研究所の業務の一部をご紹介します。各年度の活動を網羅的に記載する『年報』や、研究所の組織や年次計画にもとづいた研究活動を視覚的にわかりやすくお知らせする『概要』、そしてさまざまな研究活動と関連するニュースの中から、速報性と公共性の高い情報を記事にしてお知らせする『東文研ニュース』と合わせてご覧いだければ幸いです。なおタイトルの下線は、それぞれの部のイメージカラーを表しています。

東京文化財研究所 保存科学研究センター
文化財情報資料部 文化遺産国際協力センター
無形文化遺産部


ゲッティ研究所(アメリカ)と協定書を締結

調印式の様子

 東京文化財研究所は、2016年2月9日、アメリカ、ロサンゼルスにあるゲッティ研究所と日本美術の共同研究推進に関する協定書を締結しました。ゲッティ研究所は実業家ポール・ゲッティ氏の遺産を基に1984年に設立され、美術を中心とする芸術の研究と国際交流を行っています。このたびの協定は、今後5年間に渡り、両機関における日本美術の研究者交流、美術史の日英語の文献の翻訳と出版、日本美術に関するデジタル情報のGetty Research Portalへの公開を行なおうとするものです。
 調印式でゲッティ研究所長のトーマス・ゲーケンス博士は「本協定を重要なものと位置付けており、今後、両機関にとって有益な事業が行われることを希望しています」と述べました。また、東京文化財研究所の亀井所長は「日本国内で所蔵する美術資料と、海外での日本美術の評価についての情報交換をすることは大変有意義な日本文化の発信であり、今後の発展に繋げたい」と応じました。調印後、両機関の当該事業担当者間での現場レベルの協議が行われました。
 東京文化財研究所では今回の協定締結に基づき、今後、両機関の研究交流、英語圏の日本美術史研究に資する日本美術研究書の翻訳および現在ウェブ公開している研究情報の国際標準化を進めていく予定です。

研究会「美術史家矢代幸雄における西洋と東洋」の開催

研究会の様子

 企画情報部では当研究所の前身である美術研究所の設立に大きな役割を果した矢代幸雄が西洋美術史、日本・東洋美術史の分野で果した役割を多角的に検討する研究会「美術史家矢代幸雄における西洋と東洋」を、1月13日に「ベレンソンと矢代幸雄をつなぐ両洋の美術への視点」(山梨絵美子、当所企画情報部)、「東洋人の眼から見たサンドロ・ボッティチェリ―矢代の1925年のモノグラフ」(ジョナサン・ネルソン、ハーヴァード大学ルネサンス研究所)、「矢代幸雄著『受胎告知』を再読する」(越川倫明、東京藝術大学)、「矢代幸雄の絵巻研究」(髙岸輝、東京大学)、「矢代幸雄と1930-45年代の中国美術研究」(塚本麿充、東京大学)というプログラムで、美術史家・高階秀爾氏をコメンテーターにお招きして開催しました。
 ネルソン氏は矢代が大著『サンドロ・ボッティチェリ』によって西洋美術史学に作品の部分写真による様式分析という新しい方法をもたらしたこと、その方法が明治期の日本の美術雑誌の図版やその製作過程に源を持つことを指摘され、越川氏は帰国後に西洋美術史家として矢代が著した『受胎告知』が、日本における西洋キリスト教美術のイコノグラフィー研究の先駆的事例であったこと、また、同書がウォルター・ペイターの審美主義を直接的に受け継ぐものであることを指摘されました。髙岸氏は日本美術史家として絵巻の特殊な画面形式を世界の美術の中にどう位置づけるかという点に強い関心を示した矢代の絵巻研究者としての位置づけを述べられ、塚本氏は欧米、日本、中国で各々異なる中国美術史観が確立されている現状を指摘され、矢代が1935-36年のロンドン中国芸術国際展覧会を経験し、欧米の中国美術ブームと日本における唐物研究を折衷させる中国美術史観を確立させたことの影響について述べられました。発表後、ディスカッションが行われ、洋の東西をまたいで国際的に活躍した矢代のしごとの意味を再考する場となりました。

