研究所の業務の一部をご紹介します。各年度の活動を網羅的に記載する『年報』や、研究所の組織や年次計画にもとづいた研究活動を視覚的にわかりやすくお知らせする『概要』、そしてさまざまな研究活動と関連するニュースの中から、速報性と公共性の高い情報を記事にしてお知らせする『TOBUNKEN NEWS (東文研ニュース)』と合わせてご覧いだければ幸いです。なおタイトルの下線は、それぞれの部のイメージカラーを表しています。

東京文化財研究所 保存科学研究センター
文化財情報資料部 文化遺産国際協力センター
無形文化遺産部


文化財情報資料部研究会の開催―「赤瀬川原平による《模型千円札》理論の形成に関する予備的研究」

「〝千円札裁判〟へ ブツ・法廷・行為 第一回公判」(千円札事件懇談会事務局、1966年)東京文化財研究所所蔵
研究会の様子

 1月31日、文化財情報資料部研究会にて、「赤瀬川原平による《模型千円札》理論の形成に関する予備的研究」と題し、客員研究員の河合大介氏による発表が行われました。
 赤瀬川原平(1937-2014)は、前衛美術、漫画・イラスト、小説・エッセイ、写真といった多彩な活動を展開した芸術家です。河合氏の発表では、1963年に千円札の図様を印刷した作品を制作したことに端を発する一連の「千円札裁判」が結審するまでの期間に発表された、赤瀬川自身による著述の分析を中心に、赤瀬川の「模型」という概念がどのように形成されていったかに迫るものでした。河合氏は、起訴容疑の「通貨及証券模造取締法」違反にみられる「模造」に対して、「模型」という概念を赤瀬川が持ち出すことで、自らの制作物を芸術作品として歴史的・理論的に正当化しようとする試みがなされたことを示し、後年の執筆・制作活動においても「模型」概念に含意されている特徴を見て取れると指摘しました。
 研究会にはコメンテーターとして、水沼啓和氏(千葉市美術館)にご参加いただき、「千円札裁判」に関わる作家などの「芸術」という概念の相違、あるいはリレーショナル・アートとしてみる「千円札裁判」などの観点から所見をいただき、活発な意見交換が行われました。

文化財情報資料部研究会の開催

 1月12日に文化財情報資料部月例の研究会が、下記の発表者とタイトルにより開催されました。

  • 小山田智寛(当部研究補佐員)「WordPressを利用した動的ウェブサイトの構築と効果:ウェブ版「物故者記事」および「美術界年史(彙報)」を事例として」
  • 田所泰(当部アソシエイトフェロー)「栗原玉葉の画業におけるキリスト教画題作品の意義」

 小山田の発表は、当研究所ウェブサイトの改良実績に関する報告でした。当研究所では日本での美術界の動向をまとめたデータブックである『日本美術年鑑』を昭和11(1936)年より刊行してきましたが、一方で編集にあたり蓄積された展覧会や文献等のデータをウェブ上でも利用できるよう公開しています。なかでも、その年の美術界の出来事をまとめた「美術界年史(彙報)」と、亡くなった美術関係者の略歴を記した「物故者記事」について、平成26(2014)年4月よりソフトウェアWordPressを利用したデータベースとしてリニューアル公開することで、アクセス件数が大幅に増加しました。本発表では、そのリニューアル前後の公開形式を比較しつつ、新たな機能がもたらした効果について具体的な解析結果に基づき報告されました。
 田所は、大正期に東京で女性画家として活躍した栗原玉葉(1883~1922年)の画業に関する発表を行ないました。玉葉は大正7(1918)年から9年にかけて、集中的にキリスト教画題の作品を描いています。なかでも大正7年の第12回文展へ出品し、玉葉の代表作とされる《朝妻桜》は、禁教令下の江戸時代、吉原の遊女・朝妻がキリスト教を信仰した廉で捕らえられ、その最期の願いにより満開の桜花の下で刑に処されたという話を絵画化した作品です。発表では、《朝妻桜》の制作意図や玉葉の画業における位置づけについて検討し、さらに玉葉にとってキリスト教画題がどのような意義をもつものであったのか考察を深めました。なお栗原玉葉の画業全体については、すでに田所による論考「栗原玉葉に関する基礎研究」が『美術研究』420号(2016年12月刊)に掲載されていますので、そちらをご参照ください。

