本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,907 件)





古橋悌二

没年月日:1995/10/29

 パフォーマンスグループ「ダムタイプ」の演出家でありパフォーマーのメディア・アーティスト古橋悌二は、10月29日午後2時45分、敗血症のため死去した。享年35。昭和35(1960)7月13日、京都市に生まれ、同55年京都市立芸術大学に入学、同61年同大学大学院構想設計科修士課程を修了。在学中の同59年に芸術集団「ダムタイプ(DUMB TYPE) 」を結成、活動を開始。この集団は、古橋を中心にデザイナー、作曲家、コンピュター・プログラマ一、ヴィジュアル・アーティストなどによって構成され、インスタレーション、パフォーマンス、ビデオ、出版など、多彩なメディアを駆使して、表現を展開することが目的とされていた。同63年、パフォーマンス「PLEASURE LIFE」により京都市芸術新人賞を受賞。このパフォーマンスは、国内だけではなく、ニューヨーク、ロンドン、コペンハーゲン等でも上演された。平成4(1992)年には、テクノロジーを駆使するはずの人間が、ロボット化していることを洗練された手法で表現したビデオドキュメント「pH」を発表、この作品も国内外で発表、上演され、イタリア、ドイツで受賞し、高く評価された。同年からは、エイズをめぐるさまざまな思考を、コンピューター・グラフィックスによる映像と、ノイズのはいった音楽、スクリーンに写しだされるメッセージ、そしてパフォーマンスによって構成された「S/N」を発表、同7年の第2回読売演劇大賞選考委員特別賞、日本文化デザイン賞を受賞した。同年、ニューヨーク近代美中術館のVideo Space展に出品されたインスタレーション「Lovers 永遠の恋人たち」が遺作となった。

榎倉康二

没年月日:1995/10/20

 東京芸術大学教授の美術家榎倉康二は10月20日午後6時30分、東京都世田谷区の自宅で倒れ急死した。享年52。昭和17(1942)年11月28日東京に生まれる。同36年私立独協高等学校を卒業して、同37年東京芸術大学油画科に入学。同41年、同科を卒業して同大学大学院油画科に進学。また、同年より同48年まで、すいどーばた美術学院非常勤講師をつとめる。この間、同42年東京のイトー画廊でグル一プ.ルモン第1回展を開催。同43年に大学院を修了する。同44年を東京の椿近代画廊で第1回個展「The ceremony of walking(歩行儀式)」を開催。同45年第10回日本国際美術展に、同46年第10回現代日本美術展、第7回パリビエンナーレに出品。早くから物質相互の浸透、物質と人間の関係などに興味を抱き、同45年東京村松画廊での個展「The Infinit Zone(不定地帯)」、同46年東京のウォーカー画廊での個展「湿質」、同47年田村画廊での「榎倉康二提示場<干渉量>」などで制作を発表。同49年ドイツのアーへン市立美術館で個展を開催し「予兆―海・肉体」他を発表する。同51年ときわ画廊で個展「不定領域」を開催、また第2回シドニー・ビエンナーレに出品する。同53年東京画廊で個展「干渉率」を開催した。同55年ヴェネツィア・ビエンナーレに出品。同56年東京芸術大学美術学部講師となり、同58年同助教授となる。平成4年ボローニア市立近代美術館での「70年代日本の前衛展」に出品。同5年東京芸術大学美術学部教授となった。同年世田谷美術館での「70年代日本の前衛 抗争から内なる葛藤へ」展、同7年北九州市立美術館、広島市現代美術館での「1970年―物質と知覚」展などに出品していることから知られるように、作家活動の初期から鋭い感性で自らの生きる時代の問題に切り込む制作を発表し続けた。80年代には「FIGURE」のシリーズを、90年代には「干渉」のシリーズを制作。オブジェやインスタレーションから平面やタブローへと作品形態の中心が移行したが、ものごとのはじまりや生成、ないしは存在することそれ自体を、「浸透」「干渉」などを鍵としてとらえようとする試みは一貫していた。

