本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1887(明治20) 年1月21日

 一月二十一日附 パリ発信 父宛 封書 寸紙謹呈仕候 寒気厳敷候処其御地御尊公様御始メ皆々様御揃ひ益々御安康奉大賀候 私事大元気ニて勉強致居候間御休神被下候 承リ候得ば今般御尊公様ニハ勳二等ニ御昇リ被遊候由誠ニ目出度御祝申上候 徴兵遁れニ付テノ当地教師よりノ証明書ハ早々入用有之由御申越被下候得共彼ノ証明書ハ先般画学教師コラン氏ニ頼み一通貰ひ受け直ニ送リ出シ候 只今頃ハ已ニ御地ニ達したるか或ハ日本近海ならんと奉存候 先ヅ先ヅ念ノ入リ過キたる方ニテ結構ニ御座候 法律学校生徒タルニハ十一月二十一日迄若シ不得止事故アル時ハ十二月三十一日迄ニ願出ツ可キ規則ナルヲ私存ジ不申 始メヨリ別課教師ニ打チ任セ置キ其期ヲ過シ候故今年ハ生徒ニナレヌ事カト一時ハ心配致し候得共公使館原 加藤二氏ノ御尽力ニテ遂ニ去十五日首尾よく生徒ノ許ヲ得候 御序ノ折原氏へ礼状御遣し被下候ハヾ幸甚之至ニ御座候(後略) 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候 皆々様へ宜敷

1887(明治20) 年1月28日

 一月二十八日附 パリ発信 父宛 封書 十二月十六日附之御手紙及ヒ百八十円之為換券本日慥ニ相届き難有御礼申上候 其御地御尊公様御始メ皆々様御揃ひ益々御安康之由大慶至極ニ奉存上候 次ニ私事大元気ニて法律校へも毎日不惰通学致居候間御休神可被下候(中略) 大学校刑法教師の企にて同校一年生中の外国人のみ一週一回相会し各其国の刑法ニ付テの沿革及ヒ現在の法等ヲ互ニ説明スル事と定まり即チ昨日相会し候処都合十一二国ノ人有之其中ロマニヤノ者十五人日本人ハ私一人故来会ニハ是非共何ニカしやべらねバならぬ事ニテ閉口罷在候 日本の刑法(明治十六年ノ版)ヲ友人華族久松君ヨリ借リ又公使館ニて新律綱領改定律例を借り申候 右ノ書ヲ以テ先ヅ当分のしやべり種と為サント考居候 併し維新以前の刑法ニ付テハなにともしやべり様無御座候故維新前の事ニ付てハ何にとも云ハヌ覚悟ニ御座候 若シ何ニカ日本古今ノ刑法ニ付可然書物有之候ハヾ御送リ被下度奉願上候 此ノ二三日ハ天気も可成よろしく公園地などにも随分人出で申候 画学も勉強致し居候間御放念可被下候 先ハ御返事旁々御機嫌伺迄 早々 頓首 父上様  清輝拝

1887(明治20) 年2月4日

 二月四日附 パリ発信 父宛 封書 御尊公様御始皆々様御揃益御安康之筈奉賀候 次ニ私事至而壮健勉学罷在候間御休神可被下候 去十一月法律校ヘ通学相始メ申候折ヨリヲルシエト申法律別課教師ヲ雇ヒ勉学致居候処今般原氏ノ命ニテ此ノ教師ヲ断リ別ニ可然教師ヲ撰む事ト決定仕候 其故此ノヲルシエ申人ハ代言兼法学別課教師ニシテ外面ハ甚ダ深切ナル様(仏人ノ常)ニ御座候得共先ヅ一寸申サバ山師ノ様ナ人ナリ 学校入校特別許可ヲ得ントテ先日略申上候通リ公使館加藤氏ト同道校長ニ面会シ右教師ヲルシエ氏ニ万事依頼シ置キ遂ニ入校券貰受ケノ期限ヲ過シタル旨説明致シ候処校長曰ク ヲルシエニ物ヲ頼ミ失錯シタル事今始メテノ事ニ非ズ 彼ハカタリナリ 以来決シテ日本人ヲヲルシエ氏ニ打任ス可カラズ ト右様ノ次第ニ付遂ニ今般教授ヲ断ル事ニ相定メ申候 即チ去ル三十一日左ノ虚言ヲ以テ断リヲ申入候  国元親父方ヨリ原氏ニ書ヲ寄セ或ル仏人ノ方ヘ入塾し而法律ヲ勉強す可キ旨申越し候ニ付乍残念今月限リニテ御授受御断申上候 原氏ヨリモ右通ノ手紙ヲ送ラレタリ 然ル処教師大不平ニテ曰ク 教授ヲ断ル時ハ十五日前ニ申入るヽガ仏国ノ慴ハシなるニ依リ其断リハ受ケ難シ 又曰ク 我レ能ク日本ナルボワソナード氏ヲ知リ居ル故ニ彼ノ人ニ手紙ヲ遣リ御父上ノ方ヘ行キ何ニ故ニ今サラ教師ヲ変ゼシムルカヲ問ヒ合ス可氏ナドヽ馬鹿ナ事ヲ申居候 依而先ヅ今月中ハ此ノ教師ノ方ヘ行キ来月始メヨリ他ノ教師ニ致ス覚悟ニ御座候 父上様  清輝拝  御自愛専要