国際シンポジウム「日本美術史研究の現在―グローバルな視点から」への参加

 様々な分野でグローバル化が課題となっている中で、美術史学においても「世界美術史」や「グローバル美術史」への試みがなされるようになっています。そうした状況を踏まえてハイデルベルク大学東アジア美術研究所の主催により、国際シンポジウム「日本美術史研究の現在―グローバルな視点から」が10月22日から24日まで、ハイデルベルク大学のカールジャスパー・センターで行われました(http://sharepoint2013.zo.uni-heidelberg.de/zo-conference-hub/conf-iko/histories-of-japanese-art/SitePages/Home.aspx)。同シンポジウムは石橋財団がハイデルベルク大学への日本からの日本美術史客員教授派遣する支援をする「石橋財団日本美術史客員教授制度」の創設10周年を記念したもので、1「世界の創出―空想の日本」、2「東アジアからの輸出美術品の拡散」、3「20世紀初頭の芸術界における日中関係」、4「日本美術と公衆の語り」、5「欧米における東洋美術品収集と世界美術史の形成」、6「戦後美術の同時代性」、7「国際展における「日本」」の7つのパネルによる構成で、22名の研究発表と各パネルでの討論、クリスティン・グート氏(ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館)Christine Guth (Royal College of Art and V&A Museum, London)とタイモン・スクリーチ氏(ロンドン大学)Timon Screech (SOAS, London) の2名による基調講演が行われました。当所から山梨が招かれて参加し、パネル5で「ダーウィン著『種の起源』と世界美術史の始まり」(インゲボルグ・ライヘル氏、フンボルト大学、Ingeborg Reichle , Humboldt University, Berlin)、「ドイツ帝国における東洋美術品収集と世界美術史の状況」(ドリス・クロワッサン氏、ハイデルベルク大学、Doris Croissant , Heidelberg University)に先立って「美術商林忠正―欧米と日本の異なる「美術」概念のはざまで」というテーマで発表しました。3日間の発表と討論を通じて、大航海時代以後、人、物、知識・情報の移動が激しくなり、日本美術品や日本美術史についても様々な地域で異なる語りがなされてきたことが明らかになりました。シンポジウムの報告書は2017年に刊行される予定です。

美術史家上野アキ氏関連資料の受贈

 1942年11月から1984年4月まで当研究所の前身である東京国立文化財研究所に奉職された美術史家上野アキ氏は2014年10月12日に逝去されました。上野氏はキジル石窟や敦煌の壁画など西域美術を専門に研究されました。また、高田修、伊東卓治、柳沢孝、宮次男との共同研究「醍醐寺五重塔の壁画研究」で1960年に学士院恩賜賞を受賞し、柳沢とともに同賞初めての女性の受賞者となりました。このたび、ご遺族から、今後の研究への活用のため、上野氏の調査ノートや関連資料および蔵書の一部を当研究所にご寄贈いただくこととなりました。西域美術史研究の足跡などを知る貴重な資料群です。これらは整理の後、公開していく予定です。

矢代幸雄/バーナード・ベレンソン往復書簡等のオンライン展示

「Yashiro and Berenson」オンライン展のトップページ

 当研究所の所長をつとめた美術史家矢代幸雄(1890-1975)は、1921年に渡欧し、同年秋からフィレンツェでルネサンス美術研究家バーナード・ベレンソン(1865-1959)に師事します。師の様式比較の方法を学んで英語の大著『サンドロ・ボッティチェリ』(1925年)を著し、国際的に認められました。1925年に帰国後は、当研究所の前身である美術研究所の設立に参画し、同所を拠点にベレンソンの方法論を用いた東洋美術史編纂に尽力、戦後は大和文華館の開館に準備から関わり、初代館長をつとめました。当研究所では、矢代とベレンソンの往復書簡に関する調査研究を進めて来ましたが、ベレンソンの旧宅を所屋とするハーバード大学ルネサンス研究センターおよび越川倫明氏(東京藝術大学)と共同でこの往復書簡全点114通の翻刻や関連文献等を掲載したウェブ上でのオンライン展示「Yashiro and Berenson-Art History between Japan and Italy」を、6月30日に開始しました(http://yashiro.itatti.harvard.edu/)。往復書簡、書簡に登場する人物一覧、『サンドロボッティチェリ』(1925年)、『私の美術遍歴』(7~10章、1972年)の英訳を含む矢代の著作の英語版、矢代についての論考、ベレンソンによる東洋美術に関する著作、矢代の描いた水彩画やスケッチを含むギャラリーという章立てで、二人の美術史家の交流をうかがえる資料群をご覧いただけます。矢代と書簡からはベレンソンと矢代の個々の活動や師弟関係のみならず、1920年代から50年代までのルネサンス美術研究および東洋美術研究の国際的状況がうかがえます。

