研究所の業務の一部をご紹介します。各年度の活動を網羅的に記載する『年報』や、研究所の組織や年次計画にもとづいた研究活動を視覚的にわかりやすくお知らせする『概要』、そしてさまざまな研究活動と関連するニュースの中から、速報性と公共性の高い情報を記事にしてお知らせする『TOBUNKEN NEWS (東文研ニュース)』と合わせてご覧いだければ幸いです。なおタイトルの下線は、それぞれの部のイメージカラーを表しています。

東京文化財研究所 保存科学研究センター
文化財情報資料部 文化遺産国際協力センター
無形文化遺産部


来訪研究員金子牧氏による研究発表

 昨年7月から1年間、企画情報部来訪研究員として調査研究を行ってこられたカンザス大学美術史学部アシスタント・プロフェッサーの金子牧氏が来訪期間を終えるにあたり、6月28日に企画情報部研究会において成果発表を行いました。金子氏はアジア太平洋戦争および戦後という時代が美術家たちの制作にどのように表出されるかを追及しておられ、その調査の中で浮かび上がってきた興味深い問題のひとつとして素朴な貼り絵で知られる山下清(1922-71)を巡る評価の変遷に着目し、「「国民的画家」の表出:アジア・太平洋戦争期と戦後の「山下清ブーム」と題して発表されました。
 山下清が最初に注目を集めた時期は日中戦争勃発から1年目にあたる1938年から1940年までの二年間で、その頃は知的障害を持ちながら優れた造形力を示す「日本のゴッホ」といった位置づけであったのに対し、戦中を経て再度注目された1950年代半ばには無垢な感性で牧歌的な郷愁を誘うイメージをつむぐ「国民的な画家」として語られていきます。
 金子氏はそうした山下清像に、戦争に向かって総力戦体制を構築していった1930年代後半、そして「もはや戦後ではない」と言われ、戦争の記憶が様々な形で甦った1950年代、という二つの時代の社会状況が反映されているのではないか、と指摘されました。
 狭義の「美術」という枠を超え、視覚表象の受容のあり方から社会を分析しようとする興味深い試みでした。金子氏は6月末に当所での調査を終え、帰国されました。

第36回世界遺産委員会

世界遺産委員会の会場となったタブリーダ宮殿
パレスチナの資産の記載が決まった瞬間の会場の様子
歓迎レセプションでの花火(ペテルゴフ大宮殿)

 第36回世界遺産委員会は、6月24日~7月6日、ロシアのサンクトペテルブルクで開催されました。当研究所では、世界遺産リストに記載されている資産の保全状況や、リストへの記載の推薦に対して、諮問機関が行った評価や勧告内容の要約と分析を事前に行うとともに、筆者を含む3名が委員会に参加し情報収集を行いました。
 今回は26件の資産が新たにリストに記載されました。記載延期の勧告から記載の「2段階昇格」資産は2件で前回より減りましたが、情報照会が勧告された資産6件すべてが記載され、諮問機関の勧告が覆される傾向は委員国の改選で緩和されたものの、まだみられるといえます。また、今回記載された資産には鉱山遺跡が3件ありますが、いずれも労働運動や事故など「負の歴史」にも関連し、歴史の暗部に着目する傾向も引き続きみられました。
 世界遺産条約は最も成功した条約ともいわれ、190カ国が批准しています。その知名度を象徴する現象として、今回「キリスト生誕の地:ベツレヘムの聖誕教会と巡礼の道」が緊急に記載されましたが、記載の推薦は「国家」が行うので、パレスチナが国家であることをアピールするものです。また、マリの世界遺産がイスラム原理主義者により破壊されましたが、これも、世界遺産の破壊という行為が世界に与える影響を考慮したものといえるでしょう。
 昨年のパレスチナの世界遺産条約批准によりアメリカの分担金拠出が停止され、最大の拠出国は日本となりました。また今回から、日本は委員国として自由に発言できる立場となったこともあり、日本が果たすべき役割は大きいといえます。当研究所では、国内関係者への情報提供とともに、世界遺産委員会へ日本が貢献するための情報分析などの支援も実施していきたいと考えています。

仙台、昭忠碑の高所作業車による調査・作業

高所作業車による調査の様子。右下に落下したブロンズの鵄がみえます。
塔上、ブロンズ部の被災の様子。中央から右に突き出した植物装飾が、緩んだボルト一本でかろうじて留まっている状況です。

