本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1885(明治18) 年5月14日

 五月十四日附 パリ発信 母宛 封書 三月二十六日の御てがみさる十日たしかにあいとゞきありがたくさつそくはいけんいたしました みなみなさま御かわりなくいつもいつも御げんきとのことまことにまことに御めでたくぞんじあげまいらせ候 こちらにてもなをよんさんもわたくしもまことにげんきにてくらしをり候あいだどうぞどうぞ御あんしんくださいまし さてそちらにてはしじゆうはだもちがふじゆんなよしにてはるになつてからもゆきなんどがふりましたよしさすがふゆずきのあなたさまでもさぞおこまりでしたろう しかしもうじこうもよくなりましたでしようとぞんじます せけんなんどにたびたびでておあるきなさつてせつぺおげんにしておいでなさいまし またすこしするとあなたの御きらひななつがまいります まだこちらではさほどあたゝかくなりませんからやつぱりわたいれをきております わたいれとはふゆのきものゝことですよ こんにちはもくようびにてひるごはおやすみです ところがおまつりにてあさよりおやすみになりました それゆへそとはあすびにでようかとおもいましたけれどもあめはふるしまたかぜもすこしふきあまりあたゝかくございませんからまづとりやめあさのうちはゑをかいてたのしみおひるからこのてがみをかきはじめました ほくかいどうでもみなさんおげんきとのことおんめでたくぞんじあげます わたしがこつちにきてからもうまる一ねんのすこしうへになりますからそちらでもよほどかわつたものがあるでしようとかんがへます だい一しんじろう なをぼんはじめこどものやつたちがたいへんかわつたでしようとぞんじます わたしもすこしはかわつたでしようよ こちらではなんにもめづらしいことはございませんがまいねんあるゑのはくらんくわいがことしももうはじまりました わたしはまだみにゆきません こんどのにちようかいつかにいつてみようとおもいます にちようはたゞみせるそうですがかねては一ふらん二十銭だそうです さてこのはくらんくわいはしやんぜりぜと申まちにてなをよんさんのところよりぢきそばです それでも四五ちようはあるでしよう こんにちはひまですからなにかかいてあげませうとおもいますけれどもなんにもおもいだしませんからまづこれぎりにいたしておきます これからあねさんにあげるてがみをかきます あなたさまがおてがみをおだしなさるときに一しよにおくつてくださいまし まづこれぎり めで度しめで度し 母上様 ぶじ  新太郎拝  せつかく御からだをだいじになさいまし みなみなさまによろしく おゑいさんにはひさしくごぶさたです このつぎのびんよりてがみをあげようとおもつておりますからおまんさあからよかごつぎやつたもんせ

1885(明治18) 年5月29日

 五月二十九日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)さくじつはすぎといふこちらにこどものときからきておつてにつぽんのことばははなすことができますけれどもかくことやよむことはちつともできないひとがわたしのがつこうにきてくれましたから一しよにでかけましておびといふやつのうちにいきました このおびさんのうちでながくおもしろいはなしおしてあすんでおりのちに三人でぼわどぶろうにゆといふいつもいくこうゑんちにゆきましてこのこうゑんちのなかのいけでふねにのりふねこぎをしてあすびました まことにまことにおもしろいことです ふねのいけのなかのしまにつけましてそのしまにあがりみづぢややにてさとうみづのようなあまいみづをにみまたさんどいつちといふぱんのなかにぶたのしほづけがはいつておるたいへんうまいものをたべました このしまにしばらくきゆうそくをしてからまたふねにのりしまを一まわりくるりとまわりそうしてかへりました わたしはがつこうのめしどきになりそうでしたからすぎとおびのふたりにわかれおゝいそぎにてがつこうにかへりました かへりついたときにはぢばんはみづのなかにつきこんだようにあせだらけになりました こんなにあつければせけんにでたたんびにはあせだらけになりますけれどもうちにかへればすぐぢばんをぬいであせをふきほかのかわいたぢばんをきなおしますからあせをかいたおとでずつとしてかぜをひくなんどということはございません たいへんわたしはようじんをいたしますからどうぞどうぞ御あんしんくださいまし このごろはまたむしがでてきましてまことにへいこうへいこう まいばんくらわれます このまへのびんから申上候びくとるゆうごといふこちらのなだかいうたよみが二十二日にとうとうくたばつたと申事にてらいげつの一日にそうしきをするそうです そのひにはがつこうはおやすみになるそうです こんどはこれぎり せつかく御げんきになさいましよ みなみなさまによろしく めで度し 母上様 ぶじ  新太郎

