白馬会に於ける黒田氏の裸体画の評(二)

  • 時事新報
  • 1901(明治34)/11/13
  • 4

腰巻一筋の報酬 ちよつとこの画の由来を述べて置かう。黒田氏は巴里滞在中、如何なる興感に 駆られて、この製作を思立つたのであらうか。いや、是れを言つてはならぬ。自分は、曩に斯ういふ疑問の 観画上、少なからざる累となることを認めて、かまへて観者の念頭に置くべきことではないと、 懇に忠告して置きながら、今忽ち由来の二字に着して、世俗並みに徒労の詮議をするの は、自家撞着の甚だしいものである。如上の愚問は、全く廃めとして、さて黒田氏が自分に語つた 言葉に拠れば、この画は総て三人のモデルを遣つてをる。その三人の善い所を選抜いて、組合 せて、この画は出来上つたのである。体躯と、顔と、それから髪の毛。モデルを雇つた日数は、十一週間余に渉つてをるといふのであるから、この点からみても、ちよつと経営苦心の作であることが解らう。勿 論この画を古今著名の芸術家が、自家畢生の精力を傾注すべき境涯に立つて、五七年、 乃至は十数年間、某の製作にひたもの力めたとある、さる稀世の大作に比較の出来ないことは、素よ り知れ切つてをる。併し是れは大方国情にも関係するのであつて、日本の今の社会では、如 何なる非凡の天才といへども、まづ斯る境涯に出遇ふことさへが、殆ど望まれない。現にこの画面でも、普通の家の装飾品としては、既に大に過ぎて、用途がないのである。されば作者も、初め 木炭の一画を下す前に當つて、既に自家の労力に相當なる報酬の望まれないことを覚つ て居つたに違ひない。然かも尚ほ且つ十一週間余の労力と、多少の費用を抛つて、この製作に取掛つたのは、一意芸術に忠なるものとして嘉すべきことではあるまいか。自分の記憶する所では、わが国の洋画家全体 を引括めて、これと同じき労力を一画面に注いだるものは、誠に指を屈する に足らないのである。この労力、この日本画家に稀れなるべき経営苦心。それが公衆の面前に掛けられて、案 外にも腰巻一筋の報酬とは、情けない次第である。縦令この裸体画一面は、洋画 界の人身御供として忍びもしやうか。自分は唯わが芸術の前途を思ふ毎に、心中私かに杞 憂を抱くことを免がれないのである。
二面のパステル画 それからモデルに付いて彼是れいふのは、是れも無類野暮 の骨頂。ヴエーナスの女神でも、マリヤの像でも、画家がその貴げなる、又麗はしげな る形似を得て来る源は、何れも画家其人の頤使に任せて、竪にもなり、横にもなる商売人。見世物小屋の下足番と同じく、その日の月給を貰つてお辞儀をする人間であるのだから、大方その生活の工合も察しられないではない。芸術に於けるモデルは、恰も足場と同じやうな もの、家屋新に成れば、足場は取払つて痕を留めないのである。況むやその用材の如何を問 ふべきものではない。画面に対するものは、夢にもカンバスの裏を見越して、モデルの如何を懸念すべきもの ではないのである。併し自分の思付いた所をいへば、白馬会場中、この裸体画の左右に、二面のパ ステル画が懸けてある。共に西洋婦人の半身画であるが、その左の婦人の肌は、裸体画の肌に酷似し、右の婦人の顔は、同じく裸体画の顔に髣髴としてをる。そこで自分の考へでは、是等 の婦人は、この画のモデルではないか。作者は自家の製作の紀念にもと、写生して置いた のではなからうかと思はれる。尤もこれは黒田氏に聞いた訳でもないから、精しいことは解らない。

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