白馬会一見記(承前)

  • 罵倒先生
  • 日本
  • 1900(明治33)/10/29
  • 1
  • 展評

山本森之助氏の作品は次ぎに列へられぬ、我れ聞く、氏は同会に於ける花カタにして声望今や旭の昇るが如きものありと、氏の力量果して之れに背かざるや否 や、我れは只今回の出品に就て真に氏の技倆を判ずるに足るべき苦心の作一枚だに存せざるを恨とす、思ふに氏は更に更に奥の手あるものなるべし、然り必らず 奥の手あらんことを願ふなり、然れども仮令如何なる奥の手ありとするも、我をして目撃せしめざる奥の手は即ち我をして兎角の評語を下さしむるの他なし、是 に於て我れは只目のあたりに示されたる彼が絵画に向つて之れを云はんのみ、請ふ遠慮なく毒舌を揮はしめよ、彼が塗付したる絵具は宛ながら泥などをコネ付け たらんが如く、いやが上にも執念く固まりたり、其色彩の黄色なるは昨年のに比して一歩を進め得たるありと雖ども其の真率にして能く物体の性質を発揮するて ふ点に至れば、彼は確かに二歩も三歩も退歩せり、是れ得失相償はざるものにあらずや。
湯浅一郎氏作の掃除女は特に我等が注目を惹けるものなりき、蓋し注 目をひくには二種の別あり、巧にしてひく有り拙にしてひく有り不幸にして彼が作品の我をひけるは前者にあらずして後者なりき、如何に日本国の婦人其貌の醜 なるあればとて斯の如きの醜婦は蓋し多く類を見ざる所なるべし、然り我をして若し婦人たらしめば我れは當に我同性の為め、之れを目するに侮辱を以てし彼を 相手取りて決闘を試みんのみ、察するに彼等は綺麗に描くを浮世画なりと誤解し、終に醜婦斯の如きものを作して高尚なり神聖なりなどゝ得意がるものか、これ トホウも無き誤解に非らずして何ぞ、更に彼が作品にして場中有数の大画なる海岸の一図は其の色彩と云ひ其図柄と云ひ拙の又拙、我をして終に何の目的ありて 斯かる作を試ましめしかを疑はしめたり其船頭に踞して煙草を吹かしつゝある舟夫は果して人間の正体を備へたりといふか我が眼には只模糊としてさながら怪物 を見るの感ありき、其傍に佇立せる二人の婦女児はアリヤ何ぞ、姉とも覚ぼしきは些も活動すべき筋肉を備へず一見竹細工の人の如く、妹と覚しきものゝ獅々鼻 は我をして思はず噴飯せしめざるを得ざりしよ。(未完)

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