白馬会を観る(下)

  • 報知新聞
  • 1902(明治35)/10/08
  • 5
  • 展評

△山本森之助氏の屋外暮色、中空に半月を望む、色彩情致与に得易からざる珍作とす他に夕照の一図亦佳作たるが、其屋瓦、蘇鉄などより推さば或は沖縄風景ならんか△白瀧幾之助氏、麦畝白李図は温雅を帯ぶるも、両女学生は俗臭鼻を撲つ△湯浅一郎氏の色彩は総べて鮮明なる丈派手に失するの感あれど中々調子の善き所あり、就中海岸で船を繋ぎ沖合に燈台を見たる如き殆んど間然する所なし、他二三指摘すべきはお預り△宇田川通喩氏、佳人窓に恁れる図は作者が苦心惨憺の跡慥かに見ゆ、而して其面部の険しきは鼻尖と上唇との光り強きに過ぎたると眼球の竣鋭に流れし故ならんか非耶△矢崎千代治氏、観来れば氏も亦場中一角の重鎮、筆尖颯々として声あるものゝ如し、小画数面何れも佳なり、用筆の軽妙にして自在なる頗る人目を惹く、其白芙蓉は着筆慎重なる丈欠点を見る、全葉緑色のベタ塗は第一鼻に付く、願はくば少しく間色を交へ以て観者の煩を一掃したし△中沢広光氏、茶亭に篭舁の休む図、布置整然傅彩亦法あり、唯々怨む中央に立てる一婦人の過大に失したるが為め全局の遠近を乱し終に白玉に微瑕を印せしを△山本芳翠氏伊藤春畝侯フロツク姿の肖像、老来俊介當年の意気沮喪せる最近の風▲躍如たるは可なり、而かも服装のギコチなさ加減、慥かに首筋以下は想像より成りしもの甚だ不感服なり、元来肖像は其顔容の酷似を是主眼とするものゝ如くなるも、既に形体服装の現はるゝに至つては着装の真に迫ること猶顔容のごとくならざるべからず、果して然らざらんか木偶に生頚を継ぎしと一般終に死物に帰すべし、そも芳翠氏の侯に於ける因縁由来浅しとせず、侯の気嫌を損ずるや、「芳翠を呼べッ」との命立所に下る、氏蒼皇罷り出で例の機略を献ずるを常とすなりされば其顔容の髣髴たる豈故なからんや、服装のダラシなきは蓋し氏の横着より来るものか呵々△岡田三郎助氏、裸体其他模写の如きもの数葉皆佳なり、殊に腰打掛し裸体半身像は場中人物画中の尤物とも見受けたり、此を以て之を観る氏も亦慥かに斯会幕裏の重臣たらんか、其用筆傅色相並んで温厚なるは特色とすべく、唯々動もすれば何となく寂寞を感ぜしむるは何が為めか、是れ氏たるものゝ最も研究を要する所△中村勝治郎氏の大根洗ひ、一寸面白し、更に一層明快なるを得たならば嘸と思はるゝなり△藤島武二氏、古代婦人の琴を懐いて立てる状、是恐らく寧楽朝時代によりしなるべく宛然當時代の木偶に接するの感あり其思ひ付き妙なるべくも評には窮せざるを得ず、而して其背後を金箔塗にせしは是果して本気の沙汰か、ナニ招牌の標本なりと謂はゞソレ迄なり、黒田氏曾て智感情三裸体画の背後を金箔塗にして仏国迄持出し余り香しき消息を聞かざりしが遺憾なりき、然るに藤島氏は其系統の上に忠なる故にや今回平然之を踏襲されし勇気の程、世或は殊勝とするもあらんか△黒田清輝氏、これぞと申すものなく、皆短時間の写生図は図なれど流石に津々として掬すべく又混々として盡きざるものあらん、百合花の咲き乱れたる海岸の叢など小品の作として誠に上乗なるもの、唯々自他共に大作なく場中何となく淋さを増したるを恨むぞかし△終りに尚紹介すべきはラフアエル、コラン氏の作なり、是言ふ迄もなき黒田氏の仰いで師とする人、固より大作とは謂はざるも揮漉法の整然たる斯道に篤き人々の好参考とすべく、又米人サルジヤン氏のチヨーク画亦巧妙と謂ふべし
前号三宅克己氏評注光力は尖刀の誤

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