文化財情報資料部研究会の開催―黒田清輝宛、山本芳翠の書簡を読む

明治28年4月5日付、黒田清輝宛山本芳翠書簡より
清国から犬一匹と水仙一鉢を持ち帰った芳翠自身の姿が描かれています。

 当研究所はその創設に深く関わった洋画家、黒田清輝(1866~1924年)宛の書簡を多数所蔵しています。黒田をめぐる人的ネットワークをうかがう重要な資料として、文化財情報資料部では所外の研究者のご協力をあおぎながら、その翻刻と研究を進めていますが、その一環として12月8日の部内研究会では、福井県立美術館の椎野晃史氏に「黒田清輝宛山本芳翠書簡―翻刻と解題」と題して研究発表をしていただきました。
 明治前期を代表する洋画家の山本芳翠(1850~1906年)は、フランス留学中、法律家を志していた黒田に洋画家になることを薦めた人物として知られています。帰国後も自分の経営していた画塾生巧館を黒田に譲り、また黒田の主宰する白馬会に参加するなど、その親交は続きました。当研究所にはそうした日本での交遊のあとを示す、14通の黒田宛芳翠の書簡が残されています。うち9通は明治28(1895)年の消印があり、ともに画家として従軍した日清戦争から帰国した直後の制作活動や、黒田が第4回内国勧業博覧会に出品して裸体画論争を引き起こした《朝妝》についての所感が記されています。なかには清国から帰国したばかりの芳翠自らの姿を描きとめるなど、ほほ笑ましいものもあります。在仏中にパリの社交界を沸かせるほどの快活な性格で知られる芳翠の、帰国後の心性がうかがえる、注目すべき一次資料といえるでしょう。研究会では、ひと回り以上年下ながら洋画界のトップに登り詰めた黒田清輝と芳翠の画壇での立ち位置にも話が及び、その胸中に思いを致すこととなりました。

第50回オープンレクチャーの開催

講演会の様子

 文化財情報資料部では、11月4、5日の二日間にかけて、オープンレクチャーを東京文化財研究所セミナー室において開催しました。今年は第50回目の節目を迎えました。毎年秋に一般から聴衆を公募し、外部講師を交えながら、当所研究員がその日頃の研究成果を講演の形をとって発表するものです。この行事は、台東区が主催する「上野の山文化ゾーンフェスティバル」の「講演会シリーズ」一環でもあり、同時に11月1日の「古典の日」にも関連させた行事でもあります。
 本年は4日に、「ドキュメンテーション活動とアーカイブズ―『日本美術年鑑』をめぐる資料群とその発信につて」(文化財情報資料部研究員・橘川英規)、「よみがえるオオカミ―飯舘村山津見神社・天井絵の復元をめぐって」(福島県立美術館学芸員・増渕鏡子)、5日に「かたちを伝える技術―展覧会の裏側へようこそ」(文化財情報資料部長・佐野千絵)、「記憶するかたち、見つけるかたち―“文化財”の意味と価値」(保存科学研究センター長・岡田健)の4題の講演が行われました。両日合わせて一般159名の参加を見、好評を博しました。

海外日本美術資料専門家(司書)の招へい・研修・交流事業2016(通称JALプロジェクト) への視察受入など

 JAL(Japanese Art Librarian) プロジェクトは、東京国立近代美術館が中心となって文化庁から補助金を得、海外で日本美術資料を扱う専門家(図書館員、アーキビストなど)を日本に招へいして、日本の美術情報資料や関連情報提供サービスのあり方を再考することなどを目的とし、一昨年度からスタートした事業です。
 日本に招へいした資料専門家9名は、平成28(2016)年11月27日から12月10日まで、東京、京都、奈良にある関連機関で視察をしていただきました。当研究所の視察は11月30日に実施し、資料閲覧室などで図書資料、作品調査写真、近現代美術家ファイル、売立目録に関する資料・プロジェクトを紹介し、インターネットでの情報提供の説明を行いました。さらに、当研究所研究員、国内関連機関関係者との情報交換、研究交流を行いました。研修最終日となった12月9日に、東京国立近代美術館講堂で公開ワークショップを開催し、招へい者から日本美術情報発信に対する提言が行われました。文化財情報の国際的な発信のあり方について再検討するよい契機となりました。
 当研究所からは副所長・山梨絵美子が実行委員を委嘱され、招へいを前に、アメリカ・ピッツバーグ大学で大学院生向けの日本美術情報に関するセミナーを行いました。また、今年度をもって3年間のプロジェクトが終了することもあり、これまでに挙げられた提言に対する応答として、平成29(2017)年2月3日に「アンサー・シンポジウム」(http://www.momat.go.jp/am/visit/library/jal2016/)が行われる予定です。

文化財情報資料部研究会の開催―「広島で地球を針治療する―ロベルト・ヴィリャヌエヴァ、キャリア最後の エコ・アート」

ロベルト・ヴィリャヌエヴァによる「聖域 Sacret Sanctuary (Acupuncture the Earth) 」の計画図(1994年)

