白馬会瞥見記

  • 白鳥
  • 読売新聞
  • 1904(明治37)/10/09
  • 4
  • 展評

秋半ばにて、自然の風物も静寂になり、人の心も平穏になつて、何 となうしんみりした絵画でも観たくなる。思ふに展覧会ハ春期に催すべき者で ハなくて、凡て秋季にするがよからう。この秋ハ戦争の影響を受けて、例年に比 して会の数も甚だ少く、名作の出さうな風もなく、先づ白馬会位が多少でも注目を値するので、兎に角我々の目に目新しい丈でも陳腐な画題を型によつて描く日本画よりハ観て気持がよい。しかし美術品 としてハ尚甚だ幼稚であつて、前途ハ極めて遼遠である。
場中の 評判物ハ和田英作氏の「お七吉三」で、最も苦心もしたさうだ、洋画家が 歴史上或ハ小説上の人物を描くのハ珍らしいことで、一進歩と見て よいが、この製作ハ未だ称賛するに足るとハ云ひかねる。これでハ只今日の女に 元禄式の衣服を着せたるに止まつて、お七と名くる女、即ち邪気のない恋 に酔へる一少女といふ面影もない、況んや元禄の女といふ特徴の見 られやうがない、元々明治の女をモデルにしたので、其のモデルハお七のやうな純潔な恋な ど解し得べくもないのだから、顔面が題目に適しないのも止むを得ないことであらうが、吾人素 人の考へでハ、歴史的小説的人物を描くにハ、モデルなどに拘泥する やうでハ真の傑作ハ出来まいと思はれる。洋画家口癖の写実々々といつ て、モデルの模倣のみを絵画の本領とするのなら、てんで歴史画などハ画けぬ道理 だ。この画中の男女がお七や吉三とハ顔面も異れバ、情操も境遇も同 じくハないのだから、それを捕へて、其ままに写生して、八百屋お七にならう筈がない。和田氏ハお七吉三の恋を描き出さんとするに當り、先づ何をねらつたのであらう。若し頭髪とか衣服とかを元禄風にすれバ足ると思つたのなら、浅見の至りである。兎に 角去年の同会出品の「思郷」に比べると色彩も表情も遥 かに劣つてゐるが、小説中の人物を撰び、一種の情緒を描かんとする勇気だけハエライ。
藤島武二氏の婦人の半身画ハ少しも面白くないと評した人があつたが、予ハ甚だ快く見た。サツパリとして忌味がなくてよい。中沢弘光氏の漁夫も苦心の作らしく、筋肉も巧に出来てゐるが海が甚だ粗 末である。小林鐘吉氏の海ハ絵具を凸くポツポツと浮べて、画面が醜 い。外にもこんな種類が多いが、かうなると油絵もいやになる。黒田岡田の諸先生のも去年の出品に比して数も少く、出来も悪い。
特別室でハ青木繁氏の鯖漁が草稿のまゝだが、着想筆致群を抜いてゐるのみで、裸体 画に注意すべきものもない。白耳義人ウイツトマンとやらの真筆も数種陳列され てあつたが、これを無上に傑作だと難有がる日本画家の気が知れぬ。美術眼のない者ハ我々門外漢のみでハなく、専門家の目も當にハならぬ。

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