清麿公銅像競作

記事番号:00539
年月:1939年11月

大日本護王会では紀元二千六百年記念事業として和気清麿公銅像を宮城前、京都護王神社、宇佐八幡宮の三ケ所に建設する計画をたて、清麿公銅像建設期成会を組織して実現に努めてゐたが、製作者として北村西望朝倉文夫、佐藤朝山の三名が推され何れとも決しかねて右三名に原型を委嘱、その一を選出することとなり、競作問題として美術界の注意をひいたが、十月末に至り朝倉は製作を辞退、北村、佐藤の原型高さ六尺の雛形ができたので十月二十九日帝国産金会社で関係者が内見した。細川護立候、正木直彦清水澄、滝精一、矢代幸雄児島喜久雄関保之助らが審査を委嘱されたが、審査は穏当ならずとしてその形式をとらず参考意見を提出し、結局佐藤が宮城前、北村が護王神社の分を夫々担当することに決つた。然るにこの結果には公正な芸術的批判以外のものが伏在するといふ理由で、その後北村は製作を辞退し佐藤の製作のみが実現されることとなつた。

登録日: 2014年04月14日
更新日: 2020年12月11日 (更新履歴)
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