 10月3日、文化財情報資料部研究会にて、「広島で地球を針治療する―ロベルト・ヴィリャヌエヴァ、キャリア最後の エコ・アート」と題し、本年7月から日本学術振興会外国人特別研究員として当研究所へ在籍されている山村みどり氏による発表が行われました。
 ロベルト・ヴィリャヌエヴァ(1947−1995)は、自然物を素材とし、地域住民の参加型アートを実施し、自身が「Ephemeral art」 (束の間の美術)と呼んだ形式で注目を集めたフィリピンのアーティストです。発表では、まず欧米における「Eco-Art History」(環境問題と美術を学際的に扱う歴史学)の定義が提示され、ヴィリャヌエヴァの1970年代以後の活動をバギオ大地震(1990年)やピナツボ火山噴火(1991年)などと絡めて振り返ったのちに、ヴィリャヌエヴァが考案し、その没後に有志によって「広島アート・ドキュメント’95」で実現した参加型アート「聖域」の経緯、概要が紹介されました。山村氏は「束の間の美術」を、植民地主義を含めた近代主義やフィリピンでの社会階級との関連で考察し、またアジアにおける「Eco-Art History」の文脈での把握をしたうえで、この作品と冷戦終結後の日本の文化状況との関連を提示し、さらには「アジア固有の芸術性」について検証するものでした。研究会には、コメンテータとして後小路雅弘氏(九州大学)、中村政人氏(アーティスト、東京芸術大学)にご参加いただき、活発な意見交換が行われました。
 なお、この発表の内容は、Cambridge Scholars Publishingから出版されるアンソロジー『Mountains and Rivers (without) End: An Anthology of Eco–Art History in Asia』へ発表する予定です。

第7回美術図書館の国際会議(7th International Conference of Art Libraries)への参加

3日の会場ストロッツィ宮殿の外観

 2016年10月27日から28日の3日間にわたって、イタリアのフィレンツェで美術図書館の国際会議が開かれました。この隔年で開催される国際会議は、欧米の美術図書館長らで構成される委員会(the Committee of Art Discovery Group Catalogue)が主催しているもので、世界の美術図書館の専門家100名近くが参加して行われました。
 発表や報告は、主催者が運営している美術分野に特化したさまざまな資源の一括検索システム「Art Discovery Group Catalogue」(http://artdiscovery.net/)に関するプロジェクトなどを中心に、各国の美術図書館が取り組んでいる最新の事業の紹介など多岐にわたり、非常に充実した内容でした。
 「Art Discovery Group Catalogue」は、15か国の美術図書館が参加して始まった美術書誌のプラットフォーム「artlibraries.net」が発展的に解消してできた検索システムです。アメリカ合衆国のNPOで世界各国の大学や研究機関で構成されたライブラリーサービス機関OCLC(Online Computer Library Center, Inc.) が運営するWorldcat (https://www.worldcat.org/) を活用して世界の主要美術図書館が参画する共同国際事業で、2014 年に立ち上げられました。
 東京文化財研究所は、本年度このOCLCに、日本で開催された展覧会の図録に掲載される論文情報を提供することになっており、来年度にはこうした当研究所のもつ情報が世界最大の図書館共同目録「WorldCat」や、OCLCをパートナーとする「Art Discovery Group Catalogue」で検索することができるようになります。
 今後も美術図書館や美術書誌情報をめぐる国際的な動向を注視しながら、当研究所が果たすべき役割を見定め、研究プロジェクトに活かせるよう努める所存です。

第40回世界遺産委員会(再開審議)への参加

ユネスコ本部での審議の様子

 第40回世界遺産委員会は、2016年10月24日~26日にパリのユネスコ本部で実施されました。これは、クーデター未遂の影響で中断したイスタンブールでの審議が再開されたもので、当研究所からは3名が参加しました。
 委員会では、世界遺産一覧表に記載済の資産について軽微な変更の可否が審議され、日本が申請した「紀伊山地の霊場と参詣道」の2つの参詣道の計40.1kmの延長などが承認されました。また、各締約国が世界遺産一覧表への登録推薦を予定する資産を記した暫定一覧表について、日本からは「奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島」(奄美・琉球)の追加が確認されました。「奄美・琉球」は2018年の世界遺産一覧表記載を目指して準備が進められていますが、これにより推薦書の提出が正式に可能となりました。なお現在、日本の暫定一覧表記載資産には、今回の追加を含め10件が記載されています。
 委員会ではさらに、登録推薦や保全状況報告などの手順を定めた「世界遺産条約履行のための作業指針」が改訂されました。これまで、各締約国は1回の委員会に2件まで(うち1件は自然遺産もしくは文化的景観)登録推薦を行えましたが、2020年の第44回世界遺産委員会での審議対象からその数が1件となります。同時に、各回の委員会で審議する推薦の数も45件から35件に削減、推薦書の提出数が35件を超えた場合、世界遺産が少ない締約国などの推薦が優先されます。日本はすでに20件の世界遺産を持つため、推薦書を提出しても審議が延期となる可能性もあり、得られた審議の機会はいっそう貴重なものとなります。私たちは世界遺産に関する調査を通じ、諸外国での文化遺産保護の基盤強化への貢献や、国内関係者への推薦書の作成上有益な情報の提供に努めたいと思います。

