白馬会を観て申上候(二、完)

  • 懶子
  • 国民新聞
  • 1904(明治37)/10/30
  • 6
  • 展評

(あるかなきかのとげ)其取沙汰は種ゝなれど帰するところは元禄らしからず、今様めきたりと いふに有るが如く候。こは一応道理ある説には候へど、野生などの考にしては今様 めきたりとて別に差支へ無かるべしと存候、昔よりの小説などを御覧あれ。いかなる 大家の作中にも必ず何処にかその作者の影のうつり居るものに候、或は其 作者自らの性格の匂ひたるあり。或は其時代の感化を受け居 ることの識らるゝありて、到底其取材の當時の世界に直入する能はず候絵画に致しても左なりと存ぜられ候歌麿北斎の作にもあるお七吉三と雖も 亦決して元禄の西鶴のものならず候。されば明治の今日の作者が描きし 作品の今様めく事敢て怪しむに足らず、寧ろ北斎歌麿の式に傚 はざりしを賞すべきかと存候が貴意如何に候や併し此画の吉三は能く写し出されたるにも拘はらず、お七の顔面に表情足らず、形似の上にも何となくゆつたりせし所なく窮屈げに見ゆるが大欠点かと思ひ候。其他の色彩の技能は賞賛する丈け野暮に有之候。此他同子の作なる某博士の肖像と今一つの肖像は、其當人を知らず候へども生気躍々として実によき 出来と存候。「春郊」も頗る其情を顕はし居候。黒田清輝氏の大隈伯の肖像は氏が筆致に一種謂ひ能はざる味ひありて敬伏致し候。「庭の隅」も趣味津々洵によき感興を起し候。藤島武二氏 の「蝶」装飾用とやらなるが野生は此種の画を極めて好み候へば暫し其前を立ち去り兼申候。此他橋本邦助氏の「朝顔」の親切忠実に描かれたると、中丸精十郎氏の「草原」と幽趣とが気に入り申 候。同氏の「モザイツク」珍らしく見物仕但し其図案の多くがあまり西洋風 にて彼地のものを模しなるならずやと思はれて妙ならず、かゝるものも今少しく日本化せば一層面白かるべきことと存候。第五室は外人の作のみに有之 候。ロドルフ、ウヰツマン氏の「牧場の朝霜」の画は某氏は読売新聞にて攻撃せられしやうなりしが、野生は流石に外国の画なりとつくづく感心致候其日の光り朝もやの工合など西洋の詩を見る心地致し候併し敢てこれを 傑作なりと推選不致候。ジユリエツト、ウヰツマンは閨秀なりと聞きしが其「白百合」の図の如き有髯男子も愧かしきほどにて、一点紅粉の気なきは驚くべく 候。フエルナン、ケノップ氏の風景も会心の作に有之候、されど此等の作は邦人 にもなし得らるべくと存候。第六室の参考画の評判はあづかり第七室 にてはフエルナン、クノツフ氏のエッチングの瀟酒なるを喜び申候。山本森之助氏 の「夏の朝」も悪からず候。第八室の三宅克巳氏の水彩画数葉は実に氏が特長を遺憾なく発揮せられて何れも申分なき作に候水彩画流行の折柄定めて野生と同じく随喜の徒多かるべしと存ぜられ候。今 は詳細を可申上暇これ無く候へば試に野生が好める画の題のみ を挙げ候へば「茅屋」「夕雲」「暴雲」「夏の夕暮」「夏の雲」等に有之候。黒田清輝氏岡田三郎助氏のパステルの肖像風景共に又一種いふ可からざる快感を呼び候。第九室にてはあまり眼に留まりしもの無之候 終りの第十室中にては児島虎次郎氏の風景、山本鼎氏の夏が 面白しと思候、山本氏の画の蚊帳など洵によく出来居候但しあまり写 実に過ぎたる蝿の多きは厭はしく存候。丹羽林平氏の梨畑も正面向 に立てる少女の顔貌を妙ならずと致し候へども全体には佳作なりと存 候。橋本邦助氏の絵葉書なかなか面白く出来居候ひき。右は過般悩中の■を務みて瞥見したるを又倉卒に筆を走らし候ものなれば此絵に秀 抜の作を漏らし居候やも計られざれど、今は擱筆仕候他日更に申 上べき機会有之べくと存候草々本宜

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