葵橋畔の画会

  • 一記者
  • やまと新聞
  • 1909(明治42)/04/26
  • 6
  • 展評

新緑の葵橋畔三会堂に開かれた白馬会展覧会を見た、見 た其の侭を書いて見るならば第一室の三分の二は水彩画が陳列され てある、これが同会水彩画の全部で点数は僅に二十三、実に微々たるものであ る
△三宅克己氏の「木下蔭」は最も大作で苦心の跡も見えて居 る、グリーンの描写も真面目である、然し氏の自然に対する態度の余りに不変 で一本調子なのは遺憾に思ふ、同氏の作小品数点中で「向河岸」は変つた図取で色彩の湿ひは落着いてゐるが惜しい事に力がない
△ 森本茂雄氏は風景に気持のいゝ色彩がある
△中沢弘光氏の「温泉スケツチ」は趣味の多ひ軽快な作で此種のものは氏の個性が十分発揮されて居ると思ふ其他
△柴田節蔵氏の「玉子」「静物」は真面目な 佳作であらう以上の外注意を払ふべき物はない様である、油絵にうつると
△山 形駒太郎氏の「残雪」は漠然として見所に乏しい、殊に雪は固くしてアスパルトかセメントの如き感じを与へる、其よりは「花見スケツチ」の如き瞬間の表れたのを喜ぶ、第二室は階上にある
△辻九次郎氏の「春の日 」は建物があまりに軟く説明に乏しい様であるが然し温い色彩は嬉しい、影の色は奈何か、
△真山孝次氏の「夕月」「男半島の 一部」は佳作
△田口真作氏の「御手富貴」は可成の大作である、コンポジシヨン はあれでも宜いとしても、色彩の汚れたる、アウトラインのくづれたる実に不愉快である
△久保川真平氏 の「桜花」は小品ではあるが静物の沢山ある中で最も心持 の表はれて居るものだ
△斉藤松太郎氏の「少女の顔」正木辰雄氏の「人物」共に無難である
△太田三郎氏筆数点は色彩に於てデ ツサンに於ても無価値のものと思ふ其中「雪の横丁」「鈍き日」は稍々氏 の生命を保ち得べきものか
△会員安藤仲太郎氏の「夕桜」は場中 悪作の随一である、寧ろ黙するに不如矣
△吉川淡水氏の「日午」は暑き感じが遺憾なくあらはれて居る
△蒲生俊武氏の作数点は野心のある色彩である、中「自画像」の真面目を喜ぶ、第三室に入ると
△ 中野営三氏の「漁村」「薄暮」はいづれも苦心の作ではあつたが前者は色彩の豊富であるのに画面は落着きに乏しい
△会員和田英作氏の「婦人の肖像」は期待に背く事甚だしいが兎に角整然たるものである
△渡辺省三氏の「白壁」は無難
△小林萬吾氏の「吹雪」「虞美人草」採 るべきか
△長原孝太郎氏の諸作は一として生気を帯べる物のないのは氏の爲 に惜しむ
△岡田三郎助氏の「雪景の住宅を写生したものだそうだが 実に場中の白眉である、沈むだ家屋の側面の色、灌木に積 れる雪の光れる筆致に情ある所自から其所に在るを覚える、其他習作画二点は氏の如何に忠実に研究されつゝあるかを窺ふ事が出来る、 然し「あざみ」は採らず
△辻永氏諸作平坦々たるものもう少し熱せられん事を 望む
△加藤静児氏の「冬枯」は強い印象を與へられた温かい色彩は其生命である而してブラシユの気分のよき上乗の作
△平岡横八郎氏 の「日和」は力がある、第四室では
△九里四郎氏の「跪ける女」は悪感を催す、殊に腰より下は実に不愉快である
△出口清三 郎氏の「ワンセンヌの池」佳いと思ふ
△会員岡野栄氏の「寄する波」「納涼 」の二作は何と拙い画であらう
△会員跡見泰氏の「冬の日」は温 雅で而して極く真面目である、氏の自然に対する態度は女性的で 優しい
△会員橋本邦助氏の「朝の山」は余程不自然な景色にむか はれたるもの哉、此劣作に対した自分は呆然として云ふ所を知らなかつた
△山本森之助氏の諸作も見る者に落膽せしめたが「雲」は氏の技倆を窺はしむるに足るものであつた
△矢崎千代治氏の「風景画三点」は西欧 の新傾向を齎して居る
△中沢弘光氏の「日ざかり」は明快の調子 と強い色彩とによつて感興を惹く又「羽後雄鹿の海辺」は地方色が出て居る佳作である、其他数点皆研究のあとが見えて敬服である
△森岡柳 蔵氏の「天城山の夕照」熱烈の色彩を見る
△「彈手」ラフ アエルコラン氏筆(岩崎寅蔵)は一麗人を描て其筆致の高雅なる気韻に富める善美の極である、此名品に接した自分は多大の訓を受 ける事が出来た
△黒田清輝氏の「小品十一点」高雅な画である就中 「雪の庭」「小雨ふる日」は少なからず感興を惹いた、又「炎天の山辺」は氏が若返つた如き力のあるブラシユの迹を見せられたる欣喜 に堪えない出品の総点数二百四十五美術界の寂寞を破つて賑やかなこと である

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