白馬会漫評(六)

  • 同行二人
  • 日本
  • 1905(明治38)/10/11
  • 3
  • 展評

一、冬の山(中沢弘光)
△苦心の作とは見えるが、苦心の割合に栄えぬ。何処の加減かは一寸口に言ひ難い、序でながら、今度の展覧会には紫色をつかう た画は殆ど見當らぬ。或は会の進歩といふものかも知れぬが、かう一時に無 くなると、何だか物足らぬ。紫色を使ふといふことが絶対にわるいといふわけではないのであるから、其 使ひやうの研究に一生を賭する人もあつて差支ない。今日其跡を絶つた ので見ると、以前の紫色はたゞ一時の気まぐれ仕事で、本統に自信を其中に篭めたのでなかつたやうな疑ひも起る。奇を衒ひ新を競ふに過ぎなかつたとすれば、 この会に対する信用も甚だ揺らぐわけになる。巴里にはなくとも紫色の研究を日本でやるのに何の差支があらうか。
◎前に立木を見せ、立木の奥に 険しい山をかいた雪景である。元来手際の綺麗な當世向きのこの作者の画としては思ひきつた処を捕へてをつて、景色の配置も悪いことはない。たゞ筆 つきがおとなし過ぎて、折角の立木も山も左程に崇高の感を引かぬ、山 も沢山樹も大木ではあるが、何処となく裏庭にでもある景色のやうな心持 がする。尚適切に言へば盆栽的趣味を脱して居らぬ。この点に今一転歩欲しいものである。
一、海岸(山本森之助)
△数年前有為の青年として期待され、今度の 紀念展覧中にも其旧作を以て一室を領して居る人の作としては、 寧ろ不振退歩の評を免れぬ。今一々其欠点を挙て居ると、此絵一枚きりで二三日の紙面を埋め得るけれども、こゝには態と言はぬことにした。さる細評を待つ迄もないと思ふ。或は以前のやうな純粋な考へでなく、自分 で種々のことに迷つて居りはせぬか。
◎平凡な海岸の画で、岩に浪がぶつか つて沫を飛ばして居る。空の雲など苦心の余になつたものらしく、落着いては居る が、手際が余りよすぎるので、多少の俗気を帯びて居ると思ふ。
一、花、小景(黒田清 輝)
◎三小幅のスケツチは二度目見た時に陳列されてをつて、始めの時はなかつたやうであ る。かゝる小幅の手際物はこの人の独特で何とも言へぬ処にうま味がある。 というて誉めるのは、この人に大作の出来ぬやうで或は失敬に當るかも知れぬ。併 しこの両三年来の傾向として、大作よりも小作、骨を折る仕事よりも骨 の折れぬ絵に専らなるのは此人の為めに大に惜むべきである。此外に
一、肖像画(同)
二面掛つて居るが、是亦たあつさりと画き下したもので、可も否もなく湯 を呑むが如きものである。日本の大家はすぐ老ひ込むといふ評の適切なるべきを思 うて大息せざるを得ぬ。(同行二人)

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