 仙台城(青葉城)本丸跡に建つ昭忠碑は、明治35年(1902)、仙台にある第二師団関係の戦没者を弔慰する目的で建立されたモニュメントです。今年1月の活動報告でもお伝えしたように、同碑は昨年の東日本大震災で20m余りの塔上部に設置されたブロンズの鵄が落下・破損するという被害を受けました。そこで1月に行なった被害調査・破片回収に引き続き、6月26日には文化財レスキュー事業の一環として高所作業車を使用し塔上部・塔部の被害調査および破片回収等の作業を実施しました。
 今回の調査・作業には昭忠碑を所有する宮城縣護國神社の方々をはじめ、宮城県被災文化財等保全連絡会議から三上満良氏(宮城県美術館)、国内にある屋外彫刻の調査保存で実績のある屋外彫刻調査保存研究会の方々、地元建設会社の(株)橋本店の方々が参加し、また東京芸術大学美術学部工芸科の橋本明夫氏、同大学美術学部教育資料編纂室の吉田千鶴子氏も調査に加わりました。また今回の作業は、(有)カイカイキキから文化財レスキュー事業に役立てるべく東京文化財研究所にいただいた寄付金により行われました。
 今回の調査では塔上部にも多くのブロンズ破片が散乱していることがわかり、その回収を行いました。さらに残存するブロンズ部を調査したところ、植物装飾の一つが緩んだボルト一本でかろうじて留まっていること、ブロンズの鵄を支えていた柱礎のくびれ箇所に亀裂が廻っていること、塔上で水平に張り出したコーニスに落下したブロンズの一部が衝突して陥没した穴がみられること等が確認されました。今回は外れかかっている植物装飾をベルトで固定し、柱礎より上の部分をブルーシートで覆いましたが、これはあくまで応急処置であり、再び大地震が発生すれば塔下へ落下する危険性があります。さらにコーニスにあいた穴や破損した柱礎からの雨水の塔内へ侵入が塔全体の崩壊につながる恐れもあり、塔下に落下したまま放置されているブロンズの鵄の処置と併せ、引き続き対策を講じていくことが必要です。

横山大観《山路》(永青文庫蔵)、修理後の調査撮影

横山大観《山路》(永青文庫蔵)、調査撮影の様子

 これまでの「活動報告」でもたびたびお知らせしたように、企画情報部では研究プロジェクト「文化財の資料学的研究」の一環として、横山大観《山路》の調査研究を永青文庫と共同で進めています。同文庫が所蔵する大観の《山路》は、明治44年の第5回文部省美術展覧会に出品され、大胆な筆致により日本画の新たな表現を切り拓いた重要な作品です。同作品が今春に修理を終えたのを機に、寄託先の熊本県立美術館で5月12日に城野誠治(東京文化財研究所)による高精細画像の撮影、および三宅秀和氏(永青文庫)、林田龍太氏(熊本県立美術館)、小川絢子氏、塩谷純(東京文化財研究所)による調査を行いました。
 《山路》ではザラザラとした岩絵具が多用されているのが特色ですが、従来の図版ではなかなかそこまで確認できるものはありませんでした。今回の撮影による画像は、そうした絵肌のニュアンスまでよく伝えており、くわえて部分の高精細画像は2010年秋に行った蛍光X線分析の成果とあわせ、使用された顔料についての検証に役立つものと期待されます。これらの研究成果は今年8月の研究協議会を経て、今年度中に一書にまとめてご報告する予定です。

メラニー・トレーデ氏講演会の開催

ディスカッションの様子

 日本の美術品が欧米でも所蔵され、高い評価を得ていることはよく知られていますが、日本美術史の研究もまた海外の専門家によって活発に行われています。そうした研究拠点のひとつであるドイツ、ハイデルベルク大学教授のメラニー・トレーデ氏をお招きし、3月5日に当研究所セミナー室にて「『文化的記憶』としての八幡縁起の絵画化―その古為今用」と題して講演会を行いました。
 「文化的記憶」とは、ある作品から多くの人々が想起し、共有する政治的・社会的・宗教的な背景のことです。日本美術史をご専門とするトレーデ氏ですが、欧米における他分野の研究も広く援用しながら、中世の絵巻から近代の紙幣までも視野に入れて八幡縁起の政治性を検証する内容は大変刺激的なものでした。
 講演は高松麻里氏(明治大学非常勤講師)の逐次通訳で二時間余り行われ、引き続いて津田徹英(企画情報部)の司会で、土屋貴裕氏(東京国立博物館研究員)・塩谷純(企画情報部)をコメンテーターとしてディスカッションを行いました。会場からは歴史学や国文学の研究者からの積極的な発言もあり、八幡縁起をテーマに、時代や分野といった専門領域を越えて意見を交換する貴重な機会となりました。