レスキューされた文化財、その後――修復を終えた仙台、昭忠碑

10月13日、クレーンによるブロンズ製鵄の吊りこみの様子
修復を終えた昭忠碑(撮影:奥敬詩氏)

 この活動報告でもたびたびお伝えしたように、平成23(2011)年3月の東日本大震災で被害を受けた多くの文化財に対し、当研究所に事務局を置いていた東北地方太平洋沖地震被災文化財等救援委員会はレスキュー活動を各所で行ないました。仙台城(青葉城)本丸跡に建つ昭忠碑(宮城縣護國神社管理)もそのひとつで、明治35(1902)年、仙台にある第二師団関係の戦没者を弔慰する目的で建立された同碑は、震災により高さおよそ15mの石塔上部に設置されたブロンズ製の鵄(とび)が落下・破損する被害を蒙り、救援委員会による文化財レスキュー事業では、ブロンズ破片の回収や鵄本体の移設作業を実施しました。平成26(2014)年の同事業終了後は宮城県被災ミュージアム再興事業として引き継がれ、昨年度より破損した鵄の部分を東京、箱根ヶ崎にあるブロンズスタジオで接合する作業が進められていましたが、このほどその作業が完了し、10月11日から17日にかけて仙台にて設置工事が行なわれました。
 両翼を広げた雄々しい姿を約五年半ぶりに東京で蘇らせたブロンズの鵄(高さ4m44cm,巾5m68cm、ブロンズ総重量3.819t)は、10月12日に仙台へトレーラーで搬送され、翌13日に関係者や地元の報道陣、仙台城を訪れた観光客が見守るなか、クレーンで石塔下正面の設置場所へ据えられました。元来は塔の上にあったブロンズの鵄(平成24(2012)年1月の活動報告参照)ですが、旧状通りに戻した場合、大地震が発生した際には再び高所より落下する恐れがあるため、今回は安全性を考慮して塔の下に設置されました。このブロンズ部分は、東京美術学校(現在の東京藝術大学)が依嘱を受けて同校内で制作・鋳造されたものです。本来の設置場所とは異なりますが、明治時代の美術学校が総力を挙げて制作した巨大な鵄の、迫力ある姿を間近で堪能できるようになりました。
 五年余におよぶ修復作業の間に、昭忠碑に関して、今まで知られていなかったことも色々と分かってきました。6月に行なわれた石塔のボーリング調査では、その内部に煉瓦壁で囲まれた大きな空洞があることが判明しています。また東日本大震災で被災する以前に、昭和11(1936)年11月3日の地震で鵄の片翼が落下していたことも、当時の新聞記事によって確認されました。
 ブロンズ像の修復に当たった方々のお話では、作業の過程で制作時に駆使された様々な技術が明らかになったといいます。なかでもブロンズの内側には、鵄と石塔をつなぐ鉄芯として入れられたレールを固定し、また鵄部分の重量のバランスを取るために鉛やコンクリートが充填されており、今回の修復ではこれを取り除いて像の軽量化を図りました。一方で修復された鵄の設置にあたり、径の異なる四つの鋼管を入れ子状につないだものをブロンズ内部の支柱として用いましたが、鋼管の接合に際してはその隙間に鉛を鋳込んで固定する手法が採用されました。これは修復で明らかになったブロンズの固定法を応用したものであり、先人の技術を修復に生かしながら、昭忠碑は被災から蘇ったといえるでしょう。修復作業の過程で得られた新知見もふまえ価値を再認識した上で、この明治期の貴重なモニュメントが末永く後世に伝えられていくことを切に願っています。

