の竹内栖鳳一門に属する堂本印象、石崎光瑶、小野竹喬中村大三郎金島桂華、山口華揚、福田恵一森守明、池田遥村の九名は、六月十三日夜竹内邸に集合協議した結果、平生文相の試案に賛成して之を支持することに決し、同夜左の如き意見書を文相宛に電送、京都画壇多数の態度を明かにした。 「意見書 六月四日帝国美術院会員各分科別懇談会に於ける閣下の御説明の要旨は現下の我美術界の円満解決への為の深甚なる御考慮が窺はれ吾々一同厚く感謝する所以であります、固より細部に亙つては尚考慮すべき個所もあることと思ひますが其の本幹に於いて賛意を表するものであります、庶幾くば閣下並に帝国美術院諸先生の善処に依り一刻も早く明朗なる美術界の出現を念願するものであります。 竹杖会、青甲社、西村塾、堂本塾、中村塾、石崎塾(以上三百三十七名)

第一部会総務会 

1936年06月

六月四日の会員懇談会に提示された文相の試案は其の後主要美術団体に対しても当局より提示し之に対する答申を慫慂してゐたが、第一部会では十三日午後六時から新橋東洋軒に総務会を開いて答申案を協議した。

平生文相声明 

1936年06月

六月十二日帝国美術院会員十六名が辞表を提出したことは、帝展問題の解決に頓挫を来し、帝国美術院の将来にも多大の危惧を感じさせるに至つたが、同十三日午後一時平生文相は談話の形式を以て、左の如き声明を行つた。 「自分のこの際考ふるところは日本美術の真の発達振興に適し有力なる美術家大多数の希望に合致することであつて又新進有為の美術家を鼓舞激励しその将来の大成に資するやうな方法の確立を希望してゐる。これがために虚心坦懐慎重なる態度をもつて種々の状況を考慮し又充分各方面の意見を聴き、その協力一致の下に最善と信じられる方策を樹立せんことを期してゐる、なほ自分として秋の展覧会の開催せられることを期待してゐる。」

小室翠雲辞表提出 

1936年06月

帝国美術院会員小室翠雲は六月十二日前記会員等が辞表を提出したことを知つて、別個の見解から同様辞職を決意し、同日午後会員の辞表を院長宛提出した。其の理由は、文相試案は展覧会開催のみを重視して美術奨励機関としての帝国美術院本来の使命を没却し重要な鑑査問題にも触れてゐず、予てより意見書として提出した理想は全く容れられず今後如何に協調しても到底相容れない。且つ多数会員の辞職した今日ではむしろ速に一切を解消しておもむろに時の至るを待つ方がよい。といふものである。

川端竜子辞表提出 

1936年06月

帝国美術院会員川端竜子は同じく六月十二日会員の辞表を院長宛提出した。独自の理由に依る所から前項の声明書には名を連ねなかつたものである。其の談として伝へられる所は左の如くである。 「今回文部大臣から示案された帝展再改組の件につきましては会員として来るべき総会で審議協定すべき責任を感じてゐましたところ本日前改組に当つて在野団体から共に任命された多数会員が辞任されるに至りました。色々と私も熟慮した末事既にここに至つては当局の意図さるゝ企画とは相距ることの遠いものであると同時に私の新帝展への意念も別個のものとなつてしまひました、甚だ遺憾ながら右のやうな理由で美術院会員を辞任するに至つた次第です。」

帝院十四会員辞表提出 

1936年06月

六月四日文部大臣主催に依る懇談会開催後、会員の間では文相提出の試案に就いて種々考究されつゝあつたが、六月十二日に至り、第一部に属する川合玉堂菊池契月鏑木清方橋本関雪富田渓仙横山大観、安田靭彦、前田青邨小林古径、第二部和田英作梅原竜三郎、第三部佐藤朝山、平櫛田中、第四部富本憲吉合計十四名の会員は夫々辞表を提出し、同夜連名を以て左の如き声明書を発表、其の理由を明にした。 「不肖等さきに帝国美術院改組の趣旨に賛成し文部当局の懇請に応じて会員の任命を受け爾来全力を挙げて新帝院の使命達成に尽瘁し総会の決議に基きて今春その第一回展覧会を開催し十分の成績をもつて当局の信任に応ふるを得たりと確信せり然るに偶々文部大臣の更迭に曾し未だ既定の秋期展覧会の開催も見ざるに当局の方針突如として一変し改組以来の経過と厳たる院議の決定とを無視し不肖等の絶対支持をも顧みず新大臣は曩に帝国美術院が天下に公約したる展覧会の構成を破棄することを前提とし全く改組の趣旨を没却せる試案を提示するに至れるは不肖等の甚しく遺憾とするところにして不肖等は新当局の到底信頼すべからざるを確認し茲に会員の職を辞するものなり。 昭和十一年六月十二日 橋本関雪富田渓仙富本憲吉和田英作川合玉堂鏑木清方横山大観梅原竜三郎、安田靭彦、前田青邨小林古径、佐藤朝山、菊池契月平櫛田中

