掌中記(七)

  • 与謝野鉄幹
  • 東京朝日新聞
  • 1901(明治34)/10/25
  • 7
  • 展評

○白馬会
さらバ我が美くしき子のよわき子を掟と
あらバ永久に打ち給へ
此年もまた十月より十一月に渉りて、白馬会の展覧会を上野公園に観るこ とを得たり。方に是れ黄花紅葉の気節、秋雨新たに霽れたる日、軽暖人 に適して、男ハ竹杖木履、女ハ紫傘錦靴、出でゝ都の市 を往くに、快きこと陽春三月の如し、諸君千百の好画屋に満つるも、 家人を具して門を出づるを躊躇する勿れ。自然の美と芸術の美 と、二つの者併せて同時に諸君を慰め諸君を教ふるハ、年に一 たび秋の上野公園に有り。今日の絵画美術に就て、最も高 き趣味を発揮し、最も新らしき意匠を研究し、最も進歩したる運筆 を伝ふる者を求めバ、白馬会諸氏の作物ハ優に我が国の美 術界に独歩すと謂ふべし、彼の陳套なる日本画を根拠とし漫りに洋 画めきたる様式を補綴して、鵺の如き悪画を作り、楊然二十世紀の新画なりと称して、無学なる一時の俗尚を惹むとする美術院派の 如きハ、固より比して語るに足ず。諸君皆泰西の書を読んで、文芸美術の鑑賞常の人に超絶す白馬会の名が如何に日本の美術史 に印することの大なる可き乎ハ、諸君の夙に予想し期待せらるゝ所 ならむ。是少数にして無勢力なるも、学問あり見識あり今の文芸家文芸鑑賞家 の知る所、而て学識なく趣味なきも、多数にして勢力 ある今の官人と民衆とハ之を解せず。如何に見ずや、美術院派の展覧会に塵集し到る者にハ、顕官あり、華族あり、豪商紳士あり、代議士あり、高僧あり、巨農あり。百幅の悪画、一幅数百金を価するも、能く立所に購ひ去らる。之に反して白馬会に来 る者ハ寥々として稀、纔かに少数の詩人、学者、美術家、学生等 の出入するを見るのみ。而も渠等ハ年毎に諸氏の苦心愈々著しく、技巧愈々進める此新美術の前に立ちて、恍惚として垂涎し、踵を廻すを忘に至るも、皆空嚢無銭の人、一葉の小画 も猶購うて画家に報ゆる能はず。今の国人の美術保護と謂ふ者、何ぞ彼に厚くして此に薄きの甚しきや。然れども文芸趣味の劣等 なる国民に於てハ、是理由なきに非ず、猶忍ぶべし。此に諸君を して浩歎を発しむべき怪事あり、白馬会今秋の展画中、数幅の裸体画 に向かつて政府が加へたる侮辱を如何にす可きや。政府ハ裸体画を以て猥雑なりとし、命じて半身を掩はしめたり。今の官人何ぞ無学にして肉慾の過敏なるや。芸術の神聖を以て誨淫の感を為 し、之に擬するに風俗壊乱の法條を以てす。是今の美術界を侮辱 する者に非ずして何ぞ。顧ふに明治政府ハ、文芸の上に、屡々同一の暴状を加へて耻ぢざる政府也。恰も昨秋の此頃、政府 ハ我が主幹する一雑誌の発売を禁じたりき。理由とする所を聞け バ、仏国名人の手に成れる二葉の裸体画を挿みたるに因りし也。我即ち一文を草して、其暴状を時の内務大臣博士末松氏に詰り しも、氏ハ黙して答へざりき。今回の暴状また昨秋の事と異らず、諸君 、我等ハ猶之をしも忍ばざる可からざる乎。昨我ハ美術学校長正木直彦氏に諮つて云へり、是正に貴下が職責より見るも、政府と 争ふ可き問題也。且つ之に由つて官民の美術眼を啓発刷新す可き好機会也、貴下真に美術界の発達を慮つて、政府の暴状に憤らバ、一校長の官の如きハ何の値ぞ速かに 之を賭して政府に抗せよと。諸君、我の正木氏に与へたる忠告に異 論ありや。此の如きハ白馬会の画家を以て教授とせる美術学校の校長として、至當の挙措に非ざるか。然れども今の文部省ハ上田、沢柳の文部省也、勢利に阿諛する者能く仕ふるを得べし。正木校長新 たに職に就て令名あるも、果して輿望に乖かず、政府と争 ふの▲骨有りや否や。嗚呼諸君、我美くしく気高き芸術の天使ハ、長へに如此く小ひさく弱く、迫害の鞭に堪へざる薄幸の児 なる可き歟。

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