佛光寺所蔵『善信聖人親鸞伝絵』の調査・撮影

絵巻の高精細デジタル撮影

 京都・佛光寺には、親鸞(1173~1262)の出家から没後の廟堂建立までを描いた絵巻『善信聖人親鸞伝絵』(上下二巻)が伝えられています。これは先行して成立した三重・専修寺に伝えられた同題の絵巻を踏まえながら、それには認め難い絵相と詞書を含むことで知られています。また、詞書は後醍醐天皇の晨翰とも伝えられています。本絵巻は、これまで非公開を原則とし、大切に伝えられてきたため、折れ伏せなどの修理の痕跡が全く存在せず、かつ、黒色に変色しやすい銀泥も輝きを失っておらず、制作当初の鮮やかな色使いが今日まで伝えられている点で特筆されます。しかしながら、制作年代に関しては中世(14世紀)に遡るという見方と近世(18世紀以降)に下るとする見方が根強くあります。
 企画情報部の津田徹英、小林達朗、城野誠治は、この佛光寺本『善信聖人親鸞伝絵』について、同寺宗務所のご理解と協力を得て、2012年2月23、24日の両日に及んで同寺大広間において調査・撮影を行いました。目的とするところは、これまで調査の機会が極めて限られていたことをかんがみて、今後、本絵巻が文化財研究のために広く資するべく、絵伝そのものに即した基礎データづくりを目指し、撮影についても一紙ごとに高精細デジタル撮影を行いました。そして、その過程で得られた知見については、2月29日の企画情報部研究会において中間報告を兼ねて研究発表を行うとともに(津田徹英「佛光寺本『親鸞伝絵』をめぐって」)、本作の存在を広く知ってもらうために、最も絵相に独自性が打ち出されている上巻「六角堂夢告」の場面を、企画情報部フロアーの壁面パネルで公開いたしました。なお、本調査・研究は平成23年度メトロポリタン東洋美術研究センターの助成を得て実施したもので、東京文化財研究所企画情報部の研究プロジエクト「文化財デジタル画像形成に関する調査研究」の成果の一部です。

仙台、昭忠碑のレスキューに向けて

被災前の昭忠碑
被災後の昭忠碑。上部にあったブロンズの鵄が真っ逆様に落下しています。

 昨年の東日本大震災では、数多の文化財もまた甚大な被害を受けました。当研究所に事務局を置く東北地方太平洋沖地震被災文化財等救援委員会では、津波の被害にあった沿岸部をはじめとする地域の文化財の救出活動に当たってきましたが、この1月より仙台城(青葉城)本丸跡に建つ昭忠碑(宮城縣護國神社)のレスキューに着手しました。 明治35年(1902)、仙台にある第二師団関係の戦没者を弔慰する目的で建立された昭忠碑は、20m余りの石塔の上に両翼をひろげたブロンズの鵄(とび)を設置したものですが、今回の地震で鵄の部分が石塔下に落下、左翼部が断裂するなど大きく破損し、無残な姿をさらしていました。1月22・23日に行ったレスキューでは、護國神社の方々とともに、人力で移動可能なブロンズの破片を回収し、あわせてブロンズ本体の移動等、今後の処置について話し合いました。
 この昭忠碑は東京美術学校(現在の東京藝術大学)が制作依嘱を受けたもので、図案を河辺正夫、ブロンズの原型製作を沼田一雅、鋳造を桜岡三四郎と津田信夫が担当したとされています。いわば当時の美術学校の粋を集めたモニュメントであり、小松宮彰仁親王の揮毫による「昭忠」の銘板を石塔中央に掲げた本碑は、戦時中の金属供出も免れてその雄々しい姿を伝えてきました。被災した本碑を今後どのように救出し、後世に伝えていくのか――資金の調達等、多くの困難が予想されますが、その文化財としての価値に思いを致すなら、本碑があらたに復興のシンボルとして蘇ることを切に願ってやみません。

「諸先学の作品調書・画像資料類の保存と活用のための研究・開発—美術史家の眼を引継ぐ」科研中間報告会の開催

統合版データベースのデモ画面
京都府教育庁文化財保護課『平等院鳳凰堂建築彩色顔料調査報告—特に青色顔料について』(田中一松資料)、昭和30年(1955)8月10日に行われた平等院鳳凰堂修理委員会での資料。今回のデータベース試作段階において明らかになった資料で、「代用群青」という用語の初出例と見られる。