1887(明治20) 年2月11日

 二月十一日附 パリ発信 父宛 封書 益々御安康之筈奉大賀候 私事至而元気法律及画学をも勉強致居候間御休心可被下候 (中略)私法律別課教師よりボワソナドニ手紙ヲ送リたりと申事ニ付若し万一ボワソナドより何ニカ問ヒ合セ候折ハ可然御返答奉願上候 愈今月限ニテ同人ノ教授ヲ断リ来月よりハ法律大学校教師がおしへ呉れ候碇ナル教師ニ授業を頼む積ニ御座候間御安心可被下候 右教師をことわるには御尊公様より原氏方へ手紙にて確かなる教師へひたとたのみ込む可き旨ヲ御申越被成候ニ付不得止其教師方へ転学する云々の虚言ヲ用ヒ候ニ付左様御承知奉願上候 黒田旧内閣顧問様ニモ先日当地ヘ御安着 去ル日曜日ニ一寸御旅宿迄参上仕候 其翌月曜日英国ヘ向ケ御出発被成候由承り候 頓首 父上様  清輝拝

1887(明治20) 年2月18日

 二月十八日附 パリ発信 父宛 封書 寒気厳敷候処其御地御尊公様御始メ皆々様御揃益御清適奉大賀候 私事至而壮健画法二学共勉強罷在候間御休神可被下候 原書記官妻君も先日御安着ニ相成去日曜日ニ公使館ニテ始メテ御目通り仕まわらぬ口ニテ礼など申述へ置候 実ニ世ノ中ニあいさつを云程むつかしき者ハ御座なく候 其折御送り被下候品物も慥ニ受け取早速相開候処母上様よりきぬのはなふき(原氏よりも宜敷御礼申上呉れとの事ニ御座候)及ヒきぬのてふき等 七丁目父上様より雁皮紙 お栄さまよりめづらしき小な箱六七個及きぬのふくさなどニて誠ニ難有厚く御礼申上候 近頃ハ甚ダいそがしく御銘々様ヘ御礼状差上兼候間御尊公様より可然御礼御申上被下度奉願上候 先便よりも申上候通り今月限りにて法律別課教師ヲルシエ氏の授業を断るニ付テハ他ニよき教師を見付ル事こそ緊要なりと存じ兼而法律大学刑法教師レベイエ氏ヘ可然教師ヲ教ヘ呉ルヽ様頼み置き候処もと司法大臣ヲ勤メタル元老院議官カゾトカ申人コソ至当ならんとて来る土曜即チ明日同人へあてゝの書状を一通呉ルヽ筈 而て其手紙ヲ持ち私自身右議官方へ行く積ニ御座候 此ノ人私の望み通り授業を受け合ヒ呉れ候ハヾ実ニ仕合ノ至なりと存候 世間普通の法律教師トハ異ひ一度司法大臣も勤めたる人物故余程益する所有らんと刑法教師モ申事ニ御座候 先ハ御礼旁用事迄 早々如此御座候 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候 皆々様ヘ宜敷御伝言奉願上候  何ニカ日本ノ法律ニ関シテ珍シキ書物御見当リノ節ハ御送リ被下度奉願上候

1887(明治20) 年2月25日

 二月二十五日附 パリ発信 父宛 封書 益御安康之筈大慶至極ニ奉存候 次ニ私事大元気にて勉学罷在候間御休神可被下候 昨日大学校にて刑法教師より元老院議官カゾ氏へ私の教授を依頼する旨ノ手紙を貰ひ受け候ニ付今晩夜食後其手紙を持ちてカゾ氏方へ面会ニ罷越積ニ御座候(後略) 頓首 父上様  清輝拝

1887(明治20) 年3月11日

 三月十一日附 パリ発信 母宛 封書 一月二十七日つけ父上様 あなたさま 新二郎などよりのおてがみこんにちたしかにあいとゞきありがたくさつそくはいけんいたし候ところみなみなさまおんそろひますますごきげんよくいらせられ候よしおんめでたくぞんじあげ候 つぎにわたくしことあいかわらずげんきにてべんきよういたしおり候あいだどうぞどうぞごあんしんくださいまし ゑのほうもやつぱりべんきよういたします こないだゑのぐのはこを一つかいましてときどきゑのぐををつかつてみるとなかなかおもしろくてなりません そのおんちにてハかなり大きなぢしんがゆりましたよし(中略) わたしがにつぽんをでゝからこんげつでまる三ねんになります まことにはやいものです このあんばいなら十ねんや二十ねんハぢきにたつてしまいます こんどはこれぎりにいたします めでたくかしく 母上様  新太拝 (後略)

1887(明治20) 年3月18日

 三月十八日附 パリ発信 父宛 葉書 御全家御揃益御安康之筈奉賀候 次ニ私事至而元気勉学罷在候間御休神可被下候(中略) 法律学別課教師之件モ首尾能ク相済ミ候ニ付大ニ安心仕候 今度ノ教師ハ先便より申上候通元老院議官ニテ六十計ノ老人ニ御座候 至極深切ニ教授致し呉れ候 仕合ノ事ニ御座候 先ハ御機嫌伺旁 早々 頓首 父上様 平信  清輝拝  御自愛専要奉祈候