1885(明治18) 年7月3日

 七月三日附 パリ発信 父宛 封書 一書拝呈仕候 先以御尊公様御始メ御全家御揃御安康之筈奉賀候 私事至極く元気ニテ矢張旧塾中ニ勉学罷在候間御休神可被下候 已ニ七月ニ相成候ニ付御地ハ定而暑気甚敷候半と奉遠察候 当地ハ御存之通リ気候不順之地ニテ少シモ定規ナク昨日は酷暑今日は冷気ト云都合ニ御座候間大ニしのぎよき事ニ御座候 私事先日より仏語傍らてん語を相始メ申候 右らてん語は仏語の根源にして大に必要なるものに御座候 就中法律を学ぶには此のらてん語至而要用なりと申事に御座候 当地普通ノ学術ハ勿論語学ハ此ノラテン語ギリシヤ語ヲ始メトシ英独其他ノ国語中ノ一語等ニテ普通学ノ卒業モ容易ノ事ニハ無御座候 此頃ハ暑中休ミ已ニ近キ処コノ学校ニテ入校卒業等ノ試験有之様子ニ御座候 我小学ニテハ毎週ノ試験ノ外日本諸小ノ中学校ノ如ク大試験杯ト云如キ者ハ無之候 前ニ述べシ普通学ノ卒業試験ハ今月ノ中旬ニ御座候 我小学校よりも数名出掛ルト云事ニ御座候 私ハ乍残念未ダ其群ニ入ル事不能 右ノ試験ヲ受ケルニハ少クモ尚二年位ハ費サヾル可からずト存候 先ハ御機嫌伺旁 早々 頓首 父上様  清輝拝

1885(明治18) 年7月15日

 七月十五日附 パリ発信 父宛 封書 任幸便寸楮拝呈仕候 酷暑之候と相成申候処御尊公様御始御一同御揃御安康之筈大慶奉存候 陳者橋口直右衛門様御事当春より少々御病気にて御引籠勝ニ被為入候処今般医師之勧めに依り御帰朝被遊候 当地ノ景況私壮健ノ状等委細御聞取可被下候 私写真御送り申上度存候得共何分至急之事ニテ日数不足乍不本意取止メ申候 橋口氏御帰朝相成候とも当地在勤書記生松方正作氏 私ノ身上ニ付テハ万事世話被成下候積に御座候間少しも御懸念被下間敷候 本年一月より之日記及ヒ拙画両三葉御慰ミノ為メ御送り申し候 画は児供等へ御分与被下度奉願上候 先は幸便之節迄 草々 頓首 父上様  清輝拝

1885(明治18) 年7月24日

 七月二十四日附 パリ発信 父宛 封書 五月二十八日附之尊書昨日相届き謹而拝誦仕候処悪病流行後御尊公様御始メ皆々様益御壮康之由大慶此事ニ奉存候 爰許私事大元気ニテ不相語学勉強罷在候故御休神可被下候 橋口氏御出発後ハ当地モ余程淋シク相成□(原文不明)モ松方氏ト私ノ二人ノミニ相成申候 併シ私ノ事ハ万端松方氏御深切ニ世話被相下候故少しも御懸念被下間敷相願上候 去る十九日ハ橋口氏御出発第一番目ノ日曜日ニテ松方氏ニ伴ハレクールブボワト申処ニ行キ大ニ散鬱仕候 此クールブボワト申ハ巴里府郊外ニシテ日本東京ニテ云ハバ千住宿トデモ云可キ処ニ御座候 来ル二十六日ノ日曜ニハ松方氏ト共ニ近在鉄道ニテ二時間位ノ処ニ行ク積ニ御座候 但シ藤氏ト云当地留学ノ画人景色ヲ写サンガ為メ同行スル由ニ御座候 銀貨二百五十仏之為換券慥ニ相届奉拝受候 右ハ昨二十三日公使館松方氏ヘ持参仕金子受領方依頼仕候御休神可被下候 書籍三冊モ御書状ト共ニ相達シ申候御礼申上候 先便ヨリ一寸申上候宗教ニ付テノ一件御一覧被下候由又右ニ付テ御教誨被下候趣委細拝承仕候 暑中休暇モ昨年ノ如ク本八月四五日頃ヨリ始マリ二ヶ月間之由ニ御座候 昨年ノ休暇中ハ橋口氏方ヘ同居致して居候得共今年ハ左様なる訳ニハ不行候 併シ虫ニ食ワレナガラ無課業ノ小学中ニ閑居致し居ルモ金五十仏之謝礼金ハ例之如ク払ワザルヲ得ズ依而松方氏之御世話ニ依リ今年ハ巴里近在ヘ避暑トシテ二ヶ月間ダケ罷越積ニ略決定仕候 先ハ御機嫌伺傍御返事迄 草々 頓首 父上様  清輝拝