 12月20日に企画情報部研究会として、標題の科学研究費研究課題(代表者:田中淳)の中間報告会を開催しました。当研究所には、かつての業務で使用した資料や、元職員のご遺族などからご寄贈いただいた調書や写真などが数多く保管されており、研究資料として保存と活用を進めています。また従来の美術史研究では見過ごされてきた関連資料なども積極的に活用して、研究を推進しています。対象とする資料は、刊行物のように分類・管理が容易なものばかりでなく、肉筆のメモやスケッチ、会議や研究会の配付資料、35mmスライド、16mmフィルムなど、実に多種多様なものが含まれています。これらは整理が難しく、他の美術館・博物館や図書館、大学などの組織では敬遠されてきた資料とも言えますが、稀少性の高いものも少なくありません。標題の研究課題は2009年度から4カ年の計画で実施し、今年度は3年目にあたります。企画情報部員や客員研究員によって、数多くの資料を分担して、整理とデジタル化を進めています。今回の中間報告会では次のようなタイトルで、各資料の分担者が報告を行いました。
 江村知子「「昭和の古画備考」−田中一松資料を今後の研究に活用していくために」、皿井舞「久野健資料について」、三上豊(和光大学・当部客員研究員)「現代美術資料—画廊等のDM・目録等の整理と今後の課題」、中野照男(客員研究員)「柳澤孝資料について」、綿田稔「田中助一資料について」、田中淳「田中敏男資料について」
 また、資料ごとにデータベースが林立し、文化財アーカイブとしての全体像が見えにくいという問題を解決するために、当研究所で現在運用中の書籍・展覧会カタログ・美術文献・写真原板などのデータベースと、田中一松・久野健・梅津次郎の各資料の基礎データを統合させたデータベース(総数約635,000件)を試作してデモンストレーションを行いました。様々な形態で存在している研究資料を一括して検索できるばかりでなく、複合的に進行している研究動向を浮き彫りにすることができ、専門的アーカイブの新たな方向性として有効です。より精度の高い情報ツールとして運用していくためには多くの課題がありますが、さまざまな研究において活用できる文化財アーカイブの構築をめざしていきたいと思います。

横山大観《山路》(永青文庫蔵)、本紙裏面からの調査

横山大観《山路》(永青文庫蔵)、本紙裏面の撮影の様子

 昨年10月の活動報告でもお伝えしたように、企画情報部では研究プロジェクト「文化財の資料学的研究」の一環として、横山大観《山路》の調査研究を永青文庫と共同で進めています。同文庫が所蔵する大観の《山路》は、明治44年の第5回文部省美術展覧会に出品され、大胆な筆致により日本画の新たな表現を切り拓いた重要な作品です。昨秋の調査の後、同作品は九州国立博物館の文化財保存修復施設で修理をすることになりました。表具を解体、裏打ち紙を除去して、絵具ののった絹地(本紙)の裏面があらわになったのを機に、同博物館および修理を担当する国宝修理装こう師連盟のご高配・ご協力を得て12月9日に再調査を行いました。裏面から薄い絹地を透かして画面を見ることで、表からではわからない制作過程がうかがえます。とくに本作品で特徴的な、紅葉をあらわす茶褐色の顔料は一見、後から点じられた筆致のように見えますが、裏面からの調査によって、本画制作のかなり早い段階で塗られていることがわかりました。
 今回の調査は永青文庫の三宅秀和氏、《山路》が寄託されている熊本県立美術館の林田龍太氏、これまでの調査に参加されてきた東京藝術大学の荒井経氏・平諭一郎氏、そして当研究所の城野誠治と塩谷で行いました。城野が本紙裏面の高精細による撮影を行いましたが、こうした修理途中の作品の調査撮影は稀であり、解体しなければ見ることのできない本紙裏面の画像はきわめて貴重な資料となるはずです。

アンコール遺跡群での現地調査と覚書の更新

石材上の生物の種類と環境条件に関する調査
覚書への調印

 平成23年12月、カンボジアのアンコール遺跡群での現地調査と、東文研・奈良文化財研究所(奈文研)およびアンコール地域遺跡整備機構(APSARA機構)との覚書の更新を実施しました。
 アンコール遺跡群での活動の目的は、石材の保存にとって適切な環境条件を解明することです。石材の生物による劣化はアンコール遺跡群における共通の課題であり、生物の種類によって石材に及ぼす影響は異なると考えられます。しかし、環境と生物の種類との関連について、分類学的な内容を含む調査研究を行っている団体は少ないのが現状です。東文研では、環境条件と石材表面に生育する地衣類、蘚苔類、藻類などの種類との関連を明らかにし、それらの生物が石材に及ぼす影響を定性的・定量的に評価するための調査研究を実施しています。今回、日本および韓国から地衣類の分類学的研究の専門家、イタリアから植物生態学および文化財の生物劣化の専門家にも参加していただき、これまで継続的に調査を行っているタ・ネイ遺跡をはじめ、タ・ケオ、タ・プローム、バイヨンなど、環境が異なる周辺のいくつかの遺跡で調査を行いました。現在は各研究者が現地調査で得られた情報の解析を行っています。また、タ・ネイ遺跡では、付近の採石場から切り出した石材試料を遺跡に長期間設置して表面状態の変化の観察を行ったり、過去の保存処理実験の経過観察を行ったりしています。
 現地調査に引き続き、アンコール遺跡群での共同研究に関するAPSARA機構との覚書を更新しました。従来、覚書は東文研と奈文研がAPSARA機構との間でそれぞれ取り交わしていました。今回から、同じ地域で活動する両文化財研究所の連携を深めるため、三者の間で締結することとなり、シエムリアップにあるAPSARA機構の本部で東文研の亀井所長、奈文研の井上副所長とAPSARA機構のブン・ナリット総裁による調印式を実施しました。今後は、修理事業が予定されている西トップ遺跡でも保存整備のための調査研究を行います。

