白馬会を評す

  • 木下杢太郎
  • 東京二六新聞
  • 1909(明治42)/05/07
  • 6
  • 展評

第一室
○三宅克己氏の諸作
僕は先生から始めて自然に対する目を開いて 貰つたんだから、先生の作は自分のものゝやうに欠点と長所とがわかる。遠慮なく云ふと先生の気質は非常に道徳的だから、絵にも幾分か然うい ふ所が見はれてゐる。皆インチメエトな懐かしい絵だ。例之ば湯ケ島の山に秋 の午後の日が當つて山の襞禎が赤く温く交睫んでゐる裾に、ほのか に村落、火の見階子が見える。また谷の此方には同じ温い光を鬱蒼 たる森が浴びてゐる(八、秋の山)やうな所が好んで取られる。外にはまた (五)木下蔭のやうに所謂幽邃な自然が先生の心を動かすやうである。併し僕の不遜な感想を言へば、先生の筆致と色の対照とが少しく単調に過ぎると思ふ。僕は今度の諸作の内では(七)の夏景色といふうのが、小さいもので はあるが一番好きだ。あまり日の照らぬ日の夏のいきれるやうな緑の感じが出てゐると思ふ。
○中沢弘光氏の温泉スケツチに就ては甞つて言つたことがあるから今は言はぬ。
○山形駒太郎氏の花見スケツ チと言ふのが目に止まつた。小さい板片に、暗示的に飛鳥山の運動会の群を画いたのである。外に此人の作が二三あるが、飛鳥山のとは描法も かゝれた対象も大変違つてゐる。花見スケツチは技巧が好いといふわけでもないが、兎に角画かうと欲した目的が大抵の見當、よく達せられているから面白い。花を見 る一群の心は何か或目的に向つて集中してゐる。そこに一種の力 がある。併し之を明瞭に画き出すには昔の人が仏滅の絵にしたやうな大きい材料がゐる。さうでなくつて遠くからさういふ群を一寸一目した時、視感は何 となく驚かされる。此恐怖とも、何ともつかぬ一種の感情(純絵画的で舒情詩的では無い)暗示的な顔料の配整で以て尤も便利にあらはされる、兎に角、さう云ふ方向を此絵は取つて居る。
○戸張氏の水彩画の遣り 口くちは全然僕の賛成しない所だ。あゝ云ふ挿絵風のものは気の利いた線画でなければ効果が鮮いと思ふ。
○僕は田中泰吉氏の(三二)風景に於て、唯其取 られたる情調を喜ぶ。日本の新しい建築の木の色などは往々画家の顧ることなく捨つる所である。併し代々木とか、小石川の丸山町とか田端 、大森の辺の新開地、そこの粗末なる新築の家等の喚び起 す情調は亦大に絵画的興味のあるものである。さふ云ふ情調は長原氏の(一一五)新開地といふのより、此絵の方によく現はれている。

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