1885(明治18) 年7月31日

 七月三十一日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)みようにちからこのがつこうをでましてこうしくわんのきんじよのやどやにとまりにゆくつもりです おやすみぢゆうはそのやどやにおるつもりですからさようごあんしんくださいまし このやどやはこつちについたころなをよんさんと一しよにおつたりつぱなやどやです 一日ぶん六ふらんのやくそくでとまることにきめました 六ふらんはにつぽんのかねで一ゑん二十銭ぐらいです につぽんのかんがへではたいへんたかいものですけれどもこちらでこのぐらいのやどだいはつうれいよりしたではございますけれどもうへではございません なをよんさんにおきゝなさればよくよくわかります このやどやなんどのことはみんなまつがたさんのおせわです ぜんたいこのやどやはわたしなんどのやうなこぞうがおるようなところではありませんけれどもなつのことにてやどをするひとはすくなくそれゆへ一日ぶん八ふらんといふのをまつがたさんがようやく六ふらんにまけさしてくださいましてとうとうこゝにおることになりましたよ(後略)

1885(明治18) 年8月21日

 八月二十一日付 パリ発信 父宛 封書 去る十五日大迫新八郎様当府へ御安着被遊候 当時ハ私も休業中ニて自由ノ身ニ御座候ニ付停車場迄御出迎ひとして罷越候 右大迫氏便より御送り被下候紙包六個慥ニ拝受奉万謝候 又御直左右等承リ大ニ安心仕候 先日学校教師ゴツフアルより左之通申来り候  家屋讓与之期限ニ際シ不得止事故ニ依リ最早改約シ難キ場合ニ立至リ申候 又他ノ一方ニ付テハ我塾ヲ他所ニ移ス可キ宜キ方法ヲ得ズ 幸拙者朋友ジヨフレト申者我諸生ヲ引受ルト申事ニ御座候間右ジヨフレ塾ヘ我塾ヲ合併致ス事ニ今般決定仕候 右ノ次第ニ付ゴツフアル塾ハ来十月限リニ閉校仕候云々(下略)右之通ニ御座候間此ノ休暇後ハ是非共他ノ学校ヘ行かざるを得ざる次第ニ相成申候 併シ万事松方正作氏ヘ依頼致し候ニ付御休意可被下候 今夏ハ箱根湯治御企テ被遊候由定而よき御保養被遊候半と奉遠察候 当地ニテ少シ金ノ有ル者ハ暑中ハ必ズ田舍遊ひニ出掛ル由ニ御座候 就中上等社会ノ者ハ是非共旅行致す由ニ候 又時ニ空気ヲ易ルハ健康上ニ必要ナルモノ承リ申居候 我下宿屋ニ日本人私トモ合セテ三人ニ相成近頃ハ余程にぎやかなる事ニ御座候 其日本人ハ松方巌君及公使附ノ書記生宮川氏也 此ノ宮川氏ハ橋口氏ノあと役として英国より転任セラレシ人也 先日は松方正作氏并に藤氏と云画人と共に近在に行かんと約束致し置きしに藤氏用事有りとて遂ニ仕遂ゲズ 残念 明日ハ又日本人三四人連れニて気車ニ乗シ近在ニ行ク積リニ約束致し置キ候 遠行程愉快ナル者ハ無御座候 宮川氏より古今集をかり読み候処郭公の声を聞て故郷を思ふといふ歌多く有之候付不図一首を考出し候 御一覧被下度候  郭公なかぬ都にすみぬれと恋しきものは故郷のそら 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候 七丁目父上様より御送り被下候品物も慥に拝納仕候間宜敷御礼奉願上候

1885(明治18) 年8月28日

 八月二十八日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)こないだこゝにおる日ぽんじんのともだちと四つたりづれでゑんそくをいたしましてまことにおもしろいことでした あさ八じにこうしくわんにみんなあつまりそれからじようきしやにのりじゆいやんじよいざすといふいなかにゆきました このところにはせいようじんのかねもちにやとわれておるにつぽんのだいくとうゑきやがおります わたしなんどがじようきしやからおりますと大くのげんぺいといふやつがむかいにきておりましたからすぐに一しよにそのひとのすまつておるやしきにゆきました さてそのやしきのもんはにつぽんづくりにてそれからなかにはいつてみるとたかいところのおかのうへにちややのやうなまことにしやれたにつぽんづくりのうちができておりました どうもにつぽんにかへつたようなこゝろもちがいたしました それからだいくだのうゑきやだのみんなかゝつてにつぽんりようりをこしらへしばのうへにけつとをひきみんないたぐらめをしてごぜんをたべました こんどのにつぽんりようりはなかなかしやれたものにてなすびのおこうこだのわかめとのりときうりとごたまぜにしたおすのものがでけるやらまたわかめとたまごのおすいものがでるやらしやもにねぎをいれてにるやらまるでにつぽんのとうりでした それからにつぽんのあさうらぞうりがありましたからくつをぬいでひさしぶりにはいてみました ゆびのまたがすこしいたくてへんなあんばいでした このあんばいぢやにほんへかへつたときにはげたははけますまい よるのめしにはごもくずしができましてまことにうまいことでした それからおとでうゑきやがにつぽんのふゑふきだしのはやしのまねをしましたからにつぽんのさんのうさまのおまつりかなんかをみるようでした めでたしめでたしめでたしかしこ 母上様 ぶじ  新太郎より  せつかくあつさなんどにまけないように いばつておいでなさいまし みなさんによろしくよろしくよろしく したの父上様からなをよんさんへのおてがみはおくつてあげます こんどのてがみはあんまりながくむちやむちやくちやくちやですからよくかんがへてよんでくださいまし〔図 写生帖より〕