第45回オープンレクチャー「モノ/イメージとの対話」の開催

髙岸輝氏の発表風景(11月11日)
佐々木守俊氏の発表風景(11月12日)

 企画情報部では、日々の研究の成果をより広く知っていただくために、所外の方々に向けたオープンレクチャー(公開学術講座)を毎年秋に開催しています。45回を数える今回は、新たに「モノ/イメージとの対話」と銘打ち、動かぬモノでありながら人々の心の中に豊かなイメージを育む文化財の諸相をめぐって、所内外の美術史研究者4名が11月11・12日の両日にわたり当研究所のセミナー室で発表を行いました。
 11月11日は「日本美術史における様式の複線性―様式の選択と編集」というテーマのもと、当部研究員の皿井舞が「平安時代前期から後期へ―六波羅密寺十一面観音像の造像」、東京工業大学大学院准教授の髙岸輝氏が「鎌倉時代から室町時代へ―中世やまと絵様式の源流と再生」の題で発表しました。“様式”という美術史ならではの概念をキーワードとしながら、皿井はとくに制作背景との関わりから10世紀半ばという様式過渡期の造像について考察し、また髙岸氏は平安末期~室町期の絵巻を通して、やまと絵様式の流れを重層的にとらえる自論を展開されました。
 12日は「古美術のコンセプト」というテーマで、当部広領域研究室長の綿田稔が「室町漢画の基盤―周文と雪舟の場合」、町田市立国際版画美術館の佐々木守俊氏が「平安~鎌倉時代の印仏―スタンプのほとけ」と題して発表を行いました。造形的な面ばかりが語られがちな古美術ですが、綿田は雪舟筆「秋冬山水図」(東京国立博物館蔵)やその師である周文の作品を、佐々木氏は仏像の内部に納入された印仏を対象に、それぞれ当時の制作状況や機能に照らしながら、今日ではすっかり忘れられてしまったそれらの“コンセプト”をあぶり出しました。
 今回は各日128名、108名と例年にも増して多くの方々が受講され、会場は満席状態でした。いずれの発表も各研究者の最新の研究成果を報告したものでしたが、学会レベルの内容にもかかわらず、受講者の方々の関心も高く、最先端の話題にご満足いただけたようです。

アゼルバイジャン国立美術館所蔵日本関係美術品調査

アゼルバイジャン国立美術館
同館調査風景

 平成23年11月27日から12月6日の日程で、独立行政法人国際交流基金文化協力事業として、アゼルバイジャン国立美術館所蔵日本関係美術品調査を行いました。アゼルバイジャンは、1991年に旧ソ連邦から独立した国で、首都バクーはカスピ海西岸に位置し、旧市街には世界遺産に登録された中世の建造物も遺されています。アゼルバイジャン国立美術館(Azerbaijan National Museum of Art)は、1920年にバクーに設立され、国内をはじめロシア・ヨーロッパの絵画・彫刻作品を中心に所蔵・展示を行っています。所蔵作品の中に、日本や中国の東洋美術の作品、300点ほどが含まれていましたが、同館には東洋美術の専門家がおらず、日本の美術作品と、中国やその他の地域のものの判別もつきかねる状況でした。そこでこのたび国際交流基金文化事業部生活文化チーム越智彩子氏とともに、秋田市立千秋美術館の小松大秀館長と江村が同館を訪問し、作品の調査と展示・管理についての助言を行いました。その結果、今回調査した約270点の作品のうち、約100点の日本美術作品(陶磁器・彫刻品・漆工品・金工品・染織品・絵画・版本)が含まれることが判明しました。今回調査した作品の大半は、19世紀後半から20世紀前半にかけて、日本および中国から海外に輸出された陶磁器で、稀少性はさほど高くないものの、このような輸出陶磁器のコレクションの存在が判明したことは重要な意味をもっています。調査データの整理が完了次第、調書を翻訳して同国に提供する予定で、同国における日本文化の理解に役立ててもらうとともに、日本国内の輸出陶磁器研究においても未知の在外作品所在情報として活用されることが期待できます。
 滞在中には在アゼルバイジャン日本国大使館を訪問し、特命全権大使・渡邉修介氏に面会し、今回の調査を二国間の文化的交流の好機としたいというお話がありました。また二等書記官で本事業担当者の小林銀河氏をはじめ大使館職員の方々のご尽力により、終始円滑に作業を進めることが出来ました。来年2012年は、日本と同国との国交樹立から20年の節目の年にあたり、同美術館と在日本大使館を中心として、記念の展覧会を企画する動きも出てきています。こうした両国友好の企画をはじめ今後の活動においても、たいへん有意義な調査となりました。