1887(明治20) 年3月20日

 三月二十日附 パリ発信 母宛 封書 二月十日のおてがみけさあいとゞきさつそくはいけんつかまつり候(中略) こないだのころはゑのけいこはよるばかりいたしましたがこのごろはよるのけいこはやめましてひるま二じから五じごろまでけいこをいたします あいかわらずゑのせんせいはていねいにしてくれますからしあわせでございます このまへのしゆうかんはそのゑのがつこうにてゑのかきくらがございました おとこのはだかぼをやきずみでかくのが一つとだびどとゆうひとがそうるとゆうとのさまのまへでことをひいてをるところのゑをゑのぐをつかいみたてゝかくのが一つでした わたしハがつこうにいくもんですからほかのひとたちのようにねんをいれてかくことができずそれゆへおとこのはだかぼうのゑハ六ばんでしたけれどもだびどがことをひいてをるゑでは一ばんをとりましたからごあんしんくださいまし(後略) 母上様  新太郎拝

1887(明治20) 年4月8日

 四月八日附 パリ発信 父宛 封書 近日暖気相増候処御尊公様御始メ皆々様御揃ひ益御安康之由大慶至極奉存候 次ニ私事至而元気にて勉強致居候間乍憚御休神可被下候 去四日より十五日間計パークト申祭ニて大学校休暇に相成申候 依而近頃ハ専ラ画学のみを勉強致居候 当地在留の木板刻リ合田清ト云人来五月二十二日頃ニ帰朝の筈ニ付其便より私ノ画去年画学ヲ始メタル時より本月迄画キタル画三十四五枚御送り可申上候間其旨母上様へ御申上被下度奉願上候 又右合田氏ノ帰朝ニ付原氏ヘ相談の上仏貨二百仏ニテ合田ノ家具ヲ買ヒ入れ学友久米桂一郎ト云者ト組合ヒ一年分五百五十仏ニテ室二間ト小ナ台所ガ有ル所ヲ借リ受ケ即チ今晩引越しをする積ニ御座候 三四年も留学する者ハ旅店ニ居ルヨリモ自分ニ家具ヲ買ヒ家ヲ借リテ暮す方ガ万事気楽なるのみならず徳用ナリト申事ニ御座候 家具も新シク買入ルゝ時ハ随分金が掛ル由ニ御座候得共私事ハ合田君ノ跡ヲ引受ケたる事故手軽ク二百仏ニテ相済み仕合の事ニ御座候 家ハ五百五十仏ニ御座候得共久米君ト半分ヅヽ出シ合スル事故一ヶ月分大約三十仏位ニ上リ申候 台所有之候故時々日本料理をシテ食ワント楽み居申候 今度引キ移る町名番地等如左  ポールロワイヤル町八十八番第二号 此ノ辺ハ書生町ノハヅレニテ公使館ヘ行クニハ鉄道馬車ニテ四五十分計リ掛リ申候 合田君ハ此ノポールロワイヤル町百番ニ住居致し居ラレ候間此ノ町ノ様子等其他巴里府中ノ事ハ委細同人帰朝の上御聞取リ被下度候 法律別課教師ノ月謝ハ一ヶ月百仏ニテ此ノ前ノ教師より二十仏だけ高く候得共深切ニ教授致し呉れ候間御安神可被下候 私画学ヲ本気デ学ブト云事ハ藤 久米ノ両人ノほか誰れも不知 併シ原氏ハ私ニ取リテハ一寸後見人ノ如キ御方故打明ケテ話サンカトモ存候得共法律ヲ学ブ者ガ今更画学ヲ稽古スルト云テハ甚ダ面白カラズ存ジ今日迄ハ画学の事ニ付テハ何トモ話し不致候 御尊公様より私に画学ノ稽古致させ度旨ヲ原氏迄御達し被下候ハヾ幸甚ノ至ニ奉存候 併シ右ハ御考ヘ次第ニ遊し被下度候 私始メハ画学ノ如キハ只賎シキモノトのみ存ジ日本ニテ細田氏ニ従而稽古致し候時モ中途ニテ打ち止メ申候 之レト申モ日本ニ在リシ時ハ(日本書生ノ風トシテ)只一度ハ政治社会ニ名ヲ挙ケンコトヲのみ望み参議のみが人間ナル様ナ感覚ヲ有し候故ニ御座候 併シ能々相考ヘ候ニ画学ト雖トモ何ニモ賎シキ事ハナク其極上手ト云処迄ヤリ付クレバ矢張大臣ニナリタルニ異ナラズ 且画学ノ如キハ天物即チ山水草木畜獣等ヲ友トシ師スルモノ故余程気楽にして五十年ノ一命ヲ愉快ニ終ルニハ此ノ業ニ優ルモノハ有ルマジクト存候 又当地ニテ法律博士ヲ得テ帰リタル日本人モ已ニ二三人有リト承リ候得共画学共進会ニテ賞状ヲ得タル日本人一人モ無之依テ私事専ラ力ヲ画学ニ尽シ実ノ画カキト云迄ニ至リ候得ば只一身ノ為メのみならず且国家ノ為メナランカト奉存候 併シ此ノ画学ハ法律ナドト異リ何年ニテ卒業するなどと申事ハ無御座候 三四年モ学ビ一通リノ力ヲ得タル後ハ只天然物ヲ師トシテ研究シ上手ニなるもへたで一生ヲ終ルモ皆天命ニ御座候 先ハ左右如此御座候 早々 頓首 父上様 ぶじ  清輝拝  御自愛専要奉祈候 皆々様ヘ宜敷御伝言奉願上候