1885(明治18) 年9月25日

 九月二十五日附 パリ発信 父宛 封書 秋冷相催候処先以御尊公様御始メ御一同御揃御安康之筈奉賀候 次ニ私事大元気ニテ勉強致し居候間御休意可被下候 先便より御報申上候通此ノ暑中休み前迄居候ゴツフアル塾閉校後ハ未ダ入塾ス可キ好学校ヲ見付申ザス 又高キ下宿代ヲ払ヒ何時迄カ上等ノ下宿屋ニ居ル可キニ非ズト存ジ候故松方氏ニ相談之上加藤ト申当地留学ノ経済学諸生之世話ニテ同人ノ住居スルサンミシエルト申町内ナル一下宿屋中ノ一室ヲ借ル事ト決シ去ル十四日午前引キ移リ申候 学校探索中此ノ下宿屋ニ止宿之積ニ御座候 当地ノ旅店ノ有様ハ日本ノ旅店等トハ大ニ其風ヲ異ニシ只室ノミヲ貸ス処有リ 又其家ニテ食事ヲ為シ得ル所モ有リ 私ノ居ル所ハ只室ノミ貸スモノ故食事ノ時ハ他ノ旅店カ或ハ食事店ニ態々出掛ケザルヲ得ザル也(中略) 私ハ昼晩二度共加藤氏ト同シ処ニテ食事仕候 午食ハホテル・サン・シユルピースト申旅店ニ行キ申候 此ノ処ノ食事ハ前ニ記シタル一度分価幾何ト極リタル所ナリ 併シ他ノ食事店ニ比スレバ至テ廉価ナル者ナルニ依リ先ツ此ノ所ヲ昼食所ト相定メ申候(中略) 毎夜此ノ処ニテ食スル日本人都合五人ニテ甚ダ愉快ナル事也 此ノ五人ハ皆書生也 此ノ下宿屋ニ転居後教師ヲ雇ヒ毎日午後一時ヨリ三時迄二時間ヅヽ仏語并ニ羅甸語ノ稽古ヲ仕候 此ノ教師ハ先年橋口文蔵様当地御滞留中同人ヲ雇ヒ仏語ノ稽古ヲ為サレタル由ニテ文蔵様ヲヨク存居候 二時間ヲ三仏ト相定申候 如此安直ニテ教授スルモノハ他ニ無之由ニ御座候 先日中ハ英国公使館ノ書記生伊集院兼良君当府ニ滞在セラレシニ昨朝英国ヘ向ケ出発被致候 私ハ停車場迄見送り申候 又昨朝ハ日本より伏見宮一行到着セラレタル由承リ候 先日写シ申候写真御送り申上候間私壮健ノ状御一覧被下度候 六丁目并ニ新二郎方等ヘ各一葉ツヽ御分配被下度奉願上候 顔真卿書楷書手本一冊王義之筆書手本一冊郵便ヨリ御送リ被下度奉願上候 右ハ閑暇ノ折慰ノ為メ少シク習字センガ為メニ御座候 顔真卿の書は多宝塔とか申者神保町辺ニ沢山御座候 右ヲ御送リ被下候ハバ幸甚 尤目方重ク候ハバ表板ハ御取除ケ御送リ被下度候 先ハ転居一件御報申上度如此御座候 頓首 父上様 御自愛専要奉祈候  清輝拝