東京国立博物館本国宝・虚空蔵菩薩像の調査・撮影

虚空蔵菩薩像の高精細画像撮影の様子

 企画情報部の研究プロジェクトのプロジェクト「文化財デジタル画像形成に関する調査研究」の一環として、10 月5日、東京国立博物館に所蔵される国宝・絹本着色虚空蔵菩薩像の高精細画像の撮影を行いました。東京国立博物館の理解・協力をいただいての当研究所との「共同調査」によるものです。今回の撮影は東京国立博物館の田沢裕賀氏のご助力をえて、当研究所画像情報室城野誠治が画像撮影を行い、小林達朗、江村知子が参加しました。虚空蔵菩薩像は平安仏画の代表的名品のひとつです。平安時代の仏画は日本絵画史の中でもきわだって微妙かつ細部にわたる繊細な美しさを実現しましたが、それゆえにその表現の細部の観察が重要になります。今回は本作品全体を現在の最高水準の高精細で28カットに分割して撮影し、またさらに微細な部分8カットのマクロ撮影を行いました。結果は肉眼による観察を超えるものがあります。得られた情報については今後東京国立博物館の専門研究員を交えて共同で検討してまいります。

企画情報部研究会の開催―大村西崖の研究

大正10(1921)年、美術史研究のため中国へ渡った折の大村西崖

 大村西崖(1868~1927年)は明治中期に美術批評家として活躍し、その後半生には東京美術学校教授として東洋美術史学の発展に大きく貢献した人物です。2008年に西崖のご遺族より東京芸術大学へ日記・書簡等の資料をご寄贈いただいたのを機に、翌2009年より科学研究費による「大村西崖の研究」を、塩谷純(東京文化財研究所)を研究代表者として進めています。10月18日には今年度の第7回企画情報部研究会として、その研究成果の発表を行いました。
 塩谷は「大村西崖と朦朧体」と題して、西崖の美術批評と明治中期の日本画との関連を探りました。西崖は横山大観や菱田春草らの革新的な日本画を“朦朧体”として批判した人物として知られていますが、あらためてその批評を読むと、日本画の線や筆法への忌避感を露わにし、あたかも朦朧体に連なるかのような論調であることは注目されます。発表は、そうした西崖の批評の再検証を通して、“描く”絵画から“塗る”絵画へと変貌する近代日本画の流れを展望しようというものでした。
 続いて大西純子氏(東京芸術大学)が「大村西崖撰『支那美術史雕塑篇』について(資料紹介)」と題して発表を行いました。大正4(1915)年に刊行された大村西崖撰『支那美術史雕塑篇』は、中国の彫塑全体を網羅した最初の資料集で、今日も多くの中国彫塑史研究者が便とし、研究書としての価値は失われていません。大西氏は、東京芸大に寄贈された資料の中から西崖自身による校訂本や手記等を紹介、西崖が行った調査や参考にした文献を明らかにしながら同書編纂の経過をたどりました。
 発表後のディスカッションでは、西崖研究の第一人者である吉田千鶴子氏(東京芸術大学)をはじめ所内外の研究者が参加し、活発に意見を交わしました。とくに大西氏の発表からうかがえた西崖の実証的な姿勢に、同じ研究者として共感を寄せた方も少なからずいたようです。

明治期刊行の美術雑誌『みづゑ』のホームページ上での公開をめざして

『みづゑ』第1号(明治38年7月刊)の表紙

 企画情報部のプロジエクト「文化財の研究情報の公開・活用のための総合的研究」では、他機関との連携をはかりつつ、蓄積された文化財に関する研究情報を効果的に公開・活用することを目標に掲げています。その一環として、当研究所の所蔵する美術雑誌のうち、廃刊となり、著作権の切れてしまった明治期の美術雑誌のなかで、国内・外より閲覧要請が多い『みづゑ』のホームページ上での公開を、国立情報学研究所と研究連携をはかりながら進めています。9月13日には、そのための協議会を当研究所で開催し、公開方法として、その総目次とリンクさせながら記事検索により、本文がホームページ上で画像閲覧ができることを目指すとともに、そのための行程確認とホームページ上での公開のための効果的な手法について話し合い、年度内に1~10号までを公開し、以後、順次このプロジエクトの中で明治期に刊行分89号までの公開をすすめることを再確認しました。

