白馬会の時代

 《朝妝》をはじめとする滞欧作をたずさえて日本に帰国した黒田清輝は、当時唯一の洋画団体であった明治美術会でそれらの作品を発表する。その明るい色彩にあふれた画面は、それまでの暗い、“脂派”と称されたスタイルに対し“紫派”と呼ばれ、洋画壇に新風を吹き込むこととなった。

 またパリでサロン入選という西洋絵画としてのお墨付きを得たはずの《朝妝》は、明治28(1895)年の第4回内国勧業博覧会に出品されるや、その公序良俗をめぐって、いわゆる裸体画論争を引き起こす。裸体表現こそ洋画の基本とする黒田は毅然とした態度を固持、その後も世間を挑発するかのように裸体画を制作・発表し続けた。


床次氏像 / Portait of Mr. Tokonami
1905
/ 29.0 x 18.8 cm
KU-c055
植木棚 / Plant Shelf
1906
/ 20.0 x 26.2 cm
KU-c040
船原紀念 / Memories of Funabara
1906
/ 16.7 x 11.5 cm
KU-c069