1885(明治18) 年10月1日

 十月一日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)わたしはまだがつこうにはいりませんでやつぱりげしくやにをりまいにち二じかんだけせんせいがきてくれますからこのごろはちようどがつこうにをるときのようにいそがしいことです いまわたしがならつてをるせんせいはあるかんぼうといふひとにてぶんぞうさんをよくしつてをりしじゆうぶんぞうさんのうわさをいたします たいへんしんせつによくをそへてくれます さる二十七日はにちようびでしたからひさまつさん かとうさん くどうさん ふぢしまさんといふひとたちと五にんづれでゑんそくをいたしました まことにおもしろいことでした このぱりすのみやこはちようどとうきようのようなところにてまちのまんなかにひとつ大きなかわがながれております このかわのなをせいぬがわともうします このかわにはたくさんこじようきがございましてしじゆうたゑまなくかよつておりますからたいへんべんりです さてわたしなんどは五にんづれでこのこじようきにのりむうどんと申ところにゆきました このところはまづ東京にたとゑて申ましたならばたまがわのようなところにてぱりすのきんじよのちいさないなかです かわじようきがつくとすぐそのあがりくちにあるりようりやにはいりひるめしをたべましてそれからみんなであるきはじめました このむうどんには大きなもりがございます そのもりをとをりぬけてさきにゆくとべるさいゆと申まちにでます むうどんからこのべるさいゆまで三りのうへもあるでしよう ずいぶんとをいところです さてわたしなんどはむうどんのもりのなかにはいりましてあるきながらはなしをしてわらうやらまたくさのうへにねころぶやらしてそれからとうとうこのもりのなかをとうりぬけてべるさいゆのまちまでゆきこゝからきしやにのりぴーがらがらがらとぱりすにかへりました ちようどろくじはんごろでしたからすぐにめしやにゆきめしをたべました(後略) 母上様  清輝拝

1885(明治18) 年10月14日

 十月十四日附 パリ発信 父宛 封書 一筆啓上仕候 追日寒気相催候処御尊公様御始皆々様御揃益御安康奉大賀候 次ニ私事至極壮健ニ而勉学罷在候間御放念可被下候 先般ゴツフアル塾閉校後松方氏ニモ依頼シテ可然学校ヲ相尋ね申候得共相応之学校見当リ不申 然ルニ暑中休暇モ已ニ相過キ諸小中学校之課業モ相始まり候事故一日モ早ク慥ナル学校ヘ入塾仕度依而今般松方氏之御世話ニテパツシート申処ノ中学校へ通学致す事ニ決定仕候 此ノパツシート申処ハ公使館ヨリ五六町程ノ処ニ御座候 此ノ中学校ノ官立ニシテ家ノ広大ナル事我日本ノ大学校ノ比ニハ無御座候 昨年中ハ当地留学閑院宮モ右中学校ヘ通学被遊候 昨日松方氏ト共ニ右中学ヘ罷越し校長ニ面会仕色々規則等承り第五級ヘ入ル事ヲ被許申候 通学生ノ月謝ハ一ヶ月分二十五仏我五円余位ニ御座候 校長ハ多ク日本人ヲ知リ居リ且ツ至極深切ラシキ人ニ御座候間甚ダ仕合セニ御座候 又松方氏ノ御世話ニテ公使館ヨリ三四町位トロカデロ町ト申処ニ一人ノ仏語教師ヲ見付ケ申候 同人ノ宅ヘ止宿シ家内ノ者ト共ニ食事ヲ為シ而毎日学校ヘ通ヒ又別ニ同家ニテ夜分ナド仏語ヲ勉強スル筈ニ相定メ申候 食事料室代授業料等合併ニテ一ヶ月三百五十仏ト申候ヲ二百仏ニねぎり付ヶ申候 万事松方氏ノ御影ニ御座候 右教師之家ハ夫婦 子ども及ビノルべージユトカノ旧海軍士官一人仏語稽古ノ為メ同居致し居ルトノ事ニ御座候 其海軍士官ハ五十歳ノ老人ナル由ニ御座候 私ハ近頃十五歳ト申居候 西洋人ノ中ニテハ至極相当ノ値ウチニ御座候 先ハ用事迄 草々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候 来る十六日午前新教師方へ引移り其翌日より通学ヲ相始むる積ニ御座候 皆々様へ可然御伝声奉願上候

