白馬会漫評(三)

  • 同行二人
  • 日本
  • 1905(明治38)/10/07
  • 3
  • 展評

一、老人物(南薫造)
△人物画があれば十分批評して見たいと思ふに、どうも問題にするやうな 画がない。この老人物も骨格と言ひ、肉の色と言ひ、どうも人間らしい感じが起らぬ。筆つきが如何にも縮まつて居るせいか人物迄が堅く押しすくめられ たやうに思はれる。
◎一老人が窓に向つて物に腰掛けて居る絵である。窓の 光線を受けた塩梅など作者の苦心の存ずる処であらうが、何分渾然とした処がない。一言にして評せば生硬といふのであらう。景色の絵には相応に成功してをり又た器用をも弄して居る同じ作者にして、人物絵は斯 くの如き失敗に終つてをる人物描写の至難なること今更ながら押して 知るべきである。
一、海岸の景(橋本邦助)
△主な地面の景色よりも客の空の雲の方 が強くて、主客其権衡を失して居る。此人の作は今一枚池辺の家鴨を画いたのがある。其図を見ると、池の水模様と言ひ、家鴨の羽色 と言ひ、随分こまかに骨を折つてあつてこの海岸の図に比べると別手に 出づるが如き観がある。併し惜むらくは韻致に乏しい。殊に家鴨を追 ふてをる女などは人物になつてをらぬ。この画は家鴨の方を可とするのであらうか、掛ける場所 まで違へてあるけれども、予は海岸の方を寧ろ採るのである。
◎海岸といふよ りも大きな河か又は運河などの沿岸らしく見える。野は果もなく広々とし てをつて大空に雲が涌き立つてをる。珍らしい場所でないのみか、かういふ絵は白馬会としては陳腐になつた。昨年あたりからであるが、曠野又は蒼海の涯りないのを下 に平たくかいて、空模様を写す絵が、この会の流行の如くなつて来た。今回も類似の絵が数へられぬ程ある。それから言へば家鴨の図は多少かはつた処 を見附けて居るたゞ女だけは無くもがなで、あたら好幅を傷物にした観があ る。
一、群馬の図(和田三造)
△場中の大幅で田舎の裸馬を沢山に画いてをる。 全体の位置とか、人物の配合とか、画面の韻致とかいふやうなことは暫らく別 問題として見ると、兎に角思ひきつた大作で、何処となく青年の意気が 画面に現はれてをつて心持がよい。今少しデツサンを十分にやれば一層好画幅 となつたであらう。例せば右に立つ老人などは徒に顔が大き過ぎる、馬に腰 掛けた女なども足の具合が変である。若しこまかく穿鑿すれば馬の骨格なども怪しい点がなきにしもあらずだ。併し毛色抔はよく出て居つて田舎の駄馬 らしい処が歴然として居る。大幅を作すといふことが目的ではないけれども、少しの欠 点位にピリピリせずにこれ丈の物を仕上げ伎倆は敬服すべきである。序に 同図と対して
一、耕牛の図(赤松麟作)
の大幅があるが、これは全面蕪雑とでも評すべき で、殆ど比較すべきものでない。尤もかゝる大作は其技倆に応じなければ失敗に終るのが普通であるから、別に異とするに足らぬが、それを見ても群馬の図の多少の成功を認めねばならぬ。(同行二人)

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