白馬会展覧会所見(三)

  • 時事新報
  • 1901(明治34)/10/31
  • 11
  • 展評

△北蓮蔵筆『夏座敷』 近頃際立つて腕を上げたのは、この人である。今回も数面の作品、何れも ひとわたり行届いて、屑のないのは、技芸の熟して来たことを、証明するものと見て善い。こ の画は、二人の少女が余念なくたまやを弄び、一人の年長けたる婦人が、微笑を湛へながら、 そを脉めて居るといふ愛すべき、無邪気の意匠。殊に場中でも有数の大作であつて、作者が熱心の程も、明かに認められる。デツサンは先づ正しく、運筆とか、円味とかいふことも、可なりに遣付 けて居る。唯奥の少女の顔付は、余り感心しないが、その代に又前の女の帯や手足 は、余程善いやうに思ふ。若し自分が遠慮なく注文をすれば、光の遠近、即ち光線の映つて居る部分が、何うも遠近に乏しい。そこで自然衣紋などが硬固になつて、能く物質を現は すことが出来ないのは、一ツの瑕瑾であらうと思ふ。夫れに前庭の樹木が、一面にいやに薄汚なく、緑の色のみ勝つて、夏の暑熱の趣に適しない。そこで自然人物が孰れもうす寒く、風邪でも 引きはせぬかと案じられるのは、誠に残念千萬である。序に記して置きたいのは、自分がこの画を見て居るとき、画工 ではなかるべき一婦人が、矢張この画に対していふには、人物の視線が皆吹いて居る玉のみに集つ て、上の方に飛ンで行く、二ツの玉に注意する者のないのは面白くない。さては不自然の感が起 りはすまいかと云つて居るのを聞いたが、自分は心憎きことをいふものかなと、少なからず感心して居るの である。併し北氏は、毎回斯る作をものせられて、己が学ぶ所に篤いのは賞讃すべきことである
△同 氏筆『菓物』 画面の出来工合からいへば是れが同氏の作中の上乗。否な、場内でも先生株の人を除けば、容易に他に押さるべきものではない。くさぐさの菓物を丁寧 に、且つ親切に写生せられたる所、大に味ふべし。シヤボンの破れたる、林檎葡萄や、イチゴの玻璃器に盛られたる、さては酒の瓶の置かれたる。色合や、調子や、真に実物に迫つて居る。静物画としては、論なく場裏の白眉。尚ほこの人の作には、男子の肖像及び二三面のスケツチがあるが、共に佳作 と認められる
△矢崎千代治筆『福沢先生の肖像』 福沢先生が十数年前の肖像とも見るべきか。流石 に何処とはなく、先生の風▲が現はれて居る。自分はこの画に対して、そぞろに往時を追懐して、瞑想 一番、画家ならずとも、脳裏にありありと、先生の音容を描き出すことを禁じ得られない。若し作者の技 芸に付いていへば、写真に拠つて描きたるものとして、先づ上作と認めて善からう。細かき部 分にも注意が届き、技倆も中々に熟して居る。併しこの肖像と、自分が脳裏に描 き出せる先生とを比較すれば、この肖像は、顔の色に少しく黄や赤味が、勝過ぎて居るやうに思ふ。ど ちらかといへば、先生の色は白い方で、薄赤いほんのりとした色が欲しいのである。眼はまるで可 けない。とはいへ、単に写真に拠つたものに、斯る評言の酷なることは申すまでもない
△同氏筆『肖像 』 他の肖像三枚の中では、右の下にある女の像が、最も善い。総ての点が整うて居る。この外数 面の景色画、なにか気取つたのであらうか。前世紀のコロム版を見る如く、自分には一向に旨味が解 らない

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