スタンレー・アベ氏講演会

講演会の様子

 中国美術史の専門家スタンレー・アベ氏(米国デューク大学教授)を企画情報部来訪研究員としてお迎えしたのを機会に、6月5日(水)14時から17時30分まで、当所地階会議室において、「「中国彫刻」のイメージの形成」をテーマに講演会を開催しました。
 アベ氏の発表では、中国には19世紀まで西洋的な「彫刻」という概念がなく、立体造形物はそれに付随する文字が重視されたり、贈答品や骨董品として位置づけられたりと、多様な価値評価がなされていたことが指摘されました。そしてそれらが、近代以降、中国を訪れた西欧人、日本人の収集対象となって美術品という新たな価値を得ていく過程が跡づけられました。
 講演後、田中修二氏(大分大学教育福祉科学部准教授)、岡田健(当研究所保存修復科学センター長)をコメンテーターとして行われたディスカッションでは、西欧の「彫刻」概念と出会う以前の中国と日本では、立体造形物の位置づけと価値基準が違い、それらを制作した人々の社会的地位も異なっていたこと、中国では「彫刻」といえば近代以降の制作物という意味合いが強いことなどが明らかになりました。
 議論を通じて浮かび上がってきたのは、西洋文化の受容や造形の近代化のあり方の多様性、それを支える歴史的経済的背景などです。講演会には48名が参加し、盛会となりました。

黒田清輝「グレーの原」調査

黒田清輝「グレーの原」

 洋画家黒田清輝の遺言によって1930年に開所した「美術研究所」を母体とする当研究所では、黒田をはじめとする日本近代美術の調査研究を大きな柱として来ました。このたび、黒田記念館での展示に活かすことを条件に、黒田清輝筆「グレーの原」(カンヴァス・油彩、29.2×51.4cm)のご寄贈依頼があったことを受けて、5月6日に企画情報部の田中淳、塩谷純、城野誠治、山梨絵美子が同作品の調査・撮影を行いました。この作品に描かれているのは広やかな緑野にふたつの積み藁がある田園風景で、近景の草叢にある赤い花がアクセントになっています。画面右下には「S.K」とサインがあります。制作年は記されていませんが、モティーフと画風からフランス留学中、グレーでの制作を行い、サロン入選を目指していた1890年前後のものと思われます。積み藁が描かれており、黒田が私淑したジャン・フランソワ・ミレーとの関わりも想起される稀少なものです。1891年から93年までフランス公使をつとめ、フランス留学中の黒田に制作の援助をした野村靖(1842-1909)のご遺族に伝えられており、画家の交友関係をうかがわせます。調査結果を公にするとともに、黒田記念館での展示に活用していく予定です。

来訪研究員金子牧氏による研究発表

 昨年7月から1年間、企画情報部来訪研究員として調査研究を行ってこられたカンザス大学美術史学部アシスタント・プロフェッサーの金子牧氏が来訪期間を終えるにあたり、6月28日に企画情報部研究会において成果発表を行いました。金子氏はアジア太平洋戦争および戦後という時代が美術家たちの制作にどのように表出されるかを追及しておられ、その調査の中で浮かび上がってきた興味深い問題のひとつとして素朴な貼り絵で知られる山下清(1922-71)を巡る評価の変遷に着目し、「「国民的画家」の表出:アジア・太平洋戦争期と戦後の「山下清ブーム」と題して発表されました。
 山下清が最初に注目を集めた時期は日中戦争勃発から1年目にあたる1938年から1940年までの二年間で、その頃は知的障害を持ちながら優れた造形力を示す「日本のゴッホ」といった位置づけであったのに対し、戦中を経て再度注目された1950年代半ばには無垢な感性で牧歌的な郷愁を誘うイメージをつむぐ「国民的な画家」として語られていきます。
 金子氏はそうした山下清像に、戦争に向かって総力戦体制を構築していった1930年代後半、そして「もはや戦後ではない」と言われ、戦争の記憶が様々な形で甦った1950年代、という二つの時代の社会状況が反映されているのではないか、と指摘されました。
 狭義の「美術」という枠を超え、視覚表象の受容のあり方から社会を分析しようとする興味深い試みでした。金子氏は6月末に当所での調査を終え、帰国されました。