第6回文化財情報資料部研究会の開催

研究会の様子

 10月25日に開催した本年度第6回の文化財情報資料部研究会では、文化財情報資料部広領域研究室長・小林公治が物質文化史の立場から、「慶長期後半から寛永期前半にかけて流行した漆器文様・技法―絵画資料と伝世漆器との対話―」と題する発表を行いました。この発表では、まず川越市喜多院が所蔵する重要文化財職人尽絵屛風の「蒔絵師」図、そして喜多院本系職人尽絵であるサントリー美術館本・前川家本の同図の描画内容とを比較・検討の上、これら諸本の制作が17世紀前半であるというこれまでの見解を再確認し、さらに徳川美術館が所蔵する重要文化財の「歌舞伎図巻」と「邸内遊楽図(相応寺屛風)」などを対象に、これまでの諸論で指摘されていないいくつかの観点から、その景観年代を、前者は慶長期末から元和期初め(1610年代)にかけて、後者は寛永期前半頃(寛永7(1630)年前後)と見るのが妥当であること、またこれらの風俗画には当時の生活実態がかなり克明・正確に描写されていると認め得ることを指摘しました。
 その上で、これらの絵画には大ぶりの葡萄文や藤文を持つ漆器、銀蒔絵技法の漆器がたびたび描かれていることから、慶長期後半から寛永期前半にかけての17世紀前半にはこうした漆器文様・技法が流行していた可能性が高く、また大ぶり葡萄文や藤文を描く伝世の蒔絵漆器や南蛮漆器、また銀蒔絵漆器についても、この時期の作である蓋然性が高いという見方を提示しました。
 近世初期風俗画の描画内容・表現と歴史実態との関係については、これまでも美術史学者や歴史学者などによる様々な見解がある未解決の問題ですが、本研究発表後の討議でも特にこうした点が取り上げられ、参加者それぞれの立場からの活発な議論が行われました。

山下菊二関連資料の受入

山下昌子旧蔵資料の一部

 画家山下菊二(1919-1986)夫人である山下昌子氏(1926-2014)の旧蔵資料を関係者から9月30日付でご寄贈いただきました。山下菊二は昭和時代を代表する画家のひとりで、その作品や関連作品、資料などは、これまでに板橋区立美術館、神奈川県立近代美術館、徳島県立近代美術館に寄贈されておりますが、この度、当研究所にご寄贈いただいた資料は、昌子氏が逝去するまで手元に置いていたものになります。分量は、書架の長さにしておよそ6メートルになり、このなかには、菊二が撮影したと思われる写真、作品の材料として切り取られた資料など作家の研究・理解の重要な手がかりとなるものだけでなく、第二次世界大戦に応召し従軍した際や東宝映画教育映画部に勤務していたころの写真資料など広く日本近代史を考えるうえでも貴重な資料も含まれています。
 当部ではこれまでも新海竹太郎や香取秀真ら近代美術家のアーカイブズを受け入れ、資料閲覧室などを通して利用に供していますが、今回ご寄贈いただいた山下昌子旧蔵資料も個人情報、プライバシー、あるいは資料保全の問題を配慮しつつ、来年3月ごろから閲覧できるよう整理を進めております。

EAJRS(日本資料専門家欧州協会)第27回年次大会「日本資料図書館の国際協力」への参加

EAJRS(日本資料専門家欧州協会)第27回年次大会の様子

 9月14日から17日にわたって、ルーマニアのブカレスト大学中央図書館において、EAJRS(日本資料専門家欧州協会)の年次大会が開催されました。EAJRSは、おもにヨーロッパなどで日本研究資料を取り扱う図書館員、大学教員、博物館・美術館職員などの専門家で構成されているグループで、今年の年次大会は「日本資料図書館の国際協力」と題され、11のセッションにて、日本研究の歴史、日本資料コレクション形成史、日本人司書海外派遣事業、海外日本研究司書招へい事業、デジタル・ヒューマニティーズの最新動向、和古書保存プロジェクトなど多岐にわたる発表・報告が行われました。(詳細はEAJRSサイト(http://eajrs.net/)を参照ください)。筆者の発表は、「東京文化財研究所における「文化財に関する専門的アーカイブの拡充」 : 『日本美術年鑑』のコンテンツを国際的学術基盤へ」というタイトルで、本年度取り組んでいるOCLCへのデータ提供など情報発信に関する事業を紹介するもので、発表後の意見交換では、当所が蓄積してきた研究情報の発信を期待する声が数多く寄せられました。また大会期間中には、会場ロビーにて、関連機関・会社による展示ブースが設置され、本会ならではの情報共有・広報活動が行われました。最終日17日の総会では、来年2017年大会がノルウェーのオスロに決定し、今大会は終了しました。日本文化財情報のアクセシビリティ向上について多くの示唆を得ることができ、また日本研究情報発信という大きな枠組みになかでの当所のアーカイブ活動を考える、よい契機となりました。

文化財情報資料部研究会の開催―黒田清輝宛、養母貞子の書簡を読む

黒田清輝と養母の貞子
黒田清輝宛、明治19(1886)年7月9日付貞子書簡(部分)

