美術界鼎足の睨合

  • 読売新聞
  • 1896(明治29)/09/24
  • 3
  • 雑報

日本絵画協会ハ今廿四日より其第一回絵画共進会を上野公園内旧博覧会五号館に於て開き白馬会亦十月一日より同館に於て油絵彫刻の展覧会を開き日本美術協会同じく十月十日より其列品館に於て秋季美術展覧会を開かんとす天高くして秋気澄む東台の辺定めて惨憺人目を驚かすものあるべしとハ何人も推量る処なるが今親しく聞き得たる箇中の消息を記さんに
日本絵画協会ハもと日本美術協会の中に在りたる青年の団体と及び所謂美術学校派と称する者と合同したる一団体にして彼の青年団体ハ美術協会の情実纒綿元老跋扈の積幣を憂ふる事甚しく時機あらバ分離して一旗幟を建てんとて日本絵画協会なる者を組織せる折柄かねて美術協会の無主義に慊からざる美術学校派亦日本絵画協会といへる名称の下に花々しく打て出でんとの計画怠らざる折しも彼の青年団体の奮興を聞き岡倉校長より交渉盡力する所ありて遂に両派合同して茲に日本絵画協会なる一合同団体を構成するを得たりしなり因ッて同協会ハ其部門を別けて三部と為し第一部ハ東洋の画法を維持するもの即ち流義派第二部ハ西洋の様式に基くもの第三部ハ従来の画法に拘はらず新に開発を謀らんとする者即ち無流義派にして明治の新美術を発達せしめんとするもの同会が重を措くハ実に此の部門に在るなり而して審査官として第一部に野口幽谷山名貫義第三部に橋本雅邦川端玉章等諸氏に依頼し汎く全国画家の出品を蒐集して之が第一回共進会を開かんと前々月来計画に余念なし而して第二部の西洋様式に基けるものハ同会が其欠乏を訴ふる所なりしが恰も好し明治美術会に在りたる黒田清輝、久米桂一郎、合田清の諸氏亦同会に慊焉たらずと云ふでも何でもなく只偶然の結果より心会ふ人々打集ひて白馬会なる一団体を組織したるにかねて明治美術会にて新派旧派の衝突少しく萌せし時とて黒田久米諸他の諸氏ハ新派の人々なりしより同会の旧派ハ早くも此の白馬会の成立を見て旧派に対して敵意を挾さむ者と為し百方攻撃仮す所なく遂に世間をして両会相反目擠排するかの如く思はしむるに至りたり
されバ白馬会の人々も大に其所存を貫かんと欲し茲一番同会の展覧会を開きて世に訴へんと其準備に掛りけるが恁と聞きたる日本絵画協会ハ其二部の陳列を欠きたる折柄此れ幸ひと岡倉氏及び同会より白馬会に協議交渉する処ありしに同会亦之に同意し遂に日本絵画協会と聯合して同じく五号館に於て開会するをこととハなりたるなり而して白馬会の面々ハ黒田清輝、山本芳翠、久米桂一郎、小代為重、安藤仲太郎、岡田三郎助、和田英作、今泉秀太郎、合田清、佐野昭諸氏をはじめ新派鏘々の者凡そ二十余名日本絵画協会ハ小堀鞆音、竹内棲鳳、望月玉泉、寺崎広業、村田丹陵等青年屈指の人士ハ云ふまでもなく数度の戦場に名声を馳せたる古武士ハ数多しといふ
斯の如く両会の聯合ハ成りたり之に対する日本美術協会の運動ハ如何聞く今度同会ハ大いに審査を厳重にし其萃を抜き英を吸ひたるものゝみを採りて開会し極力日本絵画協会に當らんと腕に捻かけての決心定めて目覚しからんといふ而して明治美術会ハ此際展覧会も開かずやゝ尻込の思案最中なりとぞ

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