殿敷侃

没年月日:1992/02/11

 廃材を用いた作品で近年注目されていた造形作家殿敷侃は2月11日午後10時25分、肝臓がんのため島根県益田市の日赤益田病院で死去した。享年50。昭和17(1942)年1月22日、広島市に生まれる。3才の時に広島への原爆投下で父をなくし、間もなく母も失う。被爆当日は疎開先にいたが、2日後に広島市に帰ったため後に健康を害する。広島大学を中退し、同53年久保貞次郎の勧めで版画を始める。両親の遺品等を題材とした絵画、版画など、原爆の問題をとりあげた作品を制作する。同56年第1回西武美術館版画大賞展でシルクスクリーン「作品2」が日版商買上賞を受賞。同50年代後半からインスタレーションを試み、古タイヤを野性の木々の枝にかけたり、捨てられたテレビ数十台で田を囲む等、廃材を利用した環境芸術を制作。近年の地球環境問題の高まりと並行して注目されるようになった。平成2年春、それまでの7年間の活動をまとめた『逆流する現実』を刊行。同年ヨーロッパを巡遊した。晩年は山口県長門市北浦に住んで制作していた。

工藤哲巳

没年月日:1990/11/12

 東京芸術大学教授の造形作家(絵画、オブジェ)工藤哲巳は、11月12日結腸がんのため東京都千代田区の三楽病院で死去した。享年65。昭和10(1935)年2月23日兵庫県加古郡に生まれる。祖父は青森県長橋村村長をつとめ、両親はともに画家で父工藤正義は新制作派協会に属した。同20年父没後岡山を移り、岡山・操山高校卒業後、同29年東京芸術大学油画科に入学し同33年卒業した。存学中から抽象画や前衛的なオブジェを手がけ、同32年の東京・美松画廊でのハプニング「反芸術」をはじめ、同32~37年の間、読売アンデパンダン展、グループ「鋭」展を通じ、「インポ哲学」を唱え既成の観念や概念に激しく挑んだ。同37年、アジア青年美術展でグランプリを受賞し、同年夫人と渡仏、以後パリを拠点にヨーロッパ各地で制作発表を行い、「あなたの肖像」シリーズを展開する。また、同37年にはパリ・ビエンナーレ展日本部門に出品し、会場内で丸刈り姿であやとりをする「ヒューマニズムの腹切り」のパフォーマンスで西欧人の度肝をぬいた。1970年代に入ると、「環境汚染・養殖・新しいエコロジー」のシリーズを展開、同51年にはカーニュ国際フェスティヴァルでグランプリを受賞、翌年のサンパウロ・ビエンナーレ展には日本から4名の出品作家の一人として参加した。同62年家族をフランスに残したまま帰国し、東京芸術大学教授(絵画科・油画)をつとめていた。一連のシリーズとして他に、「増殖性連鎖反応、融合反応」シリーズ、「カゴ:綾取り・瞑想」シリーズ、「デッサン:制度としての色紙」シリーズ、「前衛アーティストの魂」シリーズ、「天皇制の構造」シリーズがあり、モニュメントに「脱皮の記念碑」、映画に「脱皮の記念碑」(撮影・吉岡康弘)がある。略歴1935年 青森県北津軽郡長橋村村長の初孫として生れる。出生病院は大阪。両親は共に画家。父、工藤正義は新制作会友。1945年 父の死。母は岡山に移り、教師として生計を立てる。1953年 岡山操山高校卒業。1954年 東京芸術大学入学。のちの妻弘子と出会う。1957年 ハプニング「反芸術」美松画廊(東京)。1958年 東京芸術大学卒業。1957~62年まで、読売アンデパンダン展、グループ「鋭」展で活躍、「インポ哲学」を唱え既成の観念や概念に挑戦。