 当研究所はその創設に深く関わった洋画家、黒田清輝(1866~1924年)宛の書簡を多数所蔵しています。黒田をめぐる人的ネットワークをうかがう重要な資料として、文化財情報資料部ではその翻刻と研究を進めていますが、なかには黒田の家族との間で交わされた書簡の類も含まれています。そのような家族間のやりとりにも目を向けようと、8月30日の部内研究会では当部研究補佐員の田中潤氏が「黒田清輝宛、養母黒田貞子書簡の翻刻と解題」と題して研究発表を行ないました。
 黒田貞子(1842~1904年)は清輝が養嗣子となった黒田清綱の妻で、養母として清輝を幼少期より育てた女性です。フランス留学中に清輝が貞子宛に送った書簡については、『黒田清輝日記』(中央公論美術出版、昭和41(1966)年)の中ですでに翻刻され知られていましたが、今回の研究会では貞子が清輝に宛てた書簡70余通が紹介されました。黒田の貞子宛書簡がそうであったように、貞子の書簡も平易なかな文字で口語体を交えて記されています。内容も留学中の黒田へ家族の近況を事細かに知らせるものが多く、また夫清綱の意向を伝えるなど、父子間の潤滑油の役割を果たしていたようです。とりわけ法律家を志して渡仏した清輝が画家への転身を決心した際には、「ま事ニゝゝゝよいおもひつきだよ」(明治19(1886)年7月9日付書簡)と清綱とともにその背中を後押ししているのが注目されます。そんな養父母の心の支えがあってはじめて画家・黒田清輝は誕生した、といっても過言ではないでしょう。今回の研究会は、黒田の画業を語る上で、家族の絆もまた重要な位置を占めていることを再認識する機会となりました。

「美術工芸品を中心とする文化財情報の国内外への発信にかかる基盤形成事業」の実施に 関する協定の締結

OCLC WorldCat 検索結果画面

 東京文化財研究所は、2016年6月27日、国立西洋美術館と「美術工芸品を中心とする文化財情報の国内外への発信にかかる基盤形成事業」の実施に関する協定を締結しました。国立西洋美術館は実業家松方幸次郎のコレクションを基に1959年に設立され、その所蔵品データベースは、美術史研究で求められる要件を兼ね備えたものとして、国内外の専門家にその規範となるものと高く評価されています。このたびの協定の目的は、国立西洋美術館がもつ情報発信の手法と経験を活用して、当研究所がインターネット上で公開している日本国内の文化財情報の発信を強化することにあります。協定締結に基づく最初の事業として、当研究所が編集発行する『日本美術年鑑』に収録されてきた「日本国内で刊行された展覧会カタログに掲載された文献の情報」を、世界的な図書館サービス機関OCLC (Online Computer Library Center, Inc.) に提供することを計画しています。このような事業により、海外における日本美術に関する研究情報へのアクセ ス環境の改善に取り組んでいきます。

第40回世界遺産委員会への参加

会場となったイスタンブール・コングレス・センター
審議の様子

 第40回世界遺産委員会は2016年7月10日からトルコのイスタンブールで開催され、当研究所からは2名の職員が参加しました。
 国立西洋美術館を構成資産に含む「ル・コルビュジエの建築作品」は2009年以来3回目の審議で、今回は諮問機関が世界遺産一覧表への記載を勧告していたため、翌日の審議がほぼ確実となった7月15日夕方には、関係者の間でも記載への期待が高まりました。しかし、15日夜から16日未明にかけての軍によるクーデター未遂の影響で、16日の審議は中止、1日遅れて17日に記載が決議されました。審議時間短縮のため記載勧告案件では委員国の発言が認められず、この推薦に対する各国の意見を聞けなかったのは残念です。
 ところで、今回の世界遺産委員会での審議対象の推薦から、諮問機関による中間評価が関係締約国へ通知されるようになりました。評価を受けて締約国は推薦書を改訂し、最終評価に臨むことが可能です。締約国の対応は分かれました。推薦を取り下げる締約国がある一方、推薦書を大幅に改訂して審議に臨み、諮問機関の勧告を覆して記載が決議された例もあり、今後も推薦とその評価のあり方を巡っての議論が続くと思われます。
 なお、委員会の会期は7月20日までの予定でしたが、17日でいったん中断されました。委員会は2016年10月24日~26日にパリのユネスコ本部で再開され「紀伊山地の霊場と参詣道」を含む世界遺産一覧表記載資産の軽微な範囲の変更や、作業指針の改訂などに関する審議が行われる予定です。

