白馬会展覧会評

  • 丘邨生
  • 読売新聞
  • 1909(明治42)/04/25
  • 6
  • 展評

今にも雨の降り出しさうな、どんよりと曇つた日の午後であつた。自分は一日千秋の 思をして待つて居た白馬会の絵画展覧会が愈々赤坂の三会堂で開かれたと聞いたので、電車を外濠線の葵橋で降りて会場に 向つた。全体白馬会展覧会は昨年の秋、上野で開かれる筈 であつたが、会場の都合で今年の春まで延ばしたのだ、昨年は休会した事 であるし、今度は会場が狭隘である爲めに、鑑査も厳重にしたと云ふ噂 を聞いて居たので、目覚しい展覧会だろうと予期して居た、が行つて見ると 夫れ程でもなかつた、何となく一昨年の展覧会などに比べて劣つて居る様な気がされた。元来公設展覧会が毎年秋開かれる様になつてから美術家は其の方に出品する事を心懸けて居る爲めに、私設の展覧会では苦心惨憺して描き上げたと云ふ風の作品を見る事が少くなつ た。公設展覧会は云はゞ裃を着けて座敷へ行くと云ふ風のもので、未成 品とかほんの感興的製作と云ふが如きものは陳列されない性質を持 つて居る、だから思ふ侭の、自然に対して抱く感興を直ちにカンパスに上 して完成したもの、未成品に拘らず陳列する事を得るのが私設展覧会の特徴であると思ふ。自分は此の意味で裃を着けた四角ばつたものより、 寧ろ自由な感興的製作を却つて面白く思ふ。今度の白馬会展覧会でも所謂完成した大作は殆んど見られぬが、前に云つた感興的 製作は随分に沢山ある。黒田清輝氏の作品の如きは此 の点に於て最も優れたものである、何れも一尺二三寸のものであるが、自然の妙趣 が如何にも能く発揮されてゐる、殊に此の中で佳いと思つたのは秋の洩 れ火を描いたもので只見ると何でもない様に思はれるが、能く注意して見て 居ると、物淋しい秋の光が赤い木の葉や枯草を照して居る自然の感じがすらすらと描き出されて居て、云ひ知らぬ情趣を感ずるのである。
山本森之 助氏のは何時もの作品に比べて見ると、今度のは非常にあつけなく思 ふ、何となく展覧会に出す爲めに殊更に描いた様に受取れる、此 の秋の展覧会には努力した真面目な製作を見せて欲しい、中沢弘光氏の作品の中に印象派的の風景画があるけれど、只表面の印 象派的で、もつと深みや強い処の無いのが物足らない感じがする、あの深 い深い蒼空の感じなども只平たく見える、其の筆遣ひや色彩の配合の具合などは流石に同氏でなくては得難い処もある、他に四五枚のスケツチがある が、山本氏と同様展覧会に出す爲めに殊更に描いたものらしい。矢崎 千代二氏の三枚の作品は、何れも達筆には描かれてはゐるが、自然に対す る態度に真摯と云ふ点が欠けて居る様思はれる。岡田三郎助氏の 製作は相変らず色彩豊麗を極めて居る。けれど強い処がない爲めに人 を惹きつける力は割合に薄い。和田英作氏は肖像画を一点しか 出品してない、だが矢張り衆に擢んでゝ何処か佳い処がある、只背景の緑 色が頭髪の毛に対して少しあくどくはないかしらと思はれる、画面にニスを塗つ たのは嫌味がある。跡見泰氏のでは稲叢の図が面白い、稲叢の陰影を明瞭 と描いたのは白い雲との対照が非常に佳い、只山と地平線 との界がぼんやりして居て何となく要領を得ない気がする。小林鐘吉氏の作品 は自然に対しての愛慕の情が熱烈でない様に思はれる、従つて 其の作品は人を魅するだけの力に乏しい。三宅克己氏の水彩画は相 変らず例によつて例の如しとでも評して置かうか、人は三宅氏の作品が大変に変つた様うに云ふけれど、其れは只筆の先きだけの事で、根本の自然に対しての態度、心持ちは前と少しも変つて居ない、描き方の変る、変らぬと云ふ事よりも、自然に対する根本の思想が変らなく ては駄目である、けれど自己の職分に対して何処までも忠実熱誠な事は當今多 く其の比を見ない、此れは三宅克己氏の美質であると思ふ。
小林萬吾氏 の四五枚の作、長原孝太郎氏の数枚の作は似たり寄つたり で、感興的製作には違ひなからうが、もつと努力して貰ひたい。太田三郎氏の 避暑に行つてる若い女が海を見晴らす座敷の中で都の友からでも 来た手紙を見て居る図は、道具立ては細かく描いてあるが、其方にばかり気 をとられて情景が余りうつらない。其れよりは却つて小品ではあるが、芭蕉の雨 に濡れている図の方が佳い。九里四郎氏の鏡に向つて居る婦人は少 し描き過ぎて居る、純日本の模様の長襦袢に、ヌーボー式の模様、洋風 の部屋は余りにかけ離れて居て不調和の様に思ふ。長襦袢の如 きも薄い布の様でなくて厚い感じがする、単に色ばかりから見れば及び難 い処もある、筆も手馴れて居る。橋本邦助氏の大島の風景は三原 山を描いたものだらう、山のたゞずまひ、白い雲の具合など能く描かれて居る。村 上喜平氏の裸体画は余り一生懸命になり過ぎて堅くなつたと云ふ形の堅いと云ふのは絵の堅いのではなくて、角力が土俵に上つて堅くなつたと云 ふ意味である)や物の説明と云ふ事も勿論必要ではあるが、其の爲めに 感興を失つて了ふのは遺憾である。郡司卯之助氏の作品は昨年の 公設展覧会に出たものよりは優れて居る様な気がする。真山氏の作品数個は何れも気が利いて居て場中では目につく方である。中村勝次郎氏の菊は氏としては佳作である、中野営三氏の漁村の絵は日の當つて居 る家の色と干してある網の色との配合が気持ちよく出来て居る、只物 と物との界がぼんやりして居るのはどう云ふ訳か。渡辺省三氏の家鴨の居る絵は家の水に映つてる具合が如何にも実際らしいし、色彩も鮮 かである。平岡権八郎氏の漁夫はかざして居る手が大きすぎる、胸や喉の蔭影が明瞭と描かれて居る割合に着物の描き方がぼんやりして居る、船 の燈火もぼんやりして居る、要するに強い燈火がかつと當つて居る感じに乏しい。評しやうと思つたものはまだ沢山あるけれど、何れ亦機会を見ての事にしや う、参考品として仏国のコラン氏の婦人の絵が出て居る、色彩も調子も描き方も日本の油絵とは似ても似つかぬ程かけ離れて居る、此れ位 の作品が日本人の手によつて製作さるゝの時代は何年後の事であ らうか、今の状態では甚だ心細い次第である。

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