1961年 「現代美術の冒険」展招待出品、東京国立近代美術館。1962年 「アジア青年美術展」出品、グランプリ受賞、妻弘子と共にパリに渡る。以後パリを拠点にヨーロッパで活動する。 ハプニング「インポ哲学」、レイモン・コルディエ画廊(パリ)。ロベール・ルベルとアラン・ジュフロワ共同企画「コラージュとオブジェ」展招待出品、セルクル画廊(パリ)。ジャン=ジャック・ルベル企画によるハプニング「カタストロフ」に参加。「あなたの肖像」シリーズはじまる。1963年 パリ・ビエンナーレ、日本部門に出品。会場のパリ市立近代美術館でハプニング「ヒューマニズムの腹切り」、「ヒューマニズムの壜詰」を行い、“世界的異議申立者”と評される。1964年 ヴィム・ビーレン企画による「ニュー・リアリスト」展招待出品、ハーグ、ウィーン、ベルリン、ブラッセル各美術館(~65年まで)巡回。ハプニング「インスタント精液」、(ジャン=ジャック・ルベル企画による“ワーク・ショップ”で、パリのアメリカン・センター)。1965年 パリ・ビエンナーレ、フランス部門出品。ジェラール・ガシオ=タラボ企画「物語的具象」展。アラン・ジュフロワ企画「オブジェトゥール」展招待出品。個展、及びハプニング、J画廊(パリ)。1966年 サロン・ド・メエ及びサロン・グラン・ジュンヌ招待出品(~80年まで)及びハプニング「あなたの肖像」。アムステルダム、パリ、ヴェネチア(サン・マルコ広場)でハプニング。個展、20画廊(アムステルダム)、テーレン画廊(エッセン)。1967年 個展、マチアス・フェルス画廊(パリ)。ハロルド・ゼーマン企画「サイエンス・フィクション」展招待出品、(ベルン、パリ、デュッセルドルフ各美術館巡回、~68年まで)、「オブジェ67」展、マチアス・フェルス画廊(パリ)及びマルコニー画廊(ミラノ)。ジェラール・ガシオ=タラボ企画「問いの世界」展招待出品、及びハプニング「脱皮の花園ダンスパーティ」(パリ、市立近代美術館)。映画、「あなたの肖像」(ファン・ザイレンと)。「オランダ・コレクター」展(アインホーフェン美術館)。1968年 5月革命。個展、ミッケリー画廊(アムステルダム)。レジェ画廊(マルモ、ゴートボルグ)。パリ、アイントホーフェン、ゲント、デュッセルドルフ、カッセルでの「マニフェスト展」に参加。「電子回路の中での放射能による養殖」シリーズ発表。オブジェ大作「若い世代への讃歌」制作。パリ、エッセルでハプニング。1969年 一時帰国。千葉房総鋸山に岩壁レリーフ「脱皮の記念碑」制作。9月10日壱番館画廊(東京)で「一日展」。毎日現代美術展出品。映画「脱皮の記念碑」(~70、撮影・吉岡康弘)。1970年 最初の大展望展が開かれる。クンストハーレ・デュッセルドルフ。「ハプニングとフルクサス」(~71、ハロルド・ゼーマン企画)に招待され参加、クンストハーレ・ケルン。映画「泥」(シナリオ、イオネスコ)のため、美術装置担当。「イオネスコの肖像」制作。「環境汚染・養殖・新しいエコロジー」シリーズ始る。1971年 「絵画とオブジェ’71」展招待出品、パリ・ガリエラ美術館。毎日現代美術展出品。1972年 「フランス現代美術の12年」展(ポンピドー展)に日本の作家としてただひとり招待出品、パリ・グランバレ。個展(展望1960~70)アムステルダム市立近代美術館。1973年 個展、マチアス・フェルス画廊、ボーブール画廊(パリ)。