文化財情報資料部研究会の開催―栗原玉葉に関する基礎研究

栗原玉葉《噂のぬし》大正3年、『第八回文部省美術展覧会出品絵葉書』より
栗原玉葉《清姫物語 女》、大正10年、『第三回帝国美術院展覧会出品絵葉書』より

 6月28日、文化財情報資料部では、「栗原玉葉に関する基礎研究―その生涯と作品について―」と題して、田所泰(文化財情報資料部)による発表が行われました。
 大正期に文部省美術展覧会(文展)などを中心に活躍した日本画家・栗原玉葉は、幼い少女や芝居に取材した女性像などを描いた作品を多く残しています。生前は東京一の女性画家と目され、京都の上村松園に対して東京の栗原玉葉とまで呼ばれる存在でしたが、現在では知名度も低く、研究もほとんどされていません。田所の発表では、図版の残っている展覧会出品作品を中心に玉葉の画業を概観し、その上で作品に見られる表現の変遷や、当時の画壇における玉葉の位置づけについて考察しました。美術雑誌や展覧会図録等のほかに、女性向け雑誌に掲載された作品の写真図版から、多くの現存作品の制作年や展覧会出品歴が明らかとなり、それらを踏まえて画業を概観したことで、玉葉が大正5(1916)年頃を境に画題を幼い少女像から芝居などに取材した女性像へと変化させていったことがわかりました。また、晩年の玉葉作品には、師である松岡映丘からの影響が、とくに色彩面に強く現れていることを示し、とりわけ金泥の使い方では、それまでには見られない独特の表現が試みられていることを指摘しました。こうした自身の制作のほかに、玉葉は多くの弟子を抱え、他の女性画家とともに女性日本画家団体・月耀会を結成するなど、当時の画壇、とりわけ女性画壇において大きな役割を果たしていたことが明らかとなりました。
 なお、今回の研究会には、コメンテーターとして、玉葉に詳しい長崎歴史文化博物館の五味俊晶氏をお招きしました。五味氏からは玉葉研究の現状や、長崎に現存する作品、また玉葉のご遺族などについて、貴重なご教示をいただきました。そのほか、実践女子大学の児島薫氏、佐倉市立美術館の山本由梨氏を交え、「女性画家」や「美人画」といった問題に関して、活発な意見交換が行われました。

「特別展 生誕150年 黒田清輝 日本近代絵画の巨匠」の開催

展覧会会場―黒田清輝のアトリエ再現と《昔語り》下絵類の展示
展覧会会場―東京駅帝室用玄関壁画再現のコーナーから《智・感・情》を望む

 日本美術の近代化のために力を尽くし、また当研究所の設立に大きく寄与した洋画家、黒田清輝(1866-1924)が生まれてから今年は150年目にあたります。これを記念して3月23日から5月15日まで「特別展 生誕150年 黒田清輝 日本近代絵画の巨匠」が東京国立博物館平成館で開催されました。開所以来、黒田の調査研究を継続して行なってきた当研究所も主催者としてその企画構成にたずさわり、これまでの研究成果を反映した展覧会となりました。
 本展では《読書》や《湖畔》といったなじみ深い代表作はもちろん、フランス留学中の作品にはじまり、黒田が主導した白馬会や文展の出品作、晩年の小品に至るまで200点余の黒田作品が一同に集結しました。また本展ならではの試みとして、黒田が留学中に影響を受けたフランスの画家の作品や、黒田と関わりのあった日本の洋画家の作品もあわせた展示を行ないました。とくにフランス絵画については、ゲストキュレーターにフランス近代美術を専門とする三浦篤氏(東京大学)をむかえ、黒田が私淑したジャン・フランソワ・ミレーの《羊飼いの少女》(オルセー美術館蔵)や黒田の師であるラファエル・コランの《フロレアル(花月)》(同館蔵、アラス美術館寄託)などフランスからの出品もあり、黒田をはじめとする日本の洋画家の作と比較することで、黒田が西洋美術の本流から何を学び、日本へもたらそうとしたのかをうかがう、よい機会となりました。
 本展では黒田のオリジナル作品をご覧いただく一方で、《朝妝》や《昔語り》といった戦災により焼失した作品については原寸大の画像を展示しました。とくに黒田の構想のもとに大正3年に完成した東京駅帝室用玄関の壁画は、昭和20年の空襲により焼失しましたが、残された写真をもとに当時の東京駅の映像も交えて、その雰囲気を体感するコーナーを設けました。
 お花見の季節からゴールデンウィークにかけての会期で、また各メディアでご好評をいただいたこともあり、本展は約18万2千人もの方々にご来場いただきました。本展を機に、日本近代美術における黒田の存在の大きさをあらためて実感していただけたのではないかと思います。本展は黒田の画業と生涯を総覧する機会となりましたが、その一方で当研究所が所蔵する黒田宛書簡など、黒田清輝についてはこれから解明すべき資料も残されています。当研究所では今後とも黒田に関する調査研究を進め、その成果を『美術研究』誌上やウェブサイトを通じて公開してまいりたいと思います。

