矢代幸雄のアジア美術観に関する研究

1940年に行われた矢代幸雄一行による中国視察旅行の折に撮影された写真から。当時北京市内にあった楼門には、「仁丹」の広告があったことがわかる。
美術研究所創設当初の矢代幸雄(右側)と所員であった尾高鮮之助。尾高は、矢代からの助言により東アジア美術研究を志して、30年代はじめにアジア各地を実地に調査した。(『亡き鮮之助を偲ぶ』より)

 5月25日から27日までの3日間、九州大学、九州国立博物館、筑紫女学園大学において第60回美術史学会全国大会が開催されました。初日(会場:九州大学50周年記念講堂)に、わたしは「アジアのモダニズムの一側面―『仁丹』広告がつたえること」と題して発表しました。
 題名にあげた「仁丹」とは、もとより商標であり、現在も商品として販売されています。(当初は「万能の懐中薬」として、1920年代からは「口中芳香剤」として、現在は医薬部外品として販売されています。)1905年の発売当初から大礼服姿に髭を蓄えた紳士の胸に記された「仁丹」の広告イメージは、トレードマークとして新聞、看板等の宣伝メディアをつうじて、「全国津々浦々の薬店」まで浸透していったとされます。しかも当時から日本国内だけではなく、同じ漢字文化圏である中国大陸への販路拡大をめざしており、その結果、第二次世界大戦終了までにはアジア各地に支店等を設け、各地域で国内に劣らないほどの宣伝活動をしていました。そこで本発表では、日本から発信された視覚イメージとしての「仁丹」広告をとおして、それをどのように見せようとし、一方でどのように見られていたのかということをひとつの側面として視野にいれつつ、1910年代から30年代の「美術」(「美術史」研究、美術行政を含む)における問題を、「アジアのモダニズム」という視点から発表しました。
 とくに発表では、当研究所の前身である「美術研究所」の創設期の所長であった矢代幸雄、また早世した所員尾高鮮之助(1901-33)たちが構想したアジア美術研究と各地における調査活動に焦点をあてました。というのは、そこで写された写真のなかには、すでに「仁丹」広告がみえることから、戦前期における日本の経済活動と人文研究の重なりのなかに日本人が抱いた当時の「アジア」観を検証しました。この発表のためには、今年度刊行が予定されている『東京文化財研究所七十五年史』、またアジア仏教美術研究者として再評価がすすむ尾高鮮之助に関する調査研究の蓄積を少なからず参照しました。この点からも、今回は単なる個人研究というものではなく、当研究所の「美術史」研究のひとつの現況を報告する内容でもありました。

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