元来今までの世の道義の教へが、悪徳のことに接するに當りて、人をして克己制欲といふことを以てこれに応ぜ しめて、以てそれに指を染めざらしめやうとする習はしは、下根劣機に対する仏道の方便教が、堕地獄の恐怖心を以てして、無智の民を悪道に入らざらしめむとするよりも、更に一層拙劣不及の方法ではな いか。地獄といふ変てこなものを仮設して、一も二もなくその実在を信ぜしめて恐れさせるのと、克己制欲といふ妙なものを立てゝ、何は構はずにまづそれを無上の美徳と取り極めて教へ込んで、人をして自 慢さうにそれを行はしめるのとは、その立教の根本が何れも既に薄弱極まるものであつて、少しく向上の智慧 のあるものが、その教への根本になつて居るところの、地獄の実在を疑ひ出し、克己制欲の何故に美徳なる やあらずやを疑ひ始めたならば、地獄は恐ろしいから悪い事をすな、克己制欲は善い事だから行ふて悪徳の境に入るなと、百曼荼羅教 へたからとて、何の効も無くなる。
人間の本来の擬度準志といふものは、一口に言ふ て見れば最も軽少なる作業を以て、最も高大なる生活を営もうといふのである。また最も微細 なる抑損を以て、最も広大なる不利を免れやうといふのである。人が善業を行い悪業を作 し乃至非善非悪の諸業を営むことよりして、一挙手一投足乃至一言半句の言動云為に至るまで、造次頗沛ことごとくこの考へから割り出 されて来ないものは無い。道義の教もその大本はまたこれに過ぎぬものである。
それだからして、人類といふ動物は、道義も 糸瓜も少しも教へないで置いても、器世界及人間界の事物萬法の変化推移して行く因果 の條路を知る智慧が明かになりさへすれば、己の生活を損ね不利を招くやうな愚なことは、やれといふてもやる気づかひは無い 筈のものである。ところが、この萬法の因果の條路を観る智慧が明かでないところの幼者とか無智の民とかいふものは、 可愛さうなことには、前因後果を推し考へて、某の作業の或は為すべきか或は行ふべからざるかを揀遅す ることが出来ないからして、時々間違へて、己の生活を損ね不利を招くことをやるのである。是等の 人をしてそんな愚なことをやらすまいとするには、則ち萬法の因果を明にする智見を開かしめるに在るのみで、その外に道義などゝい ふものは少しも入用がない。
然しながら、萬法因果のありさまを知悉するといふことは、一寸やそつとではむづかし いのみならず、器根の低いものには、到底充分にはやりきれないから、こゝに於いてか止むことを得ず、當座凌ぎの方便に、古来の列聖群賢が或は宗教或は倫理に道義といふことを唱へ出して、己が作業の前因後果の分からない昧者ども に、順奉するに足りるやうな法則なり手本なりを作り投けて、その言動の其人に不利なることを為さゞら しめやうとしたのである。その心切はくれぐれも感謝せねばならぬが、その立てられたる道義の教へといふものは、どこまでも昧者の 智慧の不具を備ふところの一方便に過ぎぬものであつて、因果の智慧の明朗なる上根上智の人に向ひては、誠に一つの蛇足であるといふことは、決して免れない。
人文の開明に伴ひて、人の因果を了する智慧は、だんだ ん明朗になるし、またその明朗なる人の数が昧者に比してだんだん多くなる。そこで、宗教や倫理などの道義上の教へ は、人文の開明に従ひて、そのお陰に頼らねばならぬ人の数も減り、またその必要の度も薄ら いで来ることは免れない。
そこで、開明の世は、道義教から見ると所謂澆季に見えるけれども、その実は、萬法の因果を明知せる人間が 殖えて来た為めに、道義の教へなどゝいふやうな因果を説明せざる一筋縄では役に立たず、そんなものは知らなくて も、現在若くは未来に於いて己が生活を損するやうな愚なことをする人が少くなつたのである。これが即ち今の 老子にでも言はせれば、大道興りて仁義なしといふやうなものであらう。今の学校教育に用ゐて居るところの理科、数学、地理、歴史、言語、心理、生理、哲学 などの諸科の学問は、即ちみなこれ萬法の因果を説明し知了せしめる所以のものである。