1885(明治18) 年10月29日

 十月二十九日附 パリ発信 父宛 封書 八月二十一日并ニ九月四日附ノ御尊書謹而拝誦仕候 於御地御尊公様御始メ皆々様御揃ヒ御堅固之由大慶此事ニ奉存候 橋口直右衛門様御事八月二十八日御安着直左右並ニ当地ノ情況等委細御聞取被下候由大ニ安心仕候 同氏ノ御病気御出発如何ト案し居申候処已ニ略平癒との事雀躍此事ニ御座候 次ニ私事至極壮健毎日中学校ヘ通学罷在候間御休神可被下候 此ノ中学校ハ今迄ノ私塾とハかわり規則余程厳格ニ御座候 課業ハ朝八時ニ始マリ十時ニ終リ午後ハ二時半ニ始マリ四時半迄ナリ 尤モ火土ノ二日ハ画学有之候間午後一時半ニ始マリ申候 此ノ画学ハ只線ヲ引クノミニシテ至而初歩之モノニ御座候 らてん語ハ略毎日ニテ此ノ中学ノ課業ハらてん語ノミナリト申テモ宜き程ニ御座候 私ハらてん語ハ夏休み前ニ始メタルノミニ御座候間已ニ一年間モ学ヒタル諸生と共ニ学フハ甚ダむつかしく平日ハ寸暇無御座候 又毎日木ノ二日ハ休業ニ御座候 毎火金ノ二日ハ英語ノ課一時間ヅヽ有之候 右ノ次第ニテ中学ニテハ仏語学ハ甚だ少ナキモノニ候 因而私ハ帰宅後即ち夜食後亭主ノ妻ヲ教師トシテ少シづヽ別に仏語を勉強罷在候 近頃ハ今迄通リノ金額ニテハとてもむつかしく毎月少シヅヽハ使ヒ込み申候間左様御承知被下度候 右使込と申は敢テ無益ニ浪費スルニハ無御座候 実際不得止次第ニ御座候 其故ハ寄宿料ト別課ノ高キトノ二点ニ御座候 此ノ別課ノミハ是非共定額ノ外ニ出テザルヲ得ザル一件ニ候 此ノ別課ハ只今ノ処ニテハ学ビ不申候処□□(原文不明)早クらてん語ノ上達ヲハカルニハ是非共別課ヲ学バズンバアル可カラザル次第ナリ 其別課ノ授業料ト申ハ非常ニ高価ナルモノニテ毎週三回ニテ一ヶ月分七十仏 二回ニテ五十仏ト申事ニ御座候 余り高きもの故当分見合セ申居候 いつれ委細ハ後便より御報可申上候 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候 当地近頃雨降りのみニテ誠ニ閉口ノ至ニ御座候 来月三日ハ天長節故公使館ニテ如昨年夜会有之由蜂須賀公使よりノ招状昨夜到来致し候  先日新聞紙中ニ日本法律史トカ申書物政府ニテ出版相成候由相見エ申候 若シ右書籍世間ニテ売リ出シ且ツ他ノ歴史ノ如ク大部ノモノニ無之候ハヾ御序ノ折御送り被下度奉願上候  先便ヨリ御注文申上候手本ノ儀ハ要用ナルモノニ非ザル事ハ勿論当分ニテハ慰ミナリトモ手習ヲスル時間ハ無之候間若シ未ダ御送リ出シニ不相成候ハヾ御取止メ被下度候 右手本ハ全ク休業中ノ出来心ニテ御注文申上候事ニテ只今ニテハ何ニ故如此必要ナラザルモノヲ態々御注文申上シカト後悔罷在候 何ニカ面白キ書籍出版ニ相成候時ハ御送リ被下度奉願上候 右要用迄如此御座候 父上様  清輝拝

1885(明治18) 年12月3日

 十二月三日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)こうしくわんへはらさんといふおかたがおつきなさつたよしけさうけたまわりました こんにちはおやすみですからこのてがみをかきとりしだいこうしくわんにゆきはらさんといふおかたにおめにかゝるつもりです(後略) 母上様  新太

1885(明治18) 年12月11日

 十二月十一日附 パリ発信 父宛 封書 十月十二日附け即ち原氏便よりノ尊書及十月二十一日附母上様よりノ御書状等慥ニ相届謹而拝誦仕候処先以て御尊公様御始皆々様益御壮健之由奉大賀候 次ニ私事大元気ニテ勉強罷在候間御休神被下度候 原氏も先日安着相成公使館ニテ面会致し御直左右等委細承リ大ニ安心仕候 同氏へ御頼み被下候紙包二つハ荷物外ニ相成候故日本ヘ留め置かれ候由ニテ未ダ落手不仕甚ダ残念なる一件に御座候 併シ右紙包は外務省より送ル可キ様手続キ致し置かれ候との事ニ御座候間不日到来可致と相待ち申居候 慶安太平記三冊ハ三四日前相届き申候奉万謝候 学資金として御送り被下候金五十円ノ為換券謹而拝受仕候 当時松方氏イスパニヤ国旅行中ニ御座候間公使館書記生宮川氏ヘ受ケ取方等依頼致し置候ニ付御休神可被下候 御尊公様御事正四位ニ御昇進被遊候由大慶其事に奉存候 郭公之歌どふやら歌ニなり居候由又其御返しとして玉詠御送り被下難有奉万謝候 当地去る八日初雪降リ十日夜亦少シク降リ今ニ屋上路傍等積リ居申候 私下宿致し居候家の子息撃剣を始むる由承り候故私も再び始むるの好機会と存し其旨話し置候処教師の朋友陸軍中尉べルナールと申人の世話にてよき教師を見出し去る六日より相始しめ申候 其教師ト申ハ隊付ノ撃剣教師ニテ一週二回即チ日木ノ二日兵営中ニテ授業致シ呉れ申候 月謝ハ一ヶ月分二十仏に御座候 先ハ御返事傍用事迄如此御座候 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要に被下度候 皆々様へ宜敷御伝言奉願上候

