白馬会漫評(五)

  • 同行二人
  • 日本
  • 1905(明治38)/10/10
  • 3
  • 展評

一、衣通姫(和田英作)
△コラン大作の側に掛つてをるので、的面に比較せらるゝのは気の毒 な位である。第一コランの絵に就いていふた、色の光りといふものが少しも出て居 ない。悪く評すると泥でかいたかと疑はれる位で、画面に晴々とした空気がない。序でにいふが、色の光りといふものは何も明るい絵に限つたことではくて、暗い画でも其光りが出なければ著色の目的は達せられたとは言へぬ。苟 も日本で美人の標本にたとへらるゝ衣通姫である以上、もつと晴々しく色の光りが出して貰ひたかつた。作者は態と渋いといふ積りでくすんだ色を用ゐたのかも知れぬがそれにしてもくすんだ色なりの光りがありさうなものである。アンプレツシヨンの進歩した流派を以て任ずる人の作としては、却つて其色のクラシツクの範囲を脱せないの を異とするのである。次ぎには何等の筆力がない。たゞこまかに丁寧に色を塗つたといふ丈 で、著色の上の爽快な処は少しも見えぬ。お隣りにあるコラン氏の 作を見て此人の弟子にかゝるクラシツク派の著色をする人のあるのを更に奇 とせねばならぬ、この二点に於て明かに失敗してをる。余計な事かも知れぬが、白馬 会の先進者に十分反省されんことを希望するのである。尚ほ絵全体から言 へば、コランの作と比較するせいかも知れぬが、絵がちゞこまつてをつて如何にも窮屈さうであ る。これは何とも致方のない訳であらう。
◎何処となく上品な処もあつて去年のお七などに比べれば一段の上作と言つてよい。着色のことなども日本ではさうさう理 想的なものがある訳でないと、まア恕すべきであらう。
一、静(小林萬吾)
△衣通姫と一対をな して居るが、かうなると、矢張和田氏の作の方が一段上である。第一其立姿 を見ると、衣装の中に人間の身体があらうとは思はれぬ程形をなして居ら ぬ。其他は評の限りにあらず。
◎静といふ歴史上の人物らしくないのが、第 一の欠点であらう。たゞの白拍子と見ゆる外何等の感じをひかぬ。或は禮を失 する言かも知れぬが、まだはだか絵も十分に出来ぬ癖に、歴史上の人物 を画くなどは少々僭上の沙汰であらう。そんな事に徒らな骨を折るより腕一 本顔一つを画く練習をした方がよからう、と巴里でなら教師の小言が出さうであ る。
一、官女(湯浅一郎)
◎更に眼にもつかず、眼についても批評の限りでないと思つたこの図 が存外俗世間に評判がよいと聞いたから一言を費すのであるが、第一坐った 形が如何にも窮屈で、見て居つても骨が折れる。第二肉色が其他 の絵同様不愉快な色である。其他に空想的の趣味もなければ、ただ平凡 なる写生に過ぎぬ、肖像画と何等選ぶ処もないやうなものが持て囃されるなど、 奇怪千萬と言つてよい。
一、うつゝ(岡田三郎助)
△これも色の光、筆力の二点か ら言へば殆どゼロである。再三言ふやうであるが、やはらかい絵をかくといふことは筆力を無にす るといふことでない。この絵など魂もなければ花も実もない。淫靡といふことを覇気のないことゝすれ ば、これらはその第一に数ふべきものであらう。(同行二人)

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