ギメ美術館理事、ユベール・ギメ氏講演会

講演会の様子

 当研究所は2010年にフランスのギメ美術館と研究協力及び交流に関する覚書を交わしました。ギメ美術館は19世紀から20世紀初頭にかけてエジプト、さらにはインド洋を経て日本に至る諸国を訪れたエミール・ギメが、各国で収集した東洋の宗教に関連する文化財を所蔵、展示する美術館です。日本の仏教美術品も多く収蔵しており、フランスでは有数の東洋美術館となっています。同美術館の理事でエミール・ギメの曾孫にあたるユベール・ギメ氏が来日されるのを機会に、当所にて4月5日に講演会を開催し、「エミール・ギメ ウルトラマリンからギメ美術館へ」と題してお話いただきました。
 エミール・ギメの父親ジャン・バティスト・ギメ(1795-1871)は1826年に人工ウルトラマリンの製造法を発明します。ウルトラマリンはアフガニスタンなどで採取されるラピスラズリを粉砕して作られる青色顔料で、ヨーロッパでは輸入する以外に入手できず、金と等価に売買されるほど高価なものでした。ギメの発明によって科学的に製造されるようになった人工ウルトラマリンは瞬く間に普及し、1855年にはペシネ社という会社が創立され、1850年代には創業当初の100倍の生産量に及んだとされます。エミール・ギメの大旅行と美術品収集の資金はこれを元にしていました。
 人工ウルトラマリンは画家たちの絵画制作にも当然用いられ、ジャン・ドミニック・アングルなどの新古典主義の巨匠の作品にもその使用を認めることができるといいます。
 この講演はこれまで知られていなかったギメ家の歴史の一端が明らかにし、また19世紀ヨーロッパ絵画史におきた材料面での大きな変化についても指摘するものでした。90余名の方々にご参加いただき、盛会のうちに終了しました。

陸前高田市立博物館被災美術品応急処置の完了

陸前高田市立博物館からの被災作品の搬出
燻蒸後の被災作品のクリーニング作業

 3月11日に起きた東北地方太平洋沖地震により岩手県陸前高田市立博物館では、所蔵品すべてが津波によって水損する大きな被害を受けました。同館には総合博物館として人文系・自然史系の多岐にわたる資料が収蔵されていました。それに加えて市ゆかりの作家たちの作品を中心に油彩画、書、版画も保管されていました。被災後、それらの美術品は全国美術館会議の参加館から派遣された学芸員たちによって現地から盛岡市内の県管轄施設まで輸送され、応急処置を受けました。
 周囲の建物がほとんど流出した中、一部破損した躯体のみが残った陸前高田市立博物館で7月12、13日、炎天のもと、所在作品の調査、梱包が行われ、14日に盛岡市内に輸送されて県所管施設に搬入されました。200号から400号におよぶ大型作品が多く、また海水に浸った後に気温が上昇する状況に置かれたことからカビの害が甚しかったため、応急処置作業の前に燻蒸によって殺虫殺菌を行うことが必須でした。8月9日から16日まで燻蒸を行い、8月21日から応急処置作業が始まりました。北海道から九州まで、全国美術館会議会員館の学芸員、保存担当者などのべ約700名が参加して、土・日曜日も休みなく、画面や額のクリーニング、防黴処置に当たり、作品が美術館等の収蔵庫での中期的保存に耐えられる状態にしました。全156件の作品は処置を終えて9月29日に岩手県立美術館収蔵庫に納められ、今後は陸前高田市から同館へ寄託される予定です。この作業には全国美術館会議、岩手県教育委員会、陸前高田市教育委員会、岩手県立美術館、国立美術館が当たり、被災文化財等救援委員会(事務局:東京文化財研究所)が支援、調整を行いました。
 大災害を乗り越えた後、それらを守り伝えようとする多くの人々の手当てを受けた作品たちが、このまま収蔵庫で眠り続けることなく、活かされる機会が訪れることを祈念してやみません。