1887(明治20) 年4月15日

 四月十五日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)こないだからだいがつこうのほうがおやすみになりましたからこのしゆうかんはゑのほうを一つしつぺべんきよういたしました まことにまことにおもしろいことでございます ゑをかいておると三じかんや四じかんぐらいたつのはわけハありません このまへのにちようにふぢさんといふゑかきさんと一しよにいなかにあさからでかけゑのけいこをいたしました おひるのごぜんはぱんとひゑたにくとをかひくさはらにねころんでふたりしてたべました まことになんともかんともゆわれないあぢがいたしました(中略) このまへのびんに父上様に申してあげましたようにこのごろはゑかきのともだちのくめさんといふひとゝ一しよにかしやをかりてすまつております きんのうもおとゝいもぎゆうなべをしてたべました まことにいゑをかりきつてすまうとかつてなことができますよ あしたもごうださんといふこんどにつぽんへかへるひとにおせんべつかたがたにつぽんりようりをしてくうつもりです(後略) 母上様  新太拝

1887(明治20) 年4月28日

 四月二十八日附 パリ発信 父宛 封書 三月十七日の御尊書并二百八十円ノ為換券慥ニ相届奉万謝候 御尊公様御始メ皆々様御揃益御安康奉大賀候 次ニ私事至而極壮健勉学罷在候間御休神可被下候 日本刑法ノ事ニ付委しく御記シ被下難有奉万謝候 学校ノ各国刑法ニ付てノ演説モ自分自分ニ口ニて演説スル事カト存じ始メハ心配致し候得共只其国ノ刑法ノ沿革及如何ナル刑ガ現時行ハルヽトカ又死刑之執行法ハ如何トカ種々ノ問題ニ付テノ答ヲ一々紙ニ記シ之レヲ教師ニ出シ而教師ガ其略ヲ皆ニ話シテ聞カセル事ト定マリ候 即チ私ハ只日本ノ刑法ノヶ条ノミヲ其題ニ応シ両三度翻訳シテ出シ候 而明治前ノ事ニ付テハ日本国ハ数十藩ニ分レ居リ各藩其法律ヲ異ニシ一定ノ者なく又其各藩ノ法律ハ大抵慣習より成り今日の如クヶ条書キシタル刑法無之ニより今述べ難じと記し置キ候 法律学ハ矢張カゾ先生ニ附テ勉強致し居候 随分面白候 学校ノ講義ハ何分解りにくヽ余リ身ニ附カザル様ニ御座候 画学モ勉強致し居候間御休神可被下候 日曜などニハ友人藤 久米氏等ト田舍ヘ景色ヲ写しニ出掛ケ申候 実ニ愉快ニ御座候 画学校ニテハ今日迄ハ只焼キ炭デ人像ヲかく稽古のみ致し候故此ノ夏ニハ一生懸命ニ景色ヲ写シ絵具ヲ用ユル稽古ヲ為シ大休後ハ是非少シヅヽ絵具にて像ヲかく稽古ヲせんと企望致シ居候 私是非共此ノ画学ヲ以テ一身ヲ立んと存候 然ルニ此ノ業容易ナルニ以テ容易ナラズ 進メバ進む程六ヶ布き様ニ御座候 両三年位稽古したる者ハ画カキトハ被申間敷候 先ヅ終身ノ業也 只今ノ様子ニてハ法律ヲ本トシ画学ハ片手ニ致し候得共如此事ニテ兎ても充分ナル事ハ不出来 法律ノ方ニモ時間不足又画学モ充分に学ブ不能どちらニも付カザル極不具ナルモノニ御座候 依而此ノ夏休み後ハ画学ヲ本トシ之レニ充分ノ力ヲ尽シ法律ハ只片手ニ学バンカト存候 御尊意奉伺候 当時ノ考ニテハ何ニモ画学ニテ利ヲ得ンナドヽ云志ハ少シモ無御座候 只死ス迄此ノ術ヲ研究シ上手ニナレバ御両親様ニ対しても孝ノ一端且私の徳又下手デ一生ヲ終トモ是亦天命 併シ楽ハ自ラ其中ニ在ランカト奉存候 仮令単衣一枚デ冬ヲ過ス様ナ貧窮者ニ相成候とも己レノ好ム処ヲ以テ楽ム時ハ法律学士位ノ称号ヲ得七八十円位ノ月給ヲ頂戴シ妻子ヲ蓄ヘ一生安楽ニ暮スヨリモ愉快十倍スト存候 私幸ニ富家ニ生レ未ダ貧窮の味ハ不存候得共私ハ少シモ貧窮位ヲ怖ルヽモノニハ無御座候 何トナレバ仮令如何ナル貧窮ニ陥リ候共只一生ノ間 一旦瞑目スル時ハ天子様モ乞食モ同シ事只貴キハ名のみニ御座候 一心ニ画学ヲ学ブ心得ニ御座候間左様御承知被下度候 仰の通一旦之レト志シ之レヲ始メタル以上ハ人ガかれこれと申候とも少しもかまわず只一直線ニ進んと存候 今日法律教師の方より帰る時リユクサンブールト申公園地ヲ過キ候ニ近頃芽立候て青々トシタル木葉の上ニ細雨ガ降りかヽる有様いかにも面白く見へ候故左ノ如キでたらめを一つ読み出し候 御一笑被下度候  春の日に若葉なでつゝ降る雨は色も緑ニ見へにけるかな 雨ガ木葉ヲなでるなどゝ云事ハ未ダ聞タ事モ無之キ言葉ニ御座候故歌ナドニ用ユル事ハ兎れも叶ハザル可シトハ存候得共雨ガやわらかな若キ木葉ニ降りかゝる様子ガ丁度なでる様ニ見ヘ候故其儘思つたる儘ヲ記シ候 只御笑ノ種ニ入御覧候 画ヲカク時ノ心持ちを左ノ如ク歌ニ作リ先日ベルジク国ナル友人秋月氏ヘ送リ候  筆を取り花見る時ハものゝふの心は紙の上にこそあれ 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候 原氏ヘノ御手紙ハ難有早速相届ケ申候 又私ニ画学修業致させ度旨ノ御手紙一通原氏ヘ 御送リ被下度奉願上候

