白馬会の第五回展覧会 其一

  • 無名子
  • 東京日日新聞
  • 1900(明治33)/10/16
  • 1
  • 展評

洋画の方は日本画ほど理屈を陳べることが少い、さるは、日本画はなほ進化の中途、過渡の有様に在る ので、主義方針や描き方などの上でも得失の論ずべきことがなかなか多いけれども、洋画に至つては理想 も写実も印象も自然も、やるだけやつて見た上げ句だし、描き方の工夫も最早大概の研究は済んで居るから、理 屈は今更言ふだけが野暮かも知れぬ。白馬会が如何に印象派の極端に走らうとも、まさか美術院の朦朧日本画 のやうにもなるまいし、高が素人連に灰神楽だなどゝ言はれる位のものであるし、明治会派が如何に旧派 と嘲られ盛に脂色を使ひまはしたとても、まさか一般の日本画ほど不自然な色彩にもなりはすまい と思へば、まづまづ世話の焼けない方だ。たゞ何にせよ始めてから百年にも足らぬ修行だから無理もないが、仏蘭西へ行 つて耻かくほど幼穉なのが心外で堪らぬ。何には構はず腕を磨くが専一だ。生中、今の中から新派だの 旧派だの印象派だのといふには及ばぬ。空気の有るなしは流儀に依るものでなく、写生の腕の上手下手に依るのだし、 印象といふものとても客観の色や形を誠実に写して得るより外に道がないのだから、写生を基とする洋画の何の派だとで、 腕さへ善ければ帰する所の違ひやうもあるまい。色の微細の変化は自然を観る人の目ごとに多少の異同は免れない筈のものだから、何もどういふ色が必しも悪いとも言へまい。そんな事よりも大事の大事の技倆とい ふものが肝心だ今の日本の油絵を見ると、第一まづ人物などのみんな何処か「モデル」臭味の脱けない所のないものはありはしない。これは言ふ までもなく、まだモデルを使ひこなす腕の足らずに、多少モデルに縛られる気味のあるからだ。今度の会にも大分人物の大作は あるが虚心平気になつて熟々見ると、どうも日本画の鳥などのやうな活脱自在な境に入つて居らぬ、ぎ こつちない所が見える。せめて是だけなど早く老熟させたいものではないか。感心なことに、白馬会の連中は描く描く盛に描く、一人で 二十枚も出す人がある位で、一年間の作り溜めとは云へ、展覧会に出品する一人の画の数の多いのには、無声会といへども及ばない ほどだから、此熱心なる練習を今十年も積んだなら、めつきり見上げる成績を示すやうにもなり、ぎごつちなくない人物も出来 るであらう。此会は黒田の采配で是迄は盛にやつて来たが、今年は親玉が留守だからどうだ かなどゝ云ふものもある様子だつたが、まさかさうでもなく、矢張実際みんな熱心にやつたればこそ三百余点の列品も揃うたのだ。明治会 派の方から洋画青年会が起るといふ噂の実際になりでもしない以上は、日本の洋画の光明は、此会の独擅に帰するであらう。白 馬会もますます奮ひ、青年会派も眠つて居らずに、頻りに製作をやるが宜しい。白馬会とても頭株の作はいざ知らず、若手の会 員や準会員の作が一般に始めよりも進んで屑のなくなつたのも、四回五回と展覧会の出し物に苦んだ結果に外ないのだ、一般の程度が進まない中には、嶄然頭角を顕はす作者も出来つこなし、描き手の殖える作の多くなるが、まづ以て望ま しい事である。此点に於いて白馬会の効や少からずといふべしだ。

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