「近代日本洋画の巨匠 黒田清輝展」を岩手県立美術館で開催

 黒田清輝の功績を記念し、あわせて地方文化の振興に資するために、1977(昭和52)年から年1回、開催館と共催で行なっている「近代日本洋画の巨匠 黒田清輝」展は、今年度、岩手県立美術館を会場として、7月17日(土)より8月29日(日)まで開催されました。重要文化財≪湖畔≫≪智・感・情≫をはじめ油彩画・デッサン等147点、写生帖、書簡などのほか、昨年度ご寄贈を受けた≪舟≫≪芍薬≫≪日清役二龍山砲台突撃図≫、二点の≪林政文肖像≫も出品され、初期から晩年までの黒田の画業を跡づける展観となりました。
 岩手県は、東京美術学校で黒田清輝に師事し、アカデミックな絵画教育を受けた後、西欧の新しい芸術運動に学んで日本近代絵画に新風をもたらした萬鉄五郎や松本竣介の出身地です。岩手県立美術館はそれらの作家の作品を常設展で紹介しており、黒田展と合わせて、日本近代絵画の流れを追えるよい機会となりました。同展は11942名の入場者を得て、盛会のうちに終了しました。

村松画廊資料受贈と感謝状贈呈

川島良子氏に感謝状を贈呈する鈴木所長

 1960年代以降、我国の現代美術を牽引する作家たちの作品発表の場となった村松画廊の画廊主、川島良子氏は、2009年12月に閉郎するにあたり、展覧会記録写真を納めたアルバム等の資料を、当研究所にご寄贈くださいました。同画廊は、1913年に銀座に開店した村松時計店の画廊として1942年頃に始まり、1968年に川島氏に引き継がれました。その後、40年に及ぶ画廊活動の資料は、戦前から当所が収集、整理、公開してきた現代美術作家資料を補う貴重なものです。その篤志に対し当所では感謝状をお贈りすることとし、3月12日に所長より贈呈しました。受贈資料は、末永く保存し、活用・公開していく所存です。

黒田記念館特別公開

 黒田記念館では毎年「上野の山文化ゾーン・フェスティヴァル」の一環として、通常の週2回の公開とは異なり、文化の日の前後に特別公開期間を設け、毎日9:30から17:00まで開館しています。今年は11月3日(火)から8日(日)までの6日間、特別公開を行い、1895名の入場者がありました。洋画家黒田清輝の遺言で造られた黒田記念館は1928年の竣功になり、建築家岡田信一郎の洋風美術館建築として重要な建物の中に、重要文化財≪湖畔≫≪智・感・情≫を含む黒田清輝作品のまとまったコレクションが常設展示されています。通常は木曜日、土曜日の13時から16時までの開館です。

「近代日本洋画の巨匠 黒田清輝展」盛会裏に終了

 7月18日(土)より島根県立石見美術館で行なわれた「近代日本洋画の巨匠 黒田清輝」展は、15177名の入館者を得て8月31日(月)に終了しました。1日の入場者数平均は、石見美術館開館記念展以来の数字となりました。8月1日に当所が行なった出口アンケートでは、同日の入館者の8割以上の方々にご解答いただき、広島県から全体の約30%、山口県から約10%と、島根県のみならず近隣の方々にも多数御覧いただけている様子がわかり、また、100%の方々に展覧会に満足していただけたという結果が得られました。同展に際しては、≪湖畔≫の画像を用いたティッシュの配付や、この作品に描かれた団扇を復元して、毎日来館者先着30名に贈呈するなど、話題づくりに様々な工夫が凝らされるとともに、関連の企画として、1日に「日本絵画の近代化と黒田清輝」と題して、当所企画情報部の山梨絵美子による講演会が、8日には≪湖畔≫に似た装束の人物モデルを使ってデッサンや水彩画を描くワークショップが、29日には同館学芸員川西由里氏による講演会「黒田清輝と森鴎外」が行なわれ、多くの方々にご参加いただきました。
 来年度の黒田清輝展は岩手県立美術館で開催される予定です。

