通俗美術問答(三)

  • 毒皷堂主人
  • 読売新聞
  • 1896(明治29)/11/16
  • 4

問。白馬会展覧会、黒田清輝氏出品、南側左端最上に掲 げたる、赤きまるまると描きたる如き図ハ、何と申す描きかたに候や。自然にこれあり候も のとも見え申さず。御教示を乞ふ。
愚問生投
答。御目に障り候赤きまるまるハ。樹木の間 より、太陽の光線の地上に投じたるところなりと承り申し候。主人が 目にも愚問生が目にも、一寸目新し過ぎ候て、自然に有之候ものと見え 申さず候へども、その道に慣れたる人の目にハ、あのやうに描き候ても、しか自然に有之候やうに 相見え申し候由に御座候。尤も新派にてハ、色彩を混ぜずして画面に塗 り候ても、そが観者の目に映ずるときハ、眼底に入りて相混じ、別々に並 べて塗り候別々の色にハ見えずして、その間色に見え候ことを喜び候こと有之、そハよし画面にハ別々に塗り候ても、果たして眼底に入りて、混じて間色を呈し候へバ、宜しきことにハ御座候べけれど、混じて塗り候へバ何事もなきを、わざとしか皮肉のことをよがり 候ハ、つまるところ自慢の手法おちに外なくと存じ候。赤きまるまるも、矢張りその種の法 に相違無之、あのやうにかき候ても、五六歩去りて見候へバ樹間の日光の地に投 じたると見え申し候とのことに御座候。然しながら、愚問生を始め、主人等にも左様 に相見え申さず、講釈をきゝて始めてその積りになりて、よくよく眺め候ても、矢張見え申さず候ハ、我等が眼底の視神経ハ、余り鋭敏に過ぎ候て、おぼろげにまじりて見 ゆべきものゝ、明かに分かりて見え申ものにて、さなきだに油画殊に新派のを見申ときハ、我 が眼のかすめるにハあらずやと、手して揩りたき心地のせられ申を思へバ、愚問生等が目 ハ、油絵を見るべき眼にハ可無之と、新派の人に叱られ申すべく候へバ、構 へて左様のこと申されざるが可然哉とも存じ候。さりながら白楽天が詩を作りて 下女に聞かせ候ひしことを思へバ、見慣れぬながらの人の目にも、しか見え難きものを作りて、その皮肉の手法を好み候ハ、如何なるわけに有之べく候や。そこらハなほ主人よ りゑらき学者に御尋ね可然と存じ候。
問。フレスコ画と申すは、何にて描くものに候 や。
問者 同前
答。これハいとしかつめらしき御問に御座候。主人あまり精く存じ候はねど、これもそ の道の人に、内証にて相たづね候て、漸く申上候。フレスコ画ハ古くより有之 候ものにて、昔ハ壁画を作り候に、画がき候部分だけづゝ、壁を塗り候て、乾かぬ中にその生壁に描き候ものなりしが、後にハ全体塗り上げたる壁に、画が き候部分だけづゝ、湿りを施して作り候やうに相成り候。顔料も一種のものにて、油絵 の具にも御座なく古くハミケランジエロ、ラフエエル等も盛に作りたるものにて、今 も行はるゝものに御座候。少しく左官どのに似たるわざに御座候へども、我が国にも大 和の法隆寺、山城の鳳凰堂、その他古寺の壁上に往々これあ り、なかなか面白きものに御座候。これ即ち日本のフレスコ画とも申すべきや。愚問生もち と御試みなされ候てハ如何に御座候や。
注意
尚どなたにても絵画彫刻などに付て の問端有之候はゞ日就社にて毒皷堂主人あてに手紙を以て御問ひ越 し被可成候。

前の記事
次の記事
to page top