智・感・情のうち感(Impression)
1899 / カンヴァス・油彩(Oil on canvas) / 180.6 x 99.8 cm
作品コード:KU-a053 図録番号:図録101

 この作品は、明治30(1897)年の第2回白馬会展に《避暑(湖畔)》などとともに出品された。等身大の日本女性が三体、裸体で描かれ、その大きさからも、また、金地背景にあたかも実際にあるかと見まごうばかりに描写されているという視覚的印象の強さからも注目された。明治28(1895)年に京都で開かれた第4回内国勧業博覧会に黒田が出品した《朝妝》を契機として、裸体画論争が盛んになっている中で公にされたということも一因となって話題を呼んだが、当時の評は必ずしも好意的ではなかった。その筆力を認める一方で、画題とポーズの意味が不可解であり、裸体画としても成功しているとは言いがたという批判もなされている。白馬会出品後、黒田自身による加筆ののち、1900年パリ万博に《Etude de Femme》(裸婦習作)と題して出品され、日本の油彩画では最高賞にあたる銀賞を受賞する。同万博には《湖畔》も出品されていたが、海外での評価は《智・感・情》の方が高かったのは興味深い。
 制作過程の概略は『黒田清輝日記』にたどることができる。明治30(1897)年2月16日に「いよいよ今日から裸体の女を手本ニして画を始めた」とあり、「三月五日 終日昨日のモデルを相手に仕事した これで大抵今度の裸は出来上がりだ」とあって、1枚目がほぼ完成したことがわかる。2枚目については「三月十日 今日ハ新たに裸を一枚始めた」「三月十五日 今日今度の裸画の木炭を仕舞つた」「三月十七日 今日第二の裸の油画に着手した」「四月八日 モデル花が来た 今日二枚目の裸を仕舞つた」とある。3枚目は「モデルが来たが只一寸形を極めた丈で勉強は出来ず」との記述がある4月12日ころに描き始められたらしいが、完成の日時については日記に記述が見出せない。《智・感・情》がどの順で描かれたのか、日記からはつまびらかにしないが、モデルが小川花とその妹のコウであること、20日ないし1ケ月弱の極めて短い時間にそれぞれが仕上げられていること、制作は木炭で下絵を描き、それから油彩で着色するという工程で行われていることが明らかになる。発表当時から疑問とされた画題の源泉およびポーズの意味との結びつきについて黒田は日記に記していない。
 作家の意図をうかがわせる一次資料としては、『読売新聞』明治30年11月29日の記事と『時事新報』の12月12日の記事がある。『読売新聞』には「中なるは感と云ひて、Impressionの意、右なるは智と云ひてIdeal、左なるは情と云ひて Realの意なりとか」とあり、『時事新報』には「氏は白馬会に出品したる智、感、情の三美人に就きて曰く智、感、情の文字は少しく当字に似たる、当初画家の三派なる理想、印象、写実の意を表さんとして筆を執りたるものに外ならず、這は深き意味あるにあらずして理想を智、印象を感、写実を情に改めたるまでの事なり」とある。
 これに先立つ同年10月28日、『毎日新聞』に黒田の周辺にいた美術記者吉岡芳陵が「黒田清輝氏の裸体画は題して智、感、情と云じ、惟ふに絵画の印象派理想派写実派の三者あると端なくも氏の想を駆りて、印象即ち『感』なるものを理想即ち『智』なるものを写実即ち『情』なるものを何物にも妨げられざる裸体に籍りて円満に表示せんと企てしめたるならんか」と書いており、黒田に近かった記者の記述として注目されるが、芳陵の推測の域を出ない。
 この問題については近年、高階絵里加氏、若桑みどり氏があらたな解釈を提示された(註)。両者とも興味深いものだが、この作品の日本絵画史における意義は、ひとつには描かれた裸体の意味するものを人々に考えさせたこと、即ち象徴としての裸体表現を広く知らしめたことにあり、ふたつめにはそうした象徴的裸体表現を日本人の身体像によって行い、日本人の裸体画のカノンを築いたことにあるだろう。(E.Y)

註: 高階絵里加 「黒田清輝の岡倉天心像-「智・感・情」の主題と成立をめぐって」(「美術史」139号、1995年)、『異界の海-芳翠、清輝、天心における西洋』(三好企画、2000年) 若桑みどり 『隠された視線 浮世絵・洋画の女性裸体像』岩波近代日本の美術2(岩波書店、1997年)



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