「近代日本洋画の巨匠 黒田清輝展」を島根県立石見美術館で開催

島根県立石見美術館での黒田清輝展会場

 黒田清輝の功績を記念し、あわせて地方文化の振興に資するために、1977(昭和52)年から年1回、開催館と共催で行なっている「近代日本洋画の巨匠 黒田清輝」展は、今年度、島根県立 石見いわみ 美術館を会場として、7月18日(土)より8月31日(月)まで開催されています。重要文化財≪湖畔≫≪智・感・情≫をはじめ油彩画・デッサン等147点、写生帖、書簡などが出品され、初期から晩年までの黒田清輝の画業を跡づける展観となっています。
 石見は、明治の文豪森鷗外の出身地です。鷗外は、陸軍軍医として衛生学を勉強するため1884(明治17)年から1888(明治21)年までドイツに留学し、本務のかたわら美術館や劇場を頻繁に訪れて、芸術にも親しみました。帰国後、文筆活動の一環として美術批評も行い、黒田清輝が裸体画論争のなかで第二回白馬会に≪智・感・情≫を出品し、批評の的になった折には、この作品に敬服している一人であると発言しています。後年、鷗外は帝国美術院の初代院長となりますが、1922(大正11)年に鷗外が逝去すると、黒田がその後を襲い、二代目院長となるなど、鷗外と黒田はさまざまな接点を持っています。
 石見美術館では、黒田清輝展にあわせて森鷗外と関連する同館の所蔵作品を常設展示しています。黒田の作品や師ラファエル・コランの作品、鷗外の墓碑を書いた洋画家・書家中村不折の作品などが展示され、明治・大正期の文化人の交遊の一端を知ることができます。

データベースの有効活用にむけて―「連想でひろがる美術資料の情報発信」

丸川氏研究会

 有形、無形の文化財に関する調査研究を多様な分野で行ってきた当研究所には、調査研究の成果として培われた資料が蓄積されています。企画情報部では国立情報学研究所特任准教授の丸川雄三氏を客員研究員としてお招きし、当研究所がこれまで蓄積してきた資料のデータを有効に活用できるよう、広く公開する方法を検討しています。その一環として6月23日に丸川氏に「連想でひろがる美術資料の情報発信」と題してご発表いただきました。検索者が指定した複数のデータベースを横断検索する連想検索システムや、それを応用した展示の例などが紹介され、当研究所が持つデータを用いた連想検索のデモンストレーションも行なわれました。データのもととなるモノとしての資料の収集、保管についても考えつつ、電子空間での情報公開の方法についてこれからも検討を重ねていく予定です。

黒田記念館での特集陳列「写された黒田清輝Ⅱ」

 誰もが容易にカメラを手にし、撮影をして画像を得ることができるようになったのは、ごく近年のことです。ピントや露出の調整、現像などがすべて人の手によって行われていた頃には、写真は大変貴重なものでした。そうした写真資料は、撮影の背景を含めてその時代を考察するための手がかりとなります。
 平成18年度および19年度に、黒田清輝夫人照子のご遺族にあたられる金子光雄氏より、同氏が保管してこられた黒田清輝関係の写真や遺品などが東京文化財研究所に寄贈されました。当研究所企画情報部では、これらの資料の来歴や関連する事項などについて調査と整理を進め、昨年度、黒田記念館において「写された黒田清輝」展を開催いたしました。帝室技芸員であった小川一真の撮影による大礼服の黒田清輝の大判のポートレートなど、公的な場での黒田像が浮かび上がる企画となりました。
 第二回目となる今年度は「家族の肖像」と「画家のアトリエ」をテーマに、黒田記念館で3月19日(木)から7月9日(木)まで「写された黒田清輝Ⅱ」を開催いたします。≪湖畔≫が、後に黒田夫人となる女性をモデルに描かれたように、黒田の作品には家族をモデルとするものが数多くあります。実父、養父、養母の肖像のほか、≪もるる日影≫は姪の君子を、≪少女雪子・十一歳≫も同じく姪を、≪婦人肖像≫(木炭・紙、1898年)、≪婦人肖像≫(油彩・カンヴァス、1911-12年)は照子夫人をモデルとしています。これらの人々の写真と黒田による絵とを比較してみると、≪湖畔≫がその題名の示すとおり、肖似性が主要な目的とされる肖像画として描かれてはいないことなどがわかり、絵画と写真における再現性と虚構性の問題などを考える契機となります。
 アトリエでの画家や、制作中の様子を伝える写真には、作品の生み出される場が写し出されています。アトリエにかかる作品から画家の関心のありどころを、モデルとの写真から画家とモデルの関係を推測することもできるでしょう。
 写真資料の原本は展示による劣化が懸念されるため、オリジナルの風合いを保ちつつ、原寸大に再現した画像を公開します。これは、写真資料の保存・公開という目的のために進められたデジタル画像形成技術の開発研究の成果の一部でもあります。 これからも資料そのものの保存を考慮しつつ黒田清輝についての調査を進め、その成果を黒田記念館で展示・公開していく予定です。

