美術眼

  • 東京日日新聞
  • 1903(明治36)/09/27
  • 4
  • 展評

白馬会の第八回展覧会が例の如く上野に開かれた入口の飾門は未だ全く落成せざるも其規模の大なることは此の種の展覧会に於て未だ曾て見ざる所である、其スタイルは希臘式とレネエサンスとを組み合せたるものかとも見えて中々に立派だ、場内の体裁も余程整つて居る、出品の数は四百点計で油画水彩画が主なものだ、
裸体画も十二三点出品された、裸体画問題も一時は六ケ敷い問題のやうであったが、世の進歩と共に旧思想は消え失せて自然と此の裸体画問題も目出度く解決されたと見える、脱刀令が出て魂を奪ひ去られたやうな心地のした時代も有つたが、今と為つては馬鹿げて居る、先年の腰巻なども其當時は警察の上から、あんなことをさせなければならない者かと思つて居たが今から見れば随分幼稚な遣方であつた、何しろ我国も日清戦争以来殊に北清事件以来欧州並の国柄と為つたことであるから因循なことは一切お廃止が何より結構だ、吾吾は成る可く総ての標準を高い処に置てどしどし国運の発展を図らねばならぬ、
又白馬会に特別室と云ふのが設けられた、此処には優等の裸体画が僅かに六点だけ陳列されてある此の優等品陳列室の六点と云ふのは、例の黒田氏の春秋と題する二図と外四点であるが、室の構造奥床しく採光の具合も能く注意してあるようだ、但し此の室に限り美術研究者と美術専門家丈に見せる事になって居るのは甚だ不都合だと思うふ、元来白馬会は平等主義だと聞て居るのに、特別室などを設けるなどとはチト解し難い又優等品丈をこう云ふやうに別室に入れたのならばなぜコラン氏の裸体画を其中に加へなかつたのであらう
油画の主な出品は和田氏の清水港の夕暮で富士山に難はあれども海はよく出来て居る岡田氏の二人の組合裸体は手前の婦人はよき出来たが先の女の顔と手前の女の布切れに少々の申分あり安藤氏の三十三年の北京城進入は恐らく朝陽門ならん夜明の工合日本兵の乗込の有様は落付てよく出来て居る只手前の兵士の出来上らんは遺憾千萬なり其他出品者の主な者湯浅、北、白瀧、藤島、長原、中村、等の諸氏で傑作が多い、最も面白いのは水彩画で三宅、中沢の二氏が各数十点出品された、三宅氏の画は一々念入の作で中々見甲斐がある、中沢氏の東海道五十三次のスケツチは画帖にして置き度いやうだ同氏の京美人の図は鴨川の水で絵の具を使つたものか誠に垢ぬけがして居る

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