白馬会を一瞥して

  • 一記者
  • 東京日日新聞
  • 1910(明治43)/05/14
  • 5
  • 展評

風薫る上野の森は、美術の花で賑かになつた。日本画会もある、寺崎画伯の作品陳列会もある、中にも白馬会の洋画展覧会は、年中行事の一つとして、新しい芸術の愛慕者を自らこゝに招いて居る。記者も希望と熱心とを以て、順禮者の群に加つた。十分に観る時は無かつたが、個個作品に就て、批評をして見たい心地もする。併し白馬会と対立して芸術の天下を両分せんとして居る太平洋画会も、二十日頃から開かるゝ筈だから、批評は比較研究の上試みた方が、興味もあれば利益もあらふ。こゝには只大体の感想を二三述べて置く。
△白馬会に入つて先づ甚しく不快の感に撲たれる。何とせゝこましい、陳列法であらふ。狭い場内に沢山の画を陳べる必要のある爲めか知らんが、幕張りの壁と云ひ壁に殆んど寸隙も無いばかり並で掛けてある。宛然玩具の勧工場にでも入つたやうで、一瞥すると只何の事はない絵具や額縁の陳列としか思はれない程だ。余りに余裕のない、余りに鑑賞の興味を度外視した配列法では無いか。芸園開拓者の用意ありとも思はれない。予は此一点に於て来るべき太平洋画会理事者の殷鑑とする事を願はざるを得ない。
△配列法に余裕の無いのは、出品の多い爲めとも言へやうが、併し鑑査は十分とは言へぬ。文部省の展覧会なら無理不合格に終る可きものも多くある…実際文部省展覧会に落選した作品も出て居る之は却つて一種の面白味もあるが…数でこなす陋をやめて、今少しく鑑査を厳格にしたら適當な配列法をも取り得たらうし、良作品をしてその光輝をも放ち得せしめたであらうに、玉石の同架は好作家にも観賞家にも迷惑の事と謂わねばなるまい。
△配列の方法に就てもう一つ非難せねばならぬ事は、何うも配列の標準が額縁の大小を本とした観を免れぬ事である。之も或点までは止むを得ない事情もあらうが画家のインデヴヰヂユアリチーを余りに軽んじて居る嫌は爲いか。同一画家の作品は成るべく一纏めにして置く方が鑑賞者に取つても好都合である。夫れを故なく離れ離れにされては作家の特殊性を玩味する便宜を欠く。太平洋画会では、此点も注意するが佳からうと信ずる。
△画会先達の出品が余りに貧弱な事も、局外者からは甚しく遺憾に思はれる。実際日本には画を描かぬ大家先生が多いけれども、白馬会中には画を描く大家も多いのに拘らず、黒田清輝氏を除く外は殆んど春の展覧会を重んじて居る熱心がえぬ。熱心がえぬと言つて外部から苦情の言ひ様も無いが、一年一回の私設展覧会だから、芸術進歩の爲めに今少しく念の入た作品を示して貰ひ度と思ふ。
△更に一個の希望を陳れば、参考品を豊富にする事と、及び陳列参考品に関する説明を与て貰たい事である。今度の白馬会は藤島武二君、湯浅一郎君の出品で大分賑かだが、他にも参考品を集める工夫はありそうな者である。又陳列参考品に関する説明を与へる事も美術智識の普及から見て必要は無論の事だが、之も一挙手一投足の労ではあるまいか。独逸の博物館や展覧会などに見る如く、参考品説明の爲め、特に専門のドツセントを置いて、或る一定時間に講義をさするのも一方であらふと思ふ、白馬会や太平洋画会で之を試むるのも面白いでは無からふか併し開会はしても、■■■■さへ出来て居ないやうでは、之を望むのは無理かも知れぬ。
△斯く大体論をして仕舞へば、白馬会の非難ばかりするやうだが、他の画会に就ても予は常に同様の感を抱く事が多いから、此機会に希望を述べて置く丈である、行く春の半日を此画会に過す丈けの価値は無論十分で、新しい青年画家の筆には観るべきの製作も少くない。終りにもう一言、画会を見る度に遺憾禁じ難きものは美術常設館の無い一事である、適當の常設館さへ出来たら、展覧の方法も、作品の鑑賞も、作家の奮発も、一段の見る可きものがあると信ずる、聖代の一大遺憾では無いか。 (一記者)

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