1887(明治20) 年5月13日

 五月十三日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)このごろはゑのがつこうでしけんがございます せつかくひとにまけないようにかこうとおもつてほねをおつてをりますけれでもほうりつのがつこうにもいかなくちやならないもんですからじゆうぶんなことはできません こまつたものです ゑのせんせいはしじゆうていねいにしてくれます またわたしのけいこがすこしいつたとゆつてよろこんでおりますからごあんしんくださいまし まあなにしろちよつとひとゝをりにかけるようになるのはすくなくとも四ねんばかりはかゝります わたしがゑのけいこをはじめてからもうやがてまる一ねんになります はやいものです この二十日ごろににつぽんへおかへりなさるごうださんといふひとがこないだわたしのしやしんをうつしてくれましたからおくつてあげます ずいぶんよくにております まだよくはつきりとうつたのが二三まいありましたけれどもべるじくといふきよねんあすびにいつたくにのともだちやまたあめりかのともだちなんどにおくつてしまいました たつた三まいだけです(後略) 母上様 ぶじ  新太拝 (後略)

1887(明治20) 年5月26日

 五月二十六日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)先日ノ歌ト同ジ題にて公園地の春雨  春雨の色知らざりし今日迄は若葉のしづく緑なりけり 随分ごまかし故御解りにくき事と奉存候 画学一心ニ稽古罷在間御休神可被下候 前便より合田清 山本信義 林忠正の三氏西郷氏一行ト帰京せられ候 合田氏に画数葉相頼み置き候ニ付多分内へ持ち来らる可く其節直左右等委細御聞取リ被下度候 私一挙両得ノ策ニテ此ノ三年間法律ヲ本トし傍ラ画ヲ学ヒ三年後即チ法律校卒業後ハ専ラ画ヲ学ン心得ニテ法律学ヲ相始メ申候得共画学とても遊ひ半分ニ稽古する様な事ニてハ兎ても進歩ハ覚束なく去りとて専ラ之レニ力ヲ尽ス時ハ法律学校ヲ卒業するなどハ至而難キ事ニ御座候 私事ハ画ヲ学ンデ人と為ラン覚悟に御座候故専ラ力ヲ此ノ業ニ尽ス方当然ト被存申候 尤モ法律の方ハ三年卒業ト云期御座候得共画学ノ方ハ卒業ノ期などゝ云ものハ無御座候 即チ終身ノ業ニ御座候 法律大学校ヲ打チ棄てゝ画学ヲ学ブト申時ハ随分不同意ヲ唱る人も多かる可く候得共人は人我レハ我レニテ人のそしりをおそれ只名の為メニ自分ノ性質ニモ合ハザル業ヲ修メ千金丹ノ如ク毒にもならず薬にもならず一生平々凡々にて過す程愚かなる事ハあるまじく候 何にしろ私ハ画学と共に死する心得に御座候間御休神可被下候 画学教師深切ニ致し呉れ候ニ付甚ダ仕合セニ御座候 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候 皆々様ヘ可然御伝声奉願上候

1887(明治20) 年6月3日

 六月三日附 パリ発信 父宛 封書 四月二十二日附ケノ御手紙去月三十日相達し難有奉拝読候 皆々様御揃益御安康之由奉大賀候 次ニ私事至極元気にて勉学罷在候間御休心可被下候 去二十八日より三日間祭日にて休暇を得候ニ付当地留学藤島了穏 久米桂一郎の二氏とフヲンテヌブローと申仏国中にて名高き景色のよき地ニ泊りがけにて出掛ケ月曜日即チ三十日の夜十二時頃に帰宅仕候 さすがに名高キ所だけ景色もよく岩石の間ヲ歩する時ハ日本の山の中でも歩く様な心地致し候 只此ノ山に一筋の滝も細キ事糸の様なる流れもなきのが日本の山水ニ比して申分のある所に御座候 只二日の滞在にて非常に愉快を覚エ申候 道程ハ此ノ巴府より気車にて一時十五分計り 近さハ近しなにしろ結構な所に御座候 金銀尽しの御殿ヲ拝見するよりもフヲンテヌブローノ如キ山の中を歩き廻ル方ガ愉快百倍ト存候 頓首  清輝拝 父上様 御自愛専要奉祈候〔図 写生帖より〕