陸前高田市立博物館被災美術品応急処置の完了

陸前高田市立博物館からの被災作品の搬出
燻蒸後の被災作品のクリーニング作業

 3月11日に起きた東北地方太平洋沖地震により岩手県陸前高田市立博物館では、所蔵品すべてが津波によって水損する大きな被害を受けました。同館には総合博物館として人文系・自然史系の多岐にわたる資料が収蔵されていました。それに加えて市ゆかりの作家たちの作品を中心に油彩画、書、版画も保管されていました。被災後、それらの美術品は全国美術館会議の参加館から派遣された学芸員たちによって現地から盛岡市内の県管轄施設まで輸送され、応急処置を受けました。
 周囲の建物がほとんど流出した中、一部破損した躯体のみが残った陸前高田市立博物館で7月12、13日、炎天のもと、所在作品の調査、梱包が行われ、14日に盛岡市内に輸送されて県所管施設に搬入されました。200号から400号におよぶ大型作品が多く、また海水に浸った後に気温が上昇する状況に置かれたことからカビの害が甚しかったため、応急処置作業の前に燻蒸によって殺虫殺菌を行うことが必須でした。8月9日から16日まで燻蒸を行い、8月21日から応急処置作業が始まりました。北海道から九州まで、全国美術館会議会員館の学芸員、保存担当者などのべ約700名が参加して、土・日曜日も休みなく、画面や額のクリーニング、防黴処置に当たり、作品が美術館等の収蔵庫での中期的保存に耐えられる状態にしました。全156件の作品は処置を終えて9月29日に岩手県立美術館収蔵庫に納められ、今後は陸前高田市から同館へ寄託される予定です。この作業には全国美術館会議、岩手県教育委員会、陸前高田市教育委員会、岩手県立美術館、国立美術館が当たり、被災文化財等救援委員会(事務局:東京文化財研究所)が支援、調整を行いました。
 大災害を乗り越えた後、それらを守り伝えようとする多くの人々の手当てを受けた作品たちが、このまま収蔵庫で眠り続けることなく、活かされる機会が訪れることを祈念してやみません。

企画情報部研究会「琳派と能の関係についての再考」の開催

フランク・フェルテンズ氏発表後のディスカッション

 企画情報部ではほぼ毎月研究会を開催しています。8月30日に開催した2011年度第5回企画情報部研究会では、今年6月中旬から9月初めまでの約3ヶ月間、当部来訪研究員として来日していたコロンビア大学大学院博士課程のフランク・フェルテンズ氏に「琳派と能の関係についての再考」と題して調査研究の成果を発表していただきました。伝統的な絵画表現と装飾的な意匠性を融合させて独自の画風を確立させた尾形光琳(1658-1716)は、幼少より能楽を習い、生涯にわたって能謡を愛好したことで知られており、その芸術にも少なからず影響を及ぼした可能性が先行研究において指摘されてきました。フェルテンズ氏の今回の発表では、先行研究をふまえ、絵画作品ばかりでなく工芸・装束・謡本なども含めて、そのモティーフ選択や美意識に着目し、空間構図分析やパフォーマンス理論なども応用しながら琳派芸術の解釈を行いました。発表後のディスカッションでは、当所無形文化遺産部、無形文化財研究室長・高桑いづみ氏より、能楽研究の立場から芸能史と美術史における研究基盤と手法の違いについての指摘がありました。学際的な研究の問題点が浮き彫りになる一方、活発な討議を通じ、多様に展開する江戸時代の絵画および工芸史研究において、さらに具体的な検証作業が必要であることが認識され、充実した研究交流の機会となりました。

群馬県立歴史博物館における木造性信上人坐像の調査・撮影

 企画情報部の研究プロジエクト「美術の表現・技法・材料に関する多角的研究」の一環として、6月21日(火)に、企画情報部の津田徹英、皿井舞は保存修復科学センターの犬塚将英、ならびに武蔵野美術大学非常勤講師の萩原哉氏の協力を得て、群馬県立歴史博物館に出陳中の同県板倉町宝福寺所蔵の木造性信上人像(仏師大進作、鎌倉時代、群馬県指定文化財)の調査・撮影を行いました。ちなみに、本像は当所名誉研究員であった故・久野健氏が本格的な調査を行い銘文が知られて以降、その存在が知られました。その後、幾歳月が流れ、本格的修理がなされましたが、難解・複雑な銘文は未だ全文の解明がなされるまでには至っていません。
 今回の調査の目的は、像の構造・保存状況等を正確に把握するとともに、赤外線撮影等により懸案の銘文に肉薄することを目的とし、あわせて、頭部内に納入されているという像主の焼骨を収めた容器の存在を確認するために、X線透過撮影を試みました。今回の調査・撮影で得られた知見等については、今後十分に検討を重ねたうえ、『美術研究』等によって公表してゆく予定です。

