裸体画問題に就て

  • 写裸躯斎(投)
  • 二六新報
  • 1903(明治36)/09/28
  • 1

両頭の蛇は随分不思議な動物にして珍世界に出品する丈の価値は充分である、況んや此蛇は眼が尻尾に着いて居てお先真暗なるに於てをや。
今日の裸体画問題に於ける政府の処置は全く前の蛇の如くで、其方針常に定まらず只珍奇と云ふの外はない、是れが蛇ならば見世物とするに妙であらうが、政府の仕事、而も世界の美術国なる日本の政府、又文明の仲間入をした所の今日の日本政府の仕事で有つて見れば、単に一の珍奇の現象として放棄して置くことは出来ないから、くどい様だが一つ論じて當局者の参考に供したいと思ふ。
此の問題の起原は明治廿八年第四回内国勧業博覧会の時で、其以前即ち其前年までは別に何事もなかつた、然るに不図此問題が喧ましく為つたが、結局美術品と然らざるものとを区別して、美術である以上は差支へないと為つた、併し只此侭にして置く日には、いかゞはしい物などが現はれて、或は風俗を乱るやうなことが有るかも知れぬとの懸念から、内務省で方針を明かにして置くの必要を感じて、美術の目的を以て製作し、其製作の精神の潔白なるものゝ外は之を禁ずると云ふやうな立派な内規が出来たとのこと、道理で其後明治三十年の白馬会展覧会には智情意と云ふ素裸の人物画が陳列されたが無事で有つた、此の三面の画は後に巴里萬国博覧会へも出品されて銀牌を得たもので、尤も右の如く裸体画を公衆に示すを得るは美術作品其物に限るので有つて、写真版其他印画として発売することは、仮令其原画が如何なる名作なるにもせよ許可せられぬことゝ極まつて、東京にては新著月刊なる雑誌の挿画が止められ、京都では京都新聞の附録として出したものが配布を禁ぜられた、是が裸体画問題の第一期である。
明治三十四年の秋彼の有名な腰巻事件が起つた、是は多数の白馬会員が巴里の博覧会に出懸けたので、其土産として彼の地より持ち帰りたるものを参加品として展覧会に陳列したところが其中に裸体画及び古代の彫刻物、即ち希臘タナグラ土焼人形の類が有つて、其れ等が皆風俗を壊乱するものと認められて遂に三四寸位の古銅の神体までが腰巻の命を蒙るに至つた、此時には景早前の内務の規定は反古同然単に警察眼で視られたとのこと、徃来を裸体で歩く者と画若くは彫塑の人物と同じ様に感ぜられて右の処分を受けたかの如く察せらる、是が裸体画問題の第二期である。(つゞく)

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