1974年 「日本・伝統と現代」展招待出品、(~75)。クンストハーレ・デュッセルドルフ、ルイジアナ美術館(デンマーク)。1975年 個展、ヴァルゼッキ画廊(ミラノ)。「ある系図」(岡山の生んだ異才とその周辺)展、岡山操山高校・28会主催、葺川会館。1976年 カーニュ国際絵画フェスティヴァルでグランプリ受賞。ヴェネチア・ビエンナーレ出品。パリ・ARC・2での「箱」展に招待出品。1977年 個展、ボーブール画廊、ヴァロア画廊(パリ)。ジェラール・ガシオ=タラボ企画「神話と現実」展招待出品、(パリ・ARC・2)、サンパウロ・ビエンナーレで特別名誉賞。「パリ・ビエンナーレ’59~’67」に招待出品。CNAC(パリ)。ハプニング「危機の中のアーティストの肖像」(ボーブール画廊)。「環境汚染の中の肖像」サンパウロ・ビエンナーレ展。パリ・ポンビドーセンター開館記念展示に「環境汚染・養殖・新しいエコロジー」陳列。1978年 ドイツ文化交流基金により1年間ベルリンへ招待される。個展、ウンダーランド(ベルリン)、ベルシャス画廊(パリ)。ハプニング、セレモニーをディオゲネス劇場とウンダーランド画廊で行う(ベルリン)。ビデオ「工藤のセレモニー」を制作(ベルリン)。ベルシャス画廊では、セレモニー「無限の綾取り」。「カーニュ大賞受賞者」展(パリ・ARC・2とカーニュ)出品。「パリ・ビエンナーレ’59~’73」展出品、西武美術館(東京)。1979年 個展、ジャド画廊(コルマール)、ベルシャス画廊(パリ)、青年文化センター(メッツ)。それぞれセレモニー「無限の綾取り」を行う。ジェラール・ガシオ=タラボ企画「フランス芸術の傾向’68~’79」展招待出品。セレモニー「灯は消えず」を行う(パリ・ARC・2)。1980年 「現代芸術見本市」パレ・デ・ボザール(ブラッセル)。「アクロシャージュ4」展、パリ・ポンピドーセンター。セレモニー「灯は消えず」を行う。7月、ウナック・サロンで「幻の画家工藤哲巳-この一点を囲んで」6月入院、8月アルコール中毒全快。「サイエンス・未来とサイエンス・フィクション」展招待出品(リル市主催)。「パニック」展招待出品(レンヌ文化センター)。サロン・モンルージュ招待出品(モンルージュ)。1981年 個展、ヨーレンベック画廊(ケルン)、セレモニー「灯は消えず」。ラルース社発行「大百科事典」(80年2月発行)にエコロジーシリーズ掲載。新作個展、草月美術館(東京)。アラン・ジュフロワによる企画展「何処へ」、アムブロワーズ画廊(パリ)。1981~82年 「1960年代-現代美術の転換期」展、東京国立近代美術館、京都国立近代美術館。1982年 個展、「制度としての色紙」展、ウナックサロン(東京)。喚乎堂ギャラリー(前橋)、番画廊(大阪)。個展、「遺伝染色体による無限の綾取り」ギャラリー16(京都)。「サヨナラKUDO」展、銀座絵画館(東京)。「天皇制の構造について」高木画廊(名古屋)。「アート・フェスティバル、現代の美術」展、富山県立近代美術館。「FIAC・パリ画商」展、グラン・パレ(パリ)。1983年 「ムーラージュ形・型」展、アンドレ・マルロー記念館(パリ)。「ヨーロッパ1960年回顧展」、サンテチェンヌ文化館、同工業美術館 サンテチェンヌ市(フランス)。「ハット・アート」(ベルリン市他)。「ピノキオ100年祭展」、カーン市(フランス)。「全く別の具象」展、マチアス・フェルス画廊(パリ)。「フランス文化省選抜展」、