其日のはて(下絵)二枚(Studies for The End of the Day)
1914 / 紙・鉛筆(Pencil on paper) / 各22.0 x 14.5 cm
作品コード:KU-c011 図録番号:写生帖123

 《其日のはて》は大正3(1914)年第8回文展に《もるる日影》とともに出品された。夕暮れに農婦が作業を終えて片づけをする場面を描いたこの作品は、前年の4月に鉄道局から依頼されて黒田が図柄を決定した東京駅帝室用玄関の壁画、大正5(1916)年の第10回文展出品作《茶休》(焼失)、同7年第6回国民美術協会展出品作《栗拾い》、同年第12回文展出品作《赤小豆の簸分》と続く一連の農作業を主題とする作品のひとつであった。大正3年10月23日の『黒田清輝日記』の記述によれば、この作品は文展事務局が入手したらしいが、大正14(1925)年の『黒田清輝作品全集』には、下絵2点が掲載されたのみで完成図は含まれていない。戦後、昭和41(1966)年に隈元謙次郎氏によって刊行された『黒田清輝』では完成図が単色版で登場し、「焼失」とされている。完成図のカラー画像は残されておらず、油彩の下絵2点は失われてしまった作品の色彩を推定する上からも、また、作者の制作意図をうかがう上からも貴重である。
 その制作過程は黒田の日記によってたどることができる。大正3(1914)年、その年の1月に新築なった鎌倉の別荘に、黒田は頻繁に足を運んだ。《其日のはて》の制作も、8月3日からの滞在中になされている。9月2日の日記に「夕刻月ノ出ヲ観一図案獲タリ」とあって着想を得たことが記され、続いてこの作品について以下のような記述を見出す。9月3日「月ノ出ノスケッチ」、4日「夕刻東方ノ暮色ヲ写ス」、6日「文房堂ヨリ画布及顔料到着」、7日「夕刻草取女ヲ井戸脇ニ立タセテ姿勢ノスケッチ」、8日「水汲ノ女ヲ画布ニ写ス」、19日「五時頃ヨリ日没マデ水汲図ヲ描」、20日「約半時間水汲図ニ筆ヲ染メタリ」、22日「描キ掛ノ二図ニ加筆」、23日「井戸端ノ図ヲ描ケリ」、10月2日「水汲女ヲ呼ビ足部ノ手入ヲ為タリ」、3日「午前九時頃ヨリ一時間許作画ニ従事(略)食後一睡シテ三時過ヨリ又筆ヲ執ル」、4日「昼間製作ニ従事」、5日「午後来客ナク仕事大ニ進捗セリ」、6日「即チ画筆ヲ執ラントセル時宮島熊三子来ル 構ハス仕事ヲナシ完成セシム(略)文展出品画完成」。
 この記述から、《其日のはて》が大正3年(1914)年9月2日に着想され、9月10日から15日までの東京滞在をはさんで10月6日まで、ほぼ1ヶ月をかけて描かれたことがわかる。同月15日からの文展にむけて、かなり忙しい制作であった。
 「大正三年九月七日」と書き込みのある画稿は、日記の内容と呼応するだろう。油彩による「其日のはて下絵」2点は完成図の背景となった庭、塀越しに見える木立と空をとらえている。9月4日の「夕刻東方ノ暮色ヲ写ス」は、色彩研究のための写生であったと思われ、「其日のはて下絵(二)」がこの記述にあたる可能性もある。そうであるとすれば「其日のはて下絵(一)」も東方の景色であって、空に描かれた円は月であり、完成図に描かれているのも月の出の情景であるということになる。それは月の出を見たことによって着想を得たとする日記の記述とも矛盾しない。油彩による下絵は2点とも現実の色合いから離れてパステル調の色彩で描かれており、実景を再現しようとするよりは、実際の自然の研究に基づきながら画家の理想とする色彩に調えようとする意図がうかがえる。
 隈元謙次郎氏はこれらの農作業を主題とする作品を、鎌倉に別荘を構えたことによって田園風景を目にする機会が増え、そうした身近な情景に触発された風俗画である、と位置づけられた。黒田は実際に目にしたものから画因を触発されることの多い画家であったから、田園風景が身近になったことが一連の農耕主題の作品を生み出す一因となったことは否めないであろう。しかし、《其日のはて》のためのスケッチや下絵に見られるモティーフの形態の模索や色彩の研究は、この作品が画家の理想的視覚世界をあらわすいわゆる「構想画」のひとつであったことを示唆する。