秋の上野(其二)

  • 時事新報
  • 1896(明治29)/10/25
  • 2
  • 展評

白馬会展覧場
新派は後れて出でたりと雖も、既に数十年を経過したり、その間前人の遺型に依らず、力めて一新画法を出ださんとしたるの結果は、能く効を奏して、能く空気を写し、又能く日光を描くを得たり、是れ新派に属する人の、或はアンプレツシヨニストの称を嫌ひて、自らプレ子リストと称するものある所以なり、
新派は自得の画法に依りて、もろもろの新しき製作を為しぬ、雨、霧、靄、晨、夕等の画材の如き、前人の独立しては描きたること稀れなるものを、巧に物したるが如きも其一なり、新派のこれを為すや、誠に容易にして数行の飛禽と茅屋野径の点景を須ひず、只纔に一塊の土壌と一本の枯木あれば、則ち直に腕を奮つて趣味津々たる好画面を造り成せり、
近く例を挙ぐれば、黒田清輝氏が甞つて明治美術会に出だしたる暁、晩等の数品の如きは、故道の繋縛を脱却したる新派の特性なりと云ふを得べし、橋本雅邦氏等の率ふる遂初会が、これに似通ひたる画材を国画の上に施したるは、強ち新派の画法に直接の感応ありしにあらざるべきも、恐らくは二者相交通する所ありしならん、
山水の画材は、国画にありて殆どその能を盡せり、今新派は国画の画材を以て画材となし、これを仕上げるに写空描光の法を用ひ、極めて鮮明にして極めて快活なる画面を造れり、故に此点に付いては国画の上に、更に一段の風姿を添へたるものと云ふべし、然れども新派は深く画材の結構に苦むものにあらず、土壌、石塊、一條の野径、一堆の稲叢等も詳察精写し、或は満幅、空濶なる郊野を写し出だすことあり、當面に人の網膜を打来るものを采りて、直に再現せしむるの能に至ては、新派は能く自然を描ものと云はざるを得ず、
かゝるが故に新派の製作を評せんとするもの、或は美麗なる額縁を遠眼鏡として、苟且にも映じ来るものをば悉く描写すと云へり、言ふ意は新派が画材を采るにあたり、結構調和を忽にして動もすれば乱採に陥るを斥せんとなり、こは真に善く今の画を評するものゝ言を代表せり、今の画を評するものは、皆画材の複雑ならんを望み、先づこれを造る画家の結構如何を見んと欲するものなれはなり、
今の画を評するものは、あまり画題の選択に労せり、画家の架上に臨むや、画以外の或る意味を附せんことを望めり、外山正一、杉浦重剛氏等の評家皆然らざるは無し、然れども画は必ずしも小説的技巧を能とせず、自然の一截片を拾ひ取りてそが侭これを写すも、争でか伝神の妙を現はさでやは、画家の歴史画宗教画を造るは、固より可なり、唯これを造るものは胸裏燃ゆるが如き想火なかるべからず、些の信仰心なき洋画家が天女神将を描きて、啻に古作家の後塵を逐ふこと能はざるのみならず、風姿態度の吾家の炊婦走僕に類するが如きは、決して策の得たるものにあらず、われは唾して再び造らざれと言はんのみ、今の画題を喋々する評家は、その嘗つて謬らざるもの殆ど稀れなり、
新派の画風を揚げて洋画の能事畢れりと為すべからざるは、此処に断はるまでも莫からん、特に白馬会の陳列品の如き、多くは短日月の間に成りたる軽々の作にして、会の伎倆すら満足には表はし居らず、いはんや新派の画風をや、然れども新派の賞揚すべき特性を具へたるは、是れ亦断はるまでも莫し、白馬会は新来の客として、洋画界中最も気鋭なり、最も開展暢達の見込あり、願くは明治美術界の如く、めちやめちやにして不熱心ならざれ、

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