1887(明治20) 年6月24日

 六月二十四日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)やつぱいまいじつゑのけいこをいたしておりますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし このまへのにちようびにはくめさんと一しよにゑのせんせいのうちにあすびにいきましてごちそうになりました いつもしんせつにしてくれます ことしのなつやすみにもきよねんのやうにすこしたびをしようかとおもつてをりましたが なつのきものを一つつくりそれからほうりつのせんせいにまいつき百ふらんにつぽんのおかねで二十五六えんばかりつゝはらうもんですからさきへさきへとすこしづゝつかいこみそれゆゑおかねがすくなくなりました このあんばいではとてもたびなどわできません こまつたものです よいびんのときになにかおくつてくださいますときにはしなかずはすくなくてもすこしかねめのものをおくつてくださいまし そうするとこちらでせわになるひとやまたこんいにするひとなどにおくりものをいたします(中略)わたしのゑのせんせいはきんしやなんどがたくさんはいつてぴかぴかしたのはきらいです いろあいはなりたけじみないろがすきにてぎたぎたしいのはきらいです それゆえいまできるあたらしいきれよりもふるいきれのほうがいろもよくきれもよいとゆつております(後略) 母上様 ぶじ  新太拝

1887(明治20) 年7月8日

 七月八日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)先日公使館ニテ承リ候処御尊公様ニも今般華族ニ相成リ被成候由御目出度御歓申上候 公使館などにて黒田が華族の子になつたりなどゝ馬鹿にさるゝ事ニ御座候 海江田様にも至而御壮健 先日より私教師元老院議官カゾ氏に頼み仏国ノ法律ニ付テノ話ヲ御聴なさる事ニテ私わからぬながら通弁致し居候 毎日講義一時間づゝ有之候事故海江田様には随分御難儀御退屈と奉存上候(後略) 父上様 清輝拝

1887(明治20) 年7月22日

 七月二十二日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)御尊公様ニは御勳功ヲ以テ今般華族ニ御為リ被成候由大慶至極ニ奉存上候 華族ノ子孫に馬鹿多ク華族と云も馬鹿と云も殆ンド其意ヲ同フスル様ニ至りシも如御意交際の区域狭クシテ幼少の時より殿様育ニサレタルより来る外ハ無御座候と奉存候 実ニ世ノ中ニ此ノ輩より不幸なるものは無御座候 只肉体アルヲ知テ己レハ実ニ人か又木石ナルカヲ知ラズ精神ノ愉快ナキ時は錦衣馬車ニ駕スルモ何ノ楽カ有ル 反之其精神が独り安楽なる時ハ一箪食一瓢ノ飲肱ヲ曲テ枕としテモ楽ハ其中ニ有ル事ニテ之レゾ真ニ浮世ヲ住みこなしたるものとでも可申被存申候 私事ハ画ニ志し此ノ画ト共ニ楽ミ共ニ苦ミ即チ進退死生ヲ之レト共ニスル覚悟ニ御座候間御休神可被下候(中略) 日本ノ大名等ガ其祖先ノ事ヲ忘れ自分等ハ通常ノ人民と異リタル一種特別ノ上等人間ノ様な心持ちにて居りたるも前陳の理と被存申候 私画学修業の事ニ付委細御申越被下難有奉万謝候 原氏ヘハ私都合ヲ以テ可申入候 私画学修業致す事ハ公使館ハ勿論大抵知れ渡りたる様子に御座候 先日より画学校休業ニ相成候ニ付当時ハ久米桂一郎氏ト共ニルーブルト申絵画博覧場ニ行き古画ノ写など致し居候 実ニ画学ハ法律等ノ如ク理屈ニテやりつくる者トハ異リ一層むづかしき様ニ御座候 又只此ノむづかしさ具合ニ画学ノ妙存するものなる可く候 此ノ八 九二ヶ月ノ休暇中ぐつぐつとして巴里に在らんより僅カ気車賃位ノ差故近在ニなりとも出掛ケ木のかげニデも居リテ書物の復読をせんかとも相考へ居申候 余附後便 早々 頓首 父上様 清輝拝