春陽会文相案賛成 

1936年06月

春陽会では六月十一日夕青山辰好軒で委員会を開催し、平生文相の試案に就き協議の結果、之に賛意を表することとなり、同十二日左の声明書を各方面に送附した。 「政府展試案に対する春陽会の声明書 平生文相が六月四日美術院会員懇談会にて説明せる政府展試案(その説明要旨プリントに依る)に対して意見を述べこれについての春陽会の立場を明らかにします。 一、春陽会の性質 春陽会は従来満十五年民間団体として自営して来た会で、今後も亦、会員の存続する限りいつ迄も民間団体として自営独立して行く一つの展覧会団体です。政府展の成立有無に拘らず右は変りません。 二、文相の政府展試案に対する春陽会の主意春陽会は夙に昭和十年九月試案を提出した通り、綜合展が成立するについては大いに協賛の立場ですから、政府展が綜合大同を意とする限りこれに賛成支持します。 三、その方法について 政府展試案は仮りにその開催を春秋二季とする招待展と鑑査展に分れてゐますが、この分割案乃至その主催別の大案については賛成です。 四、招待展について この被招待資格は、試案に従ふと未だ範園明らかならざるも、若し旧帝展の無鑑査が全部復活する等の場合があれば、春陽会は会の銓衡したる会友の全数迄右資格の中に含まる可きことを主張します。 五、鑑査展について 春陽会本来の意見としては、文部省がこの鑑査委員を求むる場合は美術院に諮ると同時に在野団に諮る可く、在野よりこの依嘱を受ける者は美術院に依つて銓衡される性質よりも各自所属の団体それ自身から選任された代表者であるべきことを条件とします。 団体尊重は従来と変らず向後も春陽会の根則であります。 しかし当面の場合は、右を固執主張すると、その結果その方法論だけで大同より遠ざかつて小異を樹てる立場に傾くこと有る可きは好まないので、便宜上政府展試案に依る場合―鑑査委員依嘱内規案の第一案を採ります。 以上。 細部に渉つては略します。」

日本版画協会海外巡回展覧会 

1936年06月

日本版画協会では過般ジユネーヴ及びマドリツドで日本現代版画展覧会を催したが、更に米国各地及び欧洲に巡回展覧会を開く計画が熟し、文部、外務当局及び国際文化振興会の支援を得て之を実現する為同会派遣委員旭泰宏は、六月十一日発秩父丸で桑港に向け出発した。

実在工芸美術会意見書提出 

1936年06月

実在工芸美術会では文部当局より文相試案に対する意向を諮問せられたので、之に対する会員の意見を纏め六月十日大要左の如き意見書を決定、当局に提出した。 「第一案 一、展覧会は帝院より分離して総て文部省の事業とする。 一、文展は年一回綜合展とし鑑査を撤廃し、出品資格を制定する。 一、出品者資格は当局が認定した各団体に数を割当て、各団体より選出させる。 第二案 一、招待展と鑑査展は共に文部省主催とし、秋季に連続開催する。 一、被招待者の内容は厳密に考慮すること。 一、鑑査展には無鑑査資格者も鑑査を得て出品し得ることとする。 一、審査員には会員を参加させぬこと。 一、審査員は各団体に人数を割り当て夫々選出させる。 第一案を根本とするが、之は文相案と余りに距離があるから、歩み寄る意味で第二案を提出するものである。」

帝院第二部四会員意見書提出 

1936年06月

帝国美術院第二部に属する会員石井柏亭有島生馬山下新太郎安井曽太郎の四名は、平生文相の試案に関して協議を遂げた結果左の修正案に到達し、之を最後的断案として六月十日清水院長宛に提出した。内容の要旨として伝へられる所は左の如くである。 一、展覧会は一年一回各部綜合で秋季に開き、主催は帝国美術院たるべきこと。 一、招待展、鑑査展に二分することに反対す、鑑査を経たる作品と無鑑査作品とを同時に陳列すること。 一、出品多数の為同時に陳列し難きときは会期半で陳列替を為すこと。 一、参与を其の侭に存置し名称を展覧会委員と改むること。 一、鑑査は各部会員之に当り展覧会委員を参加しむること。 一、指定及び附則の無鑑査出品者の人員に多少の増加を認むること。

文部省人事異動 

1936年06月

文部次官三辺長治及び文部省専門学務局長赤間信義は六月九日附依願免官となり次官の後任としては普通学務局長河原春作、専門学務局長の後任としては思想局長兼任で伊東延吉が、夫々同日附を以て任官された。

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