白馬会に陳列してある黒田氏の裸体画は、実に同氏が、巴里客中に作れるもの。画材の西洋婦人なることを見ても、わが国に於いての製作でないことは、何人にも解るのである。画面は、婦人の室 内に打寛ぎて、体躯を斜めに座し、顔を少しく俯けたる所。バツクには、あらき模様 の帳を垂れ、地には、いかめしき熊の皮が敷かれてあるといふ図。
画題の詮議は徒労　扨て画題は、何ンであるか。作者其人は、主として何処を狙つて、如何なる所を描いたのであるか。由来題目 の詮議に慣れたる邦人の眼には、必ずまづ斯る考へが起るに違ひない。実際に自分に向つ て、かやうの疑問を発したものもある。されど今日の芸術家は、比較的に題目を軽しめて、必ずし も深く意を此処に留めない。否な、無益の題目の為めに、画面に範籬を造つて、観者が自由に興起すべき感情を拘束することを嫌ふ。作者畢生の精力を篭めて、某の製作を思立ち、さて出来上りたる暁には、これを公衆の面前に投げ出して、君等いかにとも感じ、且つ観よといふ洒々落々の襟度が、今日に於ける芸術家通有の 希望らしい。古人の詩句を題し、或は無学者の為めに作れる成語集の中より、むづかしい熟字を藉 り来つて画面を汚す、漢画者流の遣方は、啻に題意と画趣と齟齬して、作物の累となるとき許りでなく、仮令妙に契合して、その間に幾分かの趣味を発揚する 場合といへども、所詮は矢張累となるのを免かれないのである。この故に画家たるものは、手品師めきたる策を構へずに、正真正味有の侭に見せる方が、何れからいつても善 くはないかと思はれる。黒田氏が先年、三面の裸体画を出すに當り、題を比較上圭角のなかるべき 心理学上に求めて、智感情の三字を得たのも、是れが為めではあるまいか。併しそれも多少累となつたことは、當時識者の評言に依つて解つてをるのである。そこで黒田氏は、再びさる徒労をな さず、今度は純潔無垢に、唯裸体画として会場に懸けたのではなからうか。
観者感想の自由　自分が黒田氏の意中をを察すれば、右の通りである。この故に観者のこの画に対する感想は、極めて自由であつ て、少しも拘束される所はない。或はこの画を、某の女神が、何処へか出て行く前と見るも善からう。或は帰 り来つて、暫時憩へる所と見るも善からう。或は例の下足主義で、唯何とはなくいの一番として置く か、それも宜しい。或は東洋流の習慣で、頭から女神などを考へることの出来ない人々 は、唯彼の通りの婦人が、彼アして居る図と見るとするか、それも決して妨げない。この画は、何を 描いたものであるぞ、何々と思へなどと、観者の感想を抑制するが如きは、作者自身も又評家も、必ずしも言ふの権利はないのである。唯この際にも忽諸に附し難いのは、言ふまでもなく、この 画は、美術の約束に従つて、一点醜汚の所を留めないか。若しくは裸体画の重なる目的とし て、人体の完全なる美、又は完全に近き美を発揮して居るか。極めて普通平凡の疑問に 過ぎない。然るに自分の不思議に湛へないのは、この疑問が、美術社会を無事に通つて、少 しの波瀾をも、少しの反響をも生ずることなく、識者の悉く是認してをるにも関はらず、風俗取締 とやらに多少の異論を生じて、早く既に法の繋縛を蒙つて居ることである。今会場に就いて見れば、果して本紙の挿画にありし如く、臍の辺より以下、一面の布が引廻されてあ る。この所置の當否は暫く措いて、是れが為めに観者は人体の一半、即ち又技巧の一半を見て、全 体を窺ひ知ることが出来ない。然かのみならず、芸術の上からいへば、この一半は、やがて全体 と認めて善いのであるから、この画に対するものは、眼光炬の如しと雖も、能く作者の真の技倆を品隲することが出来ないのである。自分は曩にこの画の出陳される前、作者の画室にありて再三凝視したことがあるから、他人に比すれば、割合に自分のふ所を述ぶる便誼 があらうと思ふ。