文化財情報資料部研究会の開催―「滋賀・鶏足寺 七仏薬師如来像の造像をめぐる一考察」

研究会の発表の様子

 文化財情報資料部では所員だけでなく、他機関の研究者を発表者に向かえ、毎月1回、美術工芸品を中心とした文化財を考察対象する研究会を開催しています。5月は31日(火曜日)に開催いたしました。発表は東京国立博物館アソシエイトフェローの西木統政(にしきまさのり)氏を迎え、標記のタイトルでのご発表をいただきました。
 今回取り上げた滋賀・鶏足寺(けいそくじ)伝来の木造七仏薬師如来立像は、現存する七仏薬師如来像の稀有な作例として存在は早くから知られていましたが、これらを考察の対象として本格的に取り上げることはほとんどありませんでした。
 発表では、七尊各像の現地における実査による知見を踏まえ、本七尊像が天台系の七仏薬師如来立像の遺例であるとの認識のもと、漆箔を用いない素木(しらき)像であることに留意して、その規範を比叡山延暦寺一乗止観院根本中堂内に安置されていた木造の七仏薬師如来立像(逸亡)に求めるとともに、その当地での再現であるとの認識のもと考えるところを披瀝していただきました。
 発表後は研究会に参加者との活発な質疑応答・意見交換をあわせて行いました。

研究会「アート・アーカイヴのいま」の開催

研究会の様子

 研究会「アート・アーカイヴのいま」を5月14日に開催しました。この研究会は、現代ドイツのアート・アーカイヴ活動を主導するアーキヴィストで美術史学者ビルギト・ヨース氏(カッセル・ドクメンタ・アーカイヴ次期所長、ニュルンベルク・ドイツ民族博物館・ドイツ芸術アーカイヴ前所長、ベルリン・学術アカデミー・アーカイヴ前所長)をお迎きして、「アーカイヴ」の意義と課題を問うことを趣旨とするものでした。
 当日は、まず前田富士男氏(中部大学客員教授、慶應義塾大学名誉教授)から「芸術図書館とアーティスト・アーカイヴ―ドイツの伝統と〈アイコニック・ターン〉」と題してドイツにおけるアーカイヴの歴史などを紹介いただき、ヨース氏のご講演「ドイツにおけるアート・アーカイヴ―その概要」ではドイツの代表的なアート・アーカイヴを「Archives of Artists‘ Personal Papers」「Regional Art Archives」「Art Archives Focused on Particular Subjects」「Museum Archives」「Archives for Individual Artists」「Documentation Centers」に分類し、それぞれの特徴、設立背景などをご紹介いただきました。全体討議では、聴講者との活発な質疑応答が交わされ、ドイツと日本で共通する課題も挙がり、盛況裡に閉会いたしました。また研究会に先立って、ヨース氏ら関係者に、当研究所の資料閲覧室、書庫の視察をしていただき情報交換を行いました。
 なお、この研究会はアート・ドキュメンテーション学会美術館図書室SIGと当研究所との共催で、神奈川県立近代美術館と吉野石膏美術振興財団の後援をいただき、またJSPS科学研究費補助金「ミュージアムと研究機関の協働による制作者情報の統合」(研究代表者丸川雄二氏(国立民族学博物館))の一環の催事でもありました。研究会全体のモデレータは、川口雅子氏(国立西洋美術館)、皿井舞(当研究所文化財情報資料部)が務めました。

文化財情報資料部研究会の開催―黒田清輝宛五姓田義松書簡を読む

黒田清輝(左)と五姓田義松(右)
「文展出品者親睦会出席者紀念撮影」(『美術新報』12巻2号 大正元年12月)より

 当研究所はその創設に深く関わった洋画家、黒田清輝(1866~1924年)宛の書簡を多数所蔵しています。黒田をめぐる人的ネットワークをうかがう重要な資料として、文化財情報資料部では所外の研究者のご協力をあおぎながら、その翻刻と研究を進めていますが、その一環として4月21日の部内研究会では、神奈川県立歴史博物館の角田拓朗氏に「黒田清輝宛五姓田義松書簡を読む―人間像、東京美術学校、明治洋画史」と題して研究発表をしていただきました。
 明治前期を代表する洋画家の五姓田義松(1855~1915年)は、角田氏による展覧会や研究書を通して、近年その再評価・再検討が進められています。町絵師の家に育った義松は黒田清輝よりも早く渡仏し、サロンに入選するなどその才能を発揮しますが、明治22(1889)年の帰国後は目立った活動もなく、美術の表舞台からは忘れられた存在として扱われてきました。今回の発表は、黒田清輝に宛てられた明治41年以降の書簡25通を通して、これまで語られることの少なかった義松の後半生にメスを入れようとするものでした。書簡の多くは自らの旧作を東京美術学校に売却しようと、同校教授の黒田に仲介を頼む旨が記されています。一世代上の義松らに取って代わり、当時の洋画壇を牽引していた黒田ですが、黒田が奉職した東京美術学校の洋画コレクションには義松の滞欧作《操芝居》をはじめとする明治前期の洋画が数多く含まれており、明治前後期を通しての洋画の流れを概観することができます。角田氏の発表は、義松と黒田の立場の違いを越えた交流に、明治洋画史の形成という積極的意義を見出そうとする試みであり、その経緯を伝える書簡類の重要性にあらためて気づかされました。

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