白馬会画評(一)

  • 谷津澪太、長野脱天
  • 時事新報
  • 1898(明治31)/10/16
  • 5
  • 展評

白馬会は予記の如く開かれた、評者両人も相拉して参観したから今その所見の一二を陳述して見やう、さて場内に入るや否や入口間近く懸けられたのは
△広瀬勝平氏の筆。数面の絵画のうちで海岸の図は岩頭に佇立せる人物から海面波涛の工合までまことに巧者に仕放けられた、だが惜しいのは岩のかきこなしが何うも受取れぬ、中にも一際目立つて可笑し いのは中央に勃乎と突立つて居る岩のかきざまだ、さもこそ蓬莱の亀の甲に負れさうな風で、形状が故意とらしい上に肌が如輪目仕上げて而も軟かい、総して左の方の出来に反 して右の方はぐツと落ちる、是れならば中央から截取つて左の方だけを見せて貰ひたかつたのが評者の慾だ
桜花径路は氏の作中の粋なるものだが、何か眼点もあらばと評者を惜しがらしめた、写生画にはなかなか佳作が多い、次は
△和田英作氏の筆。和田氏は前会に渡頭の夕暮を描いた人だが、今度 は富士又はその最寄の写生画沢山でお茶を濁されたのは観者を悄気させるつも りか、定めしと想つたのは空頼めで恨めしくもあり物足らぬ心地もする、小画の中では織女は佳 作だ、畢竟規模の小さい丈けあらが見えないのだろう
美人文を読む図。は第一に画法の要目たる光線と陰との分画がない、到底■の病患を免かれることは出ぬ、近く例をあげれば同じ 会場に懸けたラフエル、コラン氏の筆を見ても知れる、光線の淡きものといへども淡きが うちに分画が自然に現はれて明確に分たれて居て底に強味がある、然るに此画は向つて右方の壁に光線を充分受けてはあるが、かゝる種の画としては其人物の脊裏を透しての光線が有つたらば人物も浮立ちて見えもし又一際画面も引立つたであらうに可惜団扇二本を便りに心 細くも画家の重宝を利かしたところなどは拙手段と云はなければならない
富士の図はズット見劣る、和田氏 の筆とは受取れぬほどだ、概して云へば小写生画の方が見勝るやうだ
△湯浅一郎氏の筆。松林の径路を描 いたものは題目が寂莫荒涼で詩趣が充分にある、もの寂びたる四顧の風物は明治美術 会の浅井忠氏が筆秋の野沢の画面を想起させる、只惜しいのは筆の運びが不活発 で筆路の放逸を欠くのみか、着色の遠近にも注意が足りないことだ、しかし氏の景色画中では粋なるものだ
漁家の図は図柄がなかなか善い、全体の釣合も悪くはないが人物は形体を失して居て見苦しい、爐辺に差出した彼の手のさまは何だらう、斯うけなしても画だから善いが、もし 怒つて腕でも捲られたら大変だ、腕が竹筒形をして居るに違ひないからね、をれに額に 角の生えてるのが頗る合点が行かぬ、小写生画の方には佳作も多い、又屑も多い、佳作と 見えるのは曲り角の下の方に懸けられた野末の森海辺の両児等三四枚

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