来訪研究員の留啓群氏と企画情報部研究会の開催

企画情報部研究会で発表する留啓群氏(左)

 国立台湾師範大学美術研究所の留啓群氏が、今年の2月から6月までの5か月間、企画情報部の来訪研究員として、当研究所を拠点に調査研究を行いました。留氏は日本統治時期の台湾美術を専攻しており、今回の調査研究はとくに日本近代における南画の動向を視野に入れるのがねらいでした。途中、東日本大震災で一時帰国も余儀なくしましたが、6月には一通りの資料収集を終え、6月29日の2011年度第3回企画情報部研究会で「日本統治時期における台湾伝統書画のアイデンティティーへの模索」と題して、調査研究の成果を発表しました。東アジアに通底する伝統的な“書画”、そして近代以降に西洋よりもたらされた“美術”という二つの枠組みのはざまで台湾や日本の思惑が交錯するさまを、当時の南画をめぐる言説を通してうかがう重厚な内容でした。
 同研究会では留氏の発表に引き続き、相模女子大学教授の南明日香氏にも「ジョルジュ・ド・トレッサン(1877-1914)の室町期絵画評価」と題してご発表いただきました。ジョルジュ・ド・トレッサンはフランス陸軍の軍人で、日本美術を愛好し多くの論考を残した人物です。南氏は忘れられていたトレッサンの業績の検証にここ数年努めており、今回の発表では彼の室町期絵画への評価に焦点を当て、その情報の源泉、論考の特色、同時代意義を考察しました。発表後のディスカッションでは、所内の日本美術研究者に所外のフランス美術の専門家もまじえ、20世紀初頭のヨーロッパにおける日本および東洋美術の評価をめぐって活発な意見が交わされました。

第35回世界遺産委員会

世界遺産委員会 開会の様子

 第35回世界遺産委員会は、6月19日~29日にパリのユネスコ本部で開催されました。当初はバーレーンでの開催を予定していましたが、アラブ諸国に広がった反政府デモなどの影響で開催2か月前に開催場所が変更されたことから、ホスト国主催の盛大な開会セレモニーや各地の遺跡をめぐるエクスカーションなどは行われず、変則的な開催となりました。また、委員国以外の各国政府関係者の参加人数に制限が設けられたこともあり、例年よりも参加者が少なめに感じられました。
 今回、世界遺産リストに登録された物件は25件(自然3件、複合1件、文化21件)です。当初、諮問機関であるICOMOSとIUCNから「登録」の勧告が出ていた物件は12件で、委員国の話し合いの中で倍以上に増えたことになります。諮問機関からの勧告には4段階ありますが、下から2番目の「登録延期」の勧告をされた物件のうち10件が2段階上がって登録されています。国立西洋美術館が含まれるル・コルビュジエの作品群は今回一番下の「登録せず」の勧告がなされていましたが、委員国の意見により「登録延期」となりました。このような、専門家集団である諮問機関の勧告を覆す決議がなされる傾向は昨年度からありましたが、今年度はさらにその傾向が強まりました。諮問機関の勧告の決定過程が不明瞭との不満が世界遺産条約の締約国にある一方で、専門家の意見を結果的に軽視した決議の連発には、世界遺産条約そのものの信頼性を損なうのではないか、との意見も一部の委員国からありました。
 また、すでにリストに登録された、あるいは今後登録されるかもしれない物件をめぐる政治的な対立も顕著に表れています。たとえば、タイとの国境に位置するカンボジアのプレア・ビヘア寺院は2008年に登録されて以来、周囲の国境が画定していないことからたびたび両国間での紛争が発生しています。今回、タイは遺跡の保存管理計画に関する情報が十分に提供されておらず、審議の過程も不透明であることを不満として、世界遺産条約からの脱退を宣言しました。また、コソボとセルビアをめぐる問題や、イスラエルとアラブ諸国との対立なども議論の的となり、あるいは議論を避けようとして対立を生んでいます。 日本から推薦された物件は、小笠原諸島、平泉ともリストに登録されました。審議の際にも、議長から地震や津波による犠牲者へのお悔やみの言葉が述べられました。震災からの復興にあたってこれらの登録がよい効果をもたらすことも期待されます。

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