白馬会展覧会(下)

  • 吾妹子
  • 萬朝報
  • 1909(明治42)/05/07
  • 1
  • 展評

△第三室で注意すべきものは岡田氏の「あざみ」である、評者の知る限に於 て岡田氏の描く人物は黒田氏のそれに比して姿態甚だ平凡―語弊があるならば無技巧的といはう―であるが、この図もまた同じ傾向を有する、即ち粧飾的 なる薊の前に置かれたる三十路計りの女性は膝の上に書物 を伏せて下目にその眼を投げてゐる、たゞそれだけだ、この奇もない構図が生きるのは実に描写 の巧にある、誰かこの画に対して一種懐かしむべき全幅の諧調を認めざるものぞ、殊にその色彩の日本的調子を有する所が■しくはないが、薊の色の深味などは他の容易に企及し難い所と思ふ同室に和田氏 の「肖像」とて同じく婦人を写したものがあるが、到底「あざみ」と同日に談 ずべきでない
△小林萬吾氏の画は依然として薄■い所に特色があ る、「肖像」「虞美人草」共に不賛成、それよりも寧ろ兎角の批評のあ つた長原孝太郎氏の諸作に加擔する「プリムローズ」と目録にあるのがそれか鉢植 の小植物は一寸面白い行き方だと思つた、但し幾分作りものらしい 感は免れない、太田三郎氏の「屋根の雪」渡辺省三氏の「白壁の「冬枯」は第二流以下の作家の作品中で立優 つてゐる「白壁」は殊に下半の趣を佳とする、上半は屋根の余りに黒き色が不快の念を引いた、安藤仲太郎氏の「早春」や中村勝次郎氏の「花」は評者印象を受けず、故に無評、辻丸次郎といふ 人が透射せる日光を捉へた「木立」は興味ある試らしい
△次に第 二室、茲での呼物は何はあれ「停琴」の一図と人はいふ、然し評者は不幸にしてその作家が清国人は李岸氏)であるとの条件なし には大した賛辞を呈するを好まぬ少くとも真摯の点は見出されぬと考 へる、まだ太田三郎氏の「都の友より」といふ旅寓の一少女の方が一歩然らずんば半歩の長がある、久保川貞平氏の「魚」「桜花」は静物画中やゝ成功せるもの、安藤仲太郎氏の「夕桜」は吾等少しく鑑賞に窮 する、八條弥吉氏の「夏の大洗」は広重風とでもいふべく、この種の画も発 達させて見たい
△さて階を下つて第一室になる階上は悉く油絵だが、此処は水彩画が大部分を占める、油絵では山形駒太郎氏の 「晩秋」「残雪」が佳い、パステルも矢田部俊二氏のが一枚ある、水彩画で はその間口から見て三宅氏の「木下蔭」が大きい、図は渓流を前に雑木叢 を現し、例によりて綺麗にも描きなしたものだが、何等の意想をも得ない、悪 口すぎるが腐敗した橙皮の堆積はかうもあらうかと少し胸が妙になつて来る、 「秋の山」「秋川の夏」等みな相似て遠からざるもの、「向河岸」の家並 を写した所などは、この人が如何に画趣を没却して徒らに写生の忠実に全力を注いでゐるかゞ窺はれる、後進の青年水彩画家輩よ、前車は覆れり、卿等心してその轍を踏まざれ―場を出でんとして暫し低徊する、コランの画が幻の如く眼にちらつくに(完)(吾妹子)

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