1887(明治20) 年8月5日

 八月五日附 パリ発信 父宛 封書 酷暑之候御尊公様御始メ皆々様御揃益御安康之筈奉大賀候 次ニ私事至極壮健ニ罷在候間御休神可被下候 法律別課も去る二日限リニテ休業ニ相成候ニ付只今ノ処ハ真ノ休暇ニ御座候 私日本ヲ出テ候より已ニ三年ノ余ニも相成候得共語学ノ外ハ未ダ之レゾト云テ得タルモノハ無御座候 実ニ赤面ノ至ニ御座候 併シ画学ヲ以テ一生ヲ送らんトするノ念ハ益堅固ニ御座候間乍憚御休神可被下候 当地ニ当時滞在シ居らるゝ哲学士井上哲次郎ト申人より先日色々私目的上ノ事ニ付説諭ヲ受ケ実ニ感服仕候 同氏ノ説ニテハ一人ニテ二ツノ業ヲ修むるハ到底首尾ノ取るゝ話ニ非ズ 二ツノ走兎ヲ一時ニ獲ントスルニ似テ只時間ヲ費シ其功ナキモノナリ 依テ志ス所画ニ在ルナレバ法律ハ断然打チ棄てゝ一心ニ画ヲ学ブニ如カズ 又志ハ画ニ在レドモ精神上ノ学力ナキ故ニ一時法律ヲ学ブト云フガ如キハ最モ誤ナリ 其故ハ画ナルモノハ一ノ職業ニ非ズ学問中其最モ高尚ナルモノ也 法律ノ如キハ俗吏ノ業少シモ画学ニ関係ヲ有スルモノニ非ズ 関係なきものを学ンデ何ノ益カ有ル 抑画ナルモノハ人ノ精神ヲ顕ハス者也 精神高尚ならざれバ其画ク所自ラ賎シ 依テ精神を高尚ならしめんとするハ画学ニ取リテハ要用なるものなれども法律学ヲ以テ之レヲ養ハントスルハ難シ 寧ロ古今英雄豪傑ノ伝或ハ詩文ノ最高尚ナルモノヲ読むニ如カズ云々 能々勘考仕候処実ニ井上氏ノ説ノ如ク画学ニ志シナガラ法律ヲ学ブハ迂闊千万ナル事ニ御座候 世間ノ俗務ニ其精神ヲ委る時其画ク所俗ナルヲ免カレズ 画ニシテ俗ナル時ハ画ナキニ同然 右ノ次第故此ノ休暇後よりハ断然一方ハ打棄画ニ必要なるものゝみを一心ニ学バんものをと相考居候 御尊意奉伺上候 此ノ四五ヶ月ハ入費非常ニ相嵩み候ニ付如何ナるものかと存じ去月ハ総入費ヲ帳面ニ記シ候処総計三百五十仏四十銭ニ及ビ申候 即チ我八十七八円位ニ相成事ニ御座候 已ニ九月分迄御送り被下候得共今月ガようやく来月ハ一文なしニ御座候 依テ後回御送金ハ一ヶ月分丈多ク御送リ被下度奉願上候 かく非常ニ使ヒ込み候も法律別課教師ニ一ヶ月百仏即我二十五円計リヲ払ヒシ故ニシテ之レサエナケレバ一ヶ月我六十円ニテモ当分修業出来る事ニ御座候 此ノ休暇後ハ法律を取り止メ候得ば金ノ都合モ大ニよく相成可申画学ニ必要なる書物や有名なる詩文家ノ著述などの買入も少しづゝハ出来るならんと被存申候 私画学専修ノ事ハ此ノ休暇後是非原氏へも可申述候 白耳義国友人バルハルトラント申者度々手紙ヲ呉れ是非此ノ休暇中ブランケンベルクト申海岸ノ同人ノ家ヘ遊ヒニ来れとの事故憤発シテ出掛ケンカト存居候 旅をすれば只気車位ガ少シ高クなる位ノ事ニ御座候間此ノ二ヶ月ノ休暇をぐづぐづと面白クモナキ巴里中ニ過スモ余リ気ノキカザル次第ニ御座候 且友人等ガ田舍ヘ立テ行クノヲ見テモ何トなく出掛度キ気ニ相成候 当地ニハ真ノ親友ト云フ可キ友人ハ一人モ無御座候 白耳義国ニハ松方正作氏及ヒ秋月左都夫氏など実ニ結構なる人多ク有之候ニ付右諸君ニ面シ度き念も山々ニ御座候 月ニ六十円も取つたら日本ニテハ高帽ニ黒塗リノ車トシタル立派ナ官員様ナルモ当地ニテハ書生中最モ貧ナルモノニテ先ヅ日本ノ書生ニ比較ヲ取リタラバ机モ本モ売リ尽シ今ハ焼芋ヲ買フノ策モナキ者ト殆ンド同然也 実ニ当地ト日本トハ生活ノ度ニ差有ル事天地ノ如クニ御座候 此ノ頃ハ月甚ダよろしく候故寝床ニ入リテモ目ヲ閉るニおしき様に御座候 又例ノむちやくちやを作り出し候ニ付入御覧候 御笑被下度候  枕辺ニてる月影を友として寝られぬまゝに歌ふ夜半かな  雲をわけ独り我が家にたつねきて浮世を笑ふ夏の夜の月  さへ渡る月影見れハ久方の雲井に夏はあらしとそ思ふ 余は附後便候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候

