秋の上野(其一)

  • 時事新報
  • 1896(明治29)/10/23
  • 3
  • 展評

春は自然の美に人を酔はしめ、秋は技芸の美に人を娯ましむ、上野が丘は実に都人▲▲の地なりけり、今茲秋深くして木々の梢はうらがれ、落つる葉影に弥生の景色つゆ留めざれども、軽寒軽暖方に行楽に適す、往いて人工の美を観ずや
所謂アンプレツシヨニストの白馬会は明治美術会に抗して立ち、日本美術協会は青年にして進取の気に富める絵画協会を圧して開きぬ、流中流を異にし門下門を生ずる間に、時勢に応ずる通有の傾向はありながら、各特性を以て他を凌がんとす、これ今茲初めて見るの奇観なり、
日一日上野が丘に暮して、秋の日脚の最と短く、月上りて露華清き辺、試みに眼を瞑りて前に見る所のものを想ふ、敢て批して又評せんとするにあらず、唯知らざる人に告ぐる而巳、
白馬会展覧場
白馬会は世に所謂洋画新派に属する人の組織に成りたり、白馬会の展覧場を開きたるは這回を初めとす、されば上野の技芸を観んとするもの、先づこの会よりすべし、
白馬会の初めて成りしは既に数月の前にありき、當時画風の新古を問はず、普く名手を網羅し、又若干の彫刻家と、平生好んで文芸を談ずるものとを交へたれば、旨義漠然として何の会なるやを知る能はざりき、いまや則ち眉目新に成り旨義漸く顕はる、その然る所以をば展覧場に於て見るべし、
白馬会の画風を世の人称して新派とも云ひ、又紫派とも云ふ、新派と云へるは、この画風の欧洲に於ても此国に於ても極めて後に出でたるが故なるべく、紫派と云へるは、この派の造画法に紫を土台の色と為すが故にや、或は紫の朱を奪ふと云へるに因みて、この派を侮蔑する人の悪口にや、鴎外漁史は別に考へて南派と云へる目を附しぬと聞く、
白馬会を率ふるものゝ黒田清輝、久米桂一郎の二氏なる事云はでものことなり、実に新派の画風を持ち来したるはこの二氏の力なりき、二氏に従つて学びたるものに和田英作、岡田三郎助の二氏あり倶に久しく故の天真道場にありて業を励みたるもの、新派将来有望の雛駒と為す
黒田久米二氏の仏国より還るや、未だ数年を出でず、新派の画風は已に疾く脚を洋画界に立てゝ頗る長足の進歩を為したり、展覧場の製作盡く見るべきにあらず盡く賞すべきにあらずと雖も、歳月の割合には満足なる好製作を得たりと云ふべし、否な偏に展覧場の製作のみに固るにあらず、その快活なる気骨の存ずるとその造画法の漸く洋画界に浸潤するとは、則ち大に注目すべきものならん、
新派の画風は此国に於て新に見はれたるのみならず、欧洲に於ても亦甚だ後れたりき、その唱首を云ふもの俗には仏のピユヴィー ド シヤヴアンを押せり、然れどもシヤヴアンの前既にミレー、コローの輩ありてこの派の画風を唱へたれば、真の唱首は是等の輩に帰すべきにや、是等の輩は好んで今の新派の為すなる山林郊野 景色を描き、めでたき製作ありたれども、多くは俗に悦ばれずして貧に苦みぬ、
ミレー、コローの輩の困頓窮苦は暫く措き旧に泥み新を厭ふ国柄にありては、技芸に於ける嗜好をも広く享くること能はず、シヤヴアン一派の画風仏に顕揚せりと雖も、他国には悦ばざるものもあるべし、さるに此国の新派数年を出でずして著しく発達し、且つ世に容れらるゝが如きものあるは如何、推なべては国風に由るべしと雖も、亦特にこの画風の国人に悦ばるゝ理由なくんばあらず、

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