1886(明治19) 年1月15日

 一月十五日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)私事昨年休暇後松方氏ノ御世話ニテ当地ノ中学校通学ヲ始メ殆ンド二ヶ月半程同処ニ於テ勉強致し候 然ルニ今般松方氏ヘ相談之上更ニ策ヲ変ジ中学ヲ去リ只別ニ教師ヲ取リ勉強スル事ト相定メ申候 其後ハ当地中学学校ノ課目中ニハ羅甸希臘ノ二語十中七八に位シ仏語学ハ至而少シ(仏人ハ別ニ仏語学ト云テ専門ノ様ニ勉強セザルトモ年ト共ニ充分ニ語学ヲ学ヒ得ルナリ) 故ニ外国人ノ為ニハ甚ダ不都合ナル学課ト云可シ 尤モ羅甸ハ法律ヲ学フニハ至而必要ナル者ト承リ候得共希臘語ノ如キニ至而ハ法律ヲ学フ為メニハ少モ用ナシト申事ニ御座候(中略) 且ツ私事ハ第五級ニ入候故普通学ヲ卒業シ大学ニ入ル迄ハ尚五年ヲ要ス 而又大学ニ少ク共四五年ハカヽル事ナレバ前後十年ノ後ニ非ザレバ一人前ト為ルヲ得ザルナリ 右之通故余リ馬鹿ゲタル一件ト存ジ松方氏ニ委細相談仕中学を去ル事ト相定メ已ニ去月二十八日ヲ以テラシヌ町ト申処ヘ引移リ毎日アルカンボウト申教師ヲ取リ二時ヅヽ仏語ハ勿論羅甸ト英語ヲ少シヅヽ勉強致居候 又来期ノ始メ即ち今年夏休後ヨリハ是非共法律専門ニ入リたき事ト存ジ候 依テ耳慣シノ為メ時々法律大学校講義傍聴ニ罷越候 普通ノ話ニハ最早不都合ナキ様ニ相成候得共未ダ講義ナドハ充分ニ解スル事ヲ得ズ残念此事ニ御座候 併シ折角勉強致し候間御休神可被下候 又万事松方氏之御世話ニ相成候間甚ダ仕合ニ御座候 法律専門相始メ候事ニ付テハ田舍ノ大学校ニ於テ勉学スル方ガ此巴里ノ都府ニ於テスルヨリモ金モ入ラズ萬事徳用ナリト田舍行ヲスヽムル人ナド有之又松方氏モ田舍行ノ事ニ付テハ至極御同意ニ御座候間当時松方氏ニ依頼シ可然田舍さがし方ニ御座候 多分田舍ニ行く事と相成と存しいづれ定まり次第委細御報道可仕候間左様御承知可被下候 松方氏モ今般辞職ノ上官費生と為りベルジク国ニ行き交際学ヲ勉強セントテ辞表モ已ニ奉リ日本政府ノ許可次第当地出発ノ由承リ候 ベルジク国ハ当地ヨリハ近キ処ニテ矢張仏語ヲ話ス処ノ由ナリ(後略) 父上様  清輝拝

1886(明治19) 年1月29日

 一月二十九日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)以先便申上候通已ニ中学校ヲ去リ当今ハ毎日法律学校又仏蘭西校ト申処ニ二時間位ヅヽ罷越法律経済なドノ話ヲ耳ナラシノ為傍聴仕居候 又毎日二時間特ニ教師ヲ雇ヒ勉強致し候間御休神可被下候(後略) 父上様  清輝拝

1886(明治19) 年2月10日

 二月十日附 パリ発信 父宛 封書(前略)次ニ私事至極壮健先般松方氏ノ御世話ニテモンルージユト申処のミルマンと云老人の私塾に入塾仕此ノ処より毎日法学校又ハ仏蘭西校ト申処ヘ通学仕講義傍聴致居候 下宿屋ニ居ルよりも塾ニ居りて勉強致す方仏語学の為メニも宜しく又当地ハ書生ノ為ニハ有名ノ危険ノ場処故入塾致し居方皆々様も御安心可被遊と奉存候 松方氏も去五日午後六時二十分之気車ニテベルジク国ヘ向ケ出発ニ相成候故当地ハ甚ダ淋しク相成申候(中略) ミルマン塾ヘハ是迄渡氏ヲ始メトシテ日本人常ニ絶エズ入塾致し居し処ノ由ニテ日本人ノ写真なども沢山御座候(中略) 臥遊席珍五冊先日慥に公使館にて請取閑暇ノ折読み居申候 余程面白き事ニ御座候 右厚く御礼申上候 公使館ニテ一ヶ月一度ヅヽ日本人ノ会がある事ニ相成去る七日が初会ニテ御座候 山本(当地在留ノ画工)藤(工部大学卒業生ニテ同工部省より官費ヲ以テ油絵ヲ学ブ人)林(当地在留ノ日本画其他諸古物ナドノ商人先ヅ一寸云ハヾ古道具屋也)ノ諸子ガ日本美術ノ西洋ニ及バザルヲ嘆ジ私ニ画学修業ヲしきりに勧め申候 且つ私ニ画ノ下地あるを大ニ誉め曰ク 君ニシテ若シ画学ヲ学ひたらんにはよき画かきとなるや必せり 君が法律を学ぶよりも画を学びたる方日本の為メニモ余程益ならん などゝ迄申候故少しく画学を始めんかとも思ヒ居候 固より好きの事故少しく勉強したらんには進歩可致と存候 先ヅは一左右草々如此御座候 頓首 父上様  清輝拝

