白馬会漫言

  • せおむ
  • 国民新聞
  • 1903(明治36)/10/11
  • 5
  • 展評

△藤島武二君の諧音は場中屈指の佳作なり。其形状の整へるは言ふまでもなく、調色の穏雅にして明快なる、洵に能く題目と相応して、観者によき感じを与へ、風韻掬すべきものあり。
△北蓮蔵君の吹笛は経営苦心の作と見ゆれども情余りて筆到らざるを憾みとす。添乳の如きも今少しく精練を要するなり。殊に後向ける男もわざとらしき処あり、又意味の模稜なる点あるが如し。然れども予は君がスケツチの風景画の小品に御茶を濁すが如きことをなさず、常にコンポジシヨンに力を盡すを多とするものなり。請ふらくは惰るなからんと。
△三宅克己君の水彩画の精練なる海内他に其儔を見ず、これを海外に出すも亦多く遜色なきを思ふたそがれ、日の出の作の如き何等の佳趣ぞ、何等の風致ぞ、而して其幀幅の小なるに拘らず、頗る濶大の趣に富む。
△芋畑もまた佳なれども前景に少しく難あるを覚ゆ。コロンボ埠頭の夕陽は能く其真趣を伝へて、画中アラゝポンピアンの声ある心地す。
△和田英作君の思郷は前年サロンに出品せられ、シヤンゼリゼー街頭グラン、パレーの裡に飾られたることある画なり。作者も自覚しつゝあることならんが、これを思郷と題しては、其顔面の表情未だ全からざるなり。
△点景の情を助くるものなく、殆ど肖像画に均しき孤立の少女の画に対し、一見人をして懐郷に堪えざる底の意を了せしむ。もとこれ容易の業に非ずと雖も、和田君の技能にしては、これを良くする能はざるの理なし、しかも其表情の充分ならざるは寧ろ怪しむべきなり。
△同君乃父の肖像はよく情趣を発揮せり。■亭工学士の肖像は余の最も愛するの作なり、描法ボチエチエリの風ありて、色調の淡雅清秀大に喜ぶべし。夕凪は最近の作なりと聞く。夕栄えの雲、膏の如き海にうつりたるなど詩趣多く、色彩亦清透なり。もし富士山なくば地中海辺ならずやとも思はれき。
△特別室に掲げられたる岡田三郎助君の花の香は宮大工の彫刻を観るが如き感ありてやゝ■媚なるを厭ふ。且つ輪廓に首肯し難き点ありき。京の雨は同君得意の鮮麗なる色彩には恰好の画題なり。鼓を締めつゝある舞妓もまた同じ。共に瀟洒の風致愛すべし。題なかりしかど樹林を画きし小幅又捨てがたき趣ありき。
△中丸精十郎君の細径、やゝこしらへ過ぎたる嫌はあれど、色調の穏健愛すべき小品なりし。
△湯浅一郎君の画室これ亦特別室中に封ぜられたるものながら、洵に穏かにして無難なる着実なる作なりし。
△黒田清輝君の春秋二幀は流石に雍容迫らざる態あり、余は春の人物を秋のそれに優れりと観たりき。たゞし後景は寒き感を惹起せしむ。景は秋の幅よく調和したるを覚ゆ。
△黒田君をはじめ山本、岡田、湯浅、ヘンリーデユーモン諸君の画は不幸にして警察眼なるものゝ為に其苦心を幕の中に封ぜられぬ。門標の上に在せる美神これを何とか見る。宜しく其車駕を急ぎ下谷に巡らし此厄を救ひ給ふべし。
△跡見、群司、其他の諸君の所作の中、又は中沢弘光君の水彩画などに就き、聊か卑見を陳述すべきもの無きにあらねど、訴懶の性癖はもはや筆を労するに堪えず。遂にこゝに擱くことゝなりぬ。
△若し夫れヴエラスケス、ミレ、クールベー、の古名家、コラン、プラングエの現在大家の所作に至つては一々余が曾遊を憶ひ起さしむるの種子たらずんばあらず。余は稿を改めて、コ氏プ氏に相見し當事の情況を記して其評に代へんと欲す。

前の記事
次の記事
to page top