1887(明治20) 年8月10日

 八月十日 朝曇 水曜 (トレポール紀行) 今日はトレポールヘ出発スルニ依リイツモヨリモ余程早ク起キ出テ七時前ニ仕度全ク終リタリ 七時ニなるや否馬車ヲ呼ヒ来リ之レニ乗シテガアルヂノール(北停車場)ヘ行キタリ 途中サンミシエールノ橋ヲ渡る時時刻マダ早ケレバ花ノ市ヲ出シ居リタルヲ見テ取リ敢ズゴマカシケル  我心早いなかにや行きにけんみやこの花ハ目につかぬかな 停車場ニテ婆様ガ其孫ヲトレポールニ手バなしてやるとて其娘トモ覚シキ三十六七歳ノ者ト三人ヅレニテ互ニ口ヲスヒ合ヒテベソベソトなき出しければ老人婦女ト云モノハ奇タイナ者かなと思ヒながら狂歌ノ出来ソコないノ様なモノヲ作り出しける  ばあさまにまごとむすめと打揃ひ共にしかめし面のおかしき  孫の面我がくちびろにおしあてゝあとはなみだにくるゝばあさま 気車ノ賃ハ中等ニテ十六仏九十仙也 此ノ八時二十分発ノ気車ハ急行故上等ト中等ノミニテ下等ハなし 気車の中にてたいくつの余り色々歌など考へし中離別と云事ヲ思ヒ出シ  学ふ事なき旅なれバ皆人ハゑみて別れをつぐる今日かな(之レハ日本ナドヲ出ル時人ガカナシムハ学問ヲシニ行クカラノ事 学問ヲシニ行クタビヲカナシミシカラザルヲ笑フトハ奇ト云積ナレドモ云ヒ出ス事不能)  出車ノ時西洋人等ガ口ヲスヒツヽ告別スルヲ見テ焼餅半分ト云フヲ題トシテ 人は口をすひつゝ別るヽに見送るものもなき我れぞうき 右ノ如ク色々ト馬鹿ナ事ヲ云ヒツヽ又ハかくしノ中ニ入れ来りたる古今集をよみなどして居ル内気車ハ早トレポールニ着シたり 時ニ十二時也 途中ノ景色ハ妙ト称す可キモノ一ツモナシ 只麦田ノ中ヲ走リ通リたルノミ 今折角麦刈時也 気車より下り荷物ヲ番所ニあづけ置キ直ニ海辺ニ出デゝ見タルニ此ノ辺ノ海ノ色ハ一種特別ニシテ非常ニ青ク又緑(コユキ方)ナリ 之レヨリレール氏ヲ指シテ行キタリ 途中第二ノ橋ノワキニテレール氏ノおばあさんとレール氏娘さんとニ出デ遇ヒタリ 二人共僕ノむかひニ停車場迄わざわざ来りしニ僕ニ出遇ハズ不平ニテ帰ル所ナリシト云 其深切ナル志アルニハ感心仕タリ 之レヨリ三人打ツレテレール氏方ヘ行キタリ 主人ハ用事アリテ巴里ヘ一寸帰リタリトテおかみさんだけなりし 直ニ御膳ノ御馳走ニナリソレカラ娘イバナさんがピヤノヲ一寸ヤリ又歌など歌ふて聞かせたり おもしろし妙なりと云て謹而拝聴せり ソレカラお娘さんも奧様も奇麗におしたくをなされ僕を海辺見物ニにつれて行キタリ カジノ(音楽ヲスルヤラ舞踏ヲスルヤラシテ遊ブ所ノ名)ノ中ニ休息シ音楽などを聞キメシ前ニ帰宿セリ 此ノ海水浴ニ遊ビニ来テ居ル人ハ皆かねモちト見エ実ニ立派ナ衣物ヲ被テ居ルナリ 併シ面ハ一ツトシテ見ルニ足ルモノナシ コレハ他分金満家ノ娘ノ売れソコナイナドを売りつけにつれて来て居ルノデハアルマイカ タトヘ皆ハ右ノ如クナラザルニセヨ過半ハ売附ケノ方ラシイワイ 遊ビ事ハ音楽ヲ聞クカ踏舞ヲスルカ金ヲカケ勝負遊ヲスルカ水ヲアビルカ驢馬ニテノソノソト近辺ノ田舍ヲウロツク等不風流ナ遊ノミニテおぢようさんカ華族ノむす子ニハ至極適当ならんト存ズ 若シコノ地ニレールノ一家なかりせバ僕ハ一日モ滞在スル気ハナシ 此ノ地ハ巴里ニ比スレバよほどすゞし 海辺などハさむき程也 巴里之昨日ノアツサヲ今日半日ニテ洗ヒ切リタル心地ス 此ノ地デ見ルニ足ルモノハ海岸ノ絶壁ナリ 高サ数丈見事ナリ 夜食後其絶壁ノ上ニ昇リ見タリ 海ノ景色かなりキレイナリ 已ニウスグラクナリシ故人一人モ不居 ソレヲ幸ニ大声ニテ歌など歌ヒナガラ少シク歩行セリ 気分昼間ニ比スレバ余程愉快なり 此ノ岡ヲ下リ隣邑なるメルストカ云処まで行キ帰りて後カジノノ周囲ヲ一回シ帰宿セリ 時ニ九時半頃ト覚ユ 下宿屋ハホテルヂコンメルストト云ヒコンメルス町ニ在リ 下宿料一日六仏五十仙トレール氏ノ妻君が相談ヲ付ケ呉れたり 之レヲ此処迄書キタル時ハ十一時十五分計前也 イザヤ寝床ニ入らん 只心配ニナルハ例ノ虫ノミ 今日久米 川路君へあて端書一枚出したり

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