1886(明治19) 年3月19日

 三月十九日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)先日藤島ト申当地在留ノ本願寺僧ノ世話ニテ当地ノ諸大学校生徒相集り組織せる書生会ト申へ入会仕候 会費ハ一ヶ年分十二仏ニテ即チ一月ガ一仏ナリ 此会ハ二年前ニ立チシモノニシテ只今ニテハ余程盛ナルモノニ御座候 諸生ノ為メニ出来シ会故諸生ニ取テハ都合よき事不少 同会々員ノ証ヲ持チ居レバ写真ヲ写す時モ(同会ニテ定メタル写真屋)其価ノ幾分カヲ減ズ 芝居(之レモ同ジク会ニテ定メタルモノニ限ル)ニ於テモ亦然リ 第一私ノ為メ便利ト申ハ撃剣ニテ同会ノ教師ヲ頼ミ修業スル時ハ今迄ノ半額即チ一ヶ月分十仏ニテスミ候 本月より同会ニテ修業致ス積リニ御座候 又其会ニハ勉強室書籍庫等有リ 今般ノ大改革ニテ官吏モ試験ヲ受ケ採用セラルヽ事ト相成候由為国家大慶之至奉存候 私モ来朝ノ始メヨリハ是非専門学ニ移りたきものと折角勉強罷在候間御休神可被下候 今日ノ洋学者ハ十年前ノ洋学者トハ異ひ候間官員目的よりも自力生活方法ノ方専要ナリト存候 只今ノ処ニテハ先ヅ先ヅ生活モ容易ナル可キモ他日西洋各国ノ如ク余リ外国人ニ自由ヲ与ヘ白人種ガ日本ノ内地ニ入リ込ミ金ニ任セテ各種ノ業ヲ興ス時ニ至ラバ始メテ日本人難儀可致ト存候 此ノ害即チ外国人ガ内地ニ入リ込ミ内国人同様ノ権利ヲ以テ生活シ内国人ノ利ヲ奪フ如キハ此ノ仏国ニテモ同ジ事ナリ 即チ外国ノ職人が沢山入リ込ミテ内国人の職ヲ奪ヒタルガ為メ内国人ハ非常ノ困難ニおちいりたり 米国が支那人ニ於ケルモ皆同シ 折角勉強三四年ノ後ハ是非一人前ノ人間ニ相成可申候間御休神可被下候 先は御返詞迄 草々 頓首 父上様  清輝拝

1886(明治19) 年4月9日

 四月九日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)わたくしもこの五日の日にこちらにおるにつぽんじんみんなとはぶるといふところにふなおろしをみにまいりました なかなかおもしろいことでございました(中略) なんでもこちらからいつたにつぽんじんがふしみのみやさんやこうしくわんのひとたちをみんなあわせて二十二三にんばかりでした さてはぶるといふところにつくとかいぐんのひとなどがむかいにきておりすぐにばしやにてはぶるだい一といふやどやにまいりました このやどやはうみばたにてまことによいところです わたしはふぢとごうだといふひとと三にんですぐはまべにでてかけあるきました ひさしぶりでうみをみましたからまことにうれしいことでした(後略)母上様  新太郎より

1886(明治19) 年4月23日

 四月二十三日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)当地気候全ク春ニ相成申候 此頃ハパークト申当地ノ大祭ニテ諸学校等二週間程ノ休業有之候 私ノ居ル学校ハ明土曜日より休ニ相成来週中ハ休業ノ事ニ御座候(中略)我塾長ミルマン氏ハ昨日出発フヲンテヌブロート申当地有名ノ絶景ノ地ニ罷越し候 妻君モ同ジク同地ヘ向ケ明日出発するとの事ニ御座候 私モ此ノ休中ニハ遠足デモせんかと独り考ヘ居申候(後略) 父上様  清輝拝〔図 写生帖より〕

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