白馬会画評(四)

  • 谷津澪太、長野脱天
  • 時事新報
  • 1898(明治31)/10/22
  • 9
  • 展評

△黒田清輝氏の筆。黒田氏が今回出品せられた画数は大中小を合せて随分数多くある、それに天景 、写生、肖像、人物画抔とその種類もなかなか富むで居るが、評者は先づ出ぬまへから世間 に取沙汰のあつた小督物語から盲評を試みやう
実にこの図は今春の展画場に 一度未成画を以て出品せられたもので、今回の出陳諸作品中最も大なるものと云 ふ許りでなく、恥しくも曾て邦人にしてかゝる大画に指を染めたものは黒田氏を措いて他に決 して例のないことだそれ故評者もそのつもりで一入意を用ひておもむろに熟覧した
いかにも面積 に於ては最も大きく、小画を以て全館をかざつて居るだけに一際人意を牽くに足り る、画題の由来に関しては既にその一部分を耳にし、且つは當時の品評にも上つたことがあ るから遡つて画面の配置などに付て卑見を述べむも管なれば之を省略し、果してこの 画が余等の熱望せし如く完成せられたるや否や、又色彩を施したることに依つて十分真価を現 はせしや否や、この点に付てのみ寸評を試みる考へだ、然るに悲しい哉、今これを再見するに及むで左の歎声を発せしむるの止むを得ざるに至らしめた
親切なる人、この画の思付から出来上 るまでの作者の来歴はさき頃の時事新報に委しく載せてあつたから御覧なさい、作者がこの画をこしらへるに付て何の位考案を費したか、又実際画を描く人が大物を造るに當つて 何ういふ心配をしなければ成らぬか、約言すれば今日の画家の地位といふものも一寸分り ますからね
先づ第一は全体が美術的の好佳品として受取り悪いことだ、その描法があまりに濃厚に失せし為めか、着色完成の今日から見るとその色彩に混濁を 来して居て外見がいかにも悪く、不快の感覚を起さしむる結果を生じた、これは大方施色 と画線との間に不用意のあつた証に違ひない、評者が黒田氏に望む所のものは斯く混濁せる画面を放擲し去つて一際多量の顔料を用ひ、豊富に潤沢に成画 せられむことであつた、よしその色調は今用ひたる程度に置くにせよ、一例を近く場内にとりてその師コ ラン氏の如く低調のうちにも光線と陰影とを自然によく分画し、予め後に混濁 を生ぜざるやう相當の注意を加へて施色したならば斯る失敗は来さなかつたらうと思ふ、兎も角も用意の慎重を欠いたやうに見えるのは残念である
また光線の点に於ても画中の人物の顔面、手足、衣服等に表はれし度合より推せば大地の色に今少し何とか変化を来さ なければ成らぬと思ふ、夫れから大体がグレイツシなるより色調の釣合を考へて見ると、画中の歌妓の蹴出の色が ちと温かに過ぎては居らぬか、この侭では眼に触れ過ぎる厭味が生ずる、畢竟するに頭上の受光と蹴出の受光とその度合が同一に出でたる為めの結果だと見える、是れも亦今少しピンク イツシに描いたらば程よき調和を得たらうと思ふ
如上の病患は左まで仔細に見ざる余等 も直に感ずるところで、尚ほ細閲するときは幾多の飽足らぬ節がある、例へば四囲の光景に 於ても左方の森は甚だ近きに過ぎて自然を失し、前面の樹の切株の如き更に這物の硬度を描いてない、又実物より写生したにもせよ、画面の右方の門構は絵画的趣致あるやいかに、舞妓の鼻柱より前髪に至るその釣合を失せざるか、蹲り居る仲居の眼窩に接近せるあたり陰影の高度に失せる為め泰西人に髣髴たる面相 を呈せざるか、背面を見せたる男の脛長くして色混濁に失せざるか、草篭負ひたる女の童の距離に応ぜず短身枯痩に過ぐるなきか、斯る病所を算へ上げれば尚ほ幾多の紙片を 費すことが出来るが、左りとは徒に黒田氏を毒するの奇言を衒ふやうで評する余等も快心の業ではない、只最後に言つて置きたいのは兎も角もこの画は余等の予想に副はざる作であつたといふ ことだ、黒田氏の真の伎倆はこの画の外に現はれて居るものが多い
秋野曰く、この評言には感服しない、尤 も画面の色の調子が濁つて居るといふのは適評でこれは黒田氏も何とか仕様があつたらうにこの侭に 仕上げたのは詰り失策であつたと云つても善い、人物は解体学的の下調が届いて居て 評中に見えるやうな苦情は見出されない、仲居の顔が洋人めくと云ふのも舞妓の額が不自然だと云ふのも一向服しがたい説だ、それから評者は用筆の一点張で、その余のこと には評し及ばなかつたが、この画面に現はれたる六人の人物はおのおの個々の感情を無難に顕現 して居るやうに思ふ、これは無論結構に関することだが評中に漏れて居るから一言補ふて置 く、おなじ人の旧作三面の裸体画は識者が初めて如法の描方もて造つたものだと云つたが、この 画も風俗画として前に匹儔なきものと云つても善からう

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