共催展

 黒田清輝の作品を鑑賞する機会を広げることを目的に1977年度から毎年行われてきた黒田清輝展は、今年度、神戸市立小磯記念美術館での開催となり、7月18日に開会式が行われ、翌日から一般公開されました(-8月31日まで)。重要文化財≪湖畔≫≪智・感・情≫を含む約160点の油彩画・素描が展示され、京阪地方では約30年ぶりの大規模な黒田清輝展となっています。神戸市立小磯記念美術館は東京美術学校で藤島武二に師事し、後に同校で教鞭を取った洋画家小磯良平を記念する美術館です。小磯は黒田らが基礎を築いた洋画のアカデミズムの継承を自らに課した画家でした。常設のギャラリーに展示されている小磯良平の作品とともに鑑賞することで、日本洋画のアカデミズムを振り返ることのできる貴重な機会となっています。

京都・湖西での旧職員に関する資料調査

 当所では1930年の美術研究所開設からの歴史を跡づける作業を継続して行い、2009年度の『東京文化財研究所七十五年史』刊行を目指しています。7月に旧職員で日本の絵巻研究者であった梅津次郎氏(1906-1988)遺族と黒田記念館の管理を担当された大給近清氏(1884-1944)遺族宅での資料調査を行いました。梅津氏の資料の一部はすでに当所に寄贈され、公開もされていますが、このたびはそれらを補う調書類の所在を確認しました。大給氏については、これまで当所の設立を遺言した洋画家黒田清輝の実妹純の夫であること、東京美術学校で洋画を学んだことなど収集できていた情報は限られていました。しかし、遺族宅には小品ながら大給近清氏の洋画作品数十点、黒田の実妹の肖像を含む写真類など、黒田ら外光派の作風に学んだ大給氏の画風や交友関係などを明らかにする貴重な資料が残されていることがわかりました。大給家は鶴岡藩の酒井家とも親戚関係にあるところから、明治期の酒井家酒井家十五代酒井忠篤夫妻の肖像画を描いており、現在、酒井家に所蔵されていることも明らかになりました。これらの成果は『東京文化財研究所七十五年史』に掲載する旧職員の略歴に反映し、これまであまり調査の進んでいない文化財関係の研究者たちの足跡をたどるための基礎資料となるよう、精度を高めていきたいと思います。

“オリジナル”研究通信(4)―加藤哲弘氏を囲んで

 企画情報部では今年12月に開催する国際シンポジウム「オリジナルの行方―文化財アーカイブ構築のために」に向けて準備を進めています。5月9日には、加藤哲弘氏(関西学院大学)をお招きして研究会を行いました。山梨絵美子の「美術研究所とサー・ロバート・ウィット・ライブラリー」と題する当所の成立と1920年代の西欧社会における美術史資料環境に関する発表、西洋美学の分野で「オリジナル」の問題がどのように語られてきたかについて加藤氏の「『オリジナル』であることをめぐって―美術研究に対するその意義」という発表の後、“オリジナル”をめぐってディスカッションがなされました。“オリジナル”であることが希求されるのは西洋でも19世紀以降であること、そうした時代を背景としながら19世紀末に活躍した美術史家アロイス・リーグルは必ずしも文化財の当初の姿のみに価値を見出さず経年的価値を認め、アーウィン・パノフスキーは複製が真正性(アウラ)を欠くことを指摘して文化財そのもの(オリジナル)と複製を区別したことなどが加藤氏によって指摘され、”オリジナル”の記録と記憶の質の違い、“オリジナル”を残す行為は何を伝えていくことか、などについて議論が交わされました。様々な角度から考え、議論を深めることにより、シンポジウムの充実を図るとともに、文化財に関する調査研究、資料の蓄積と公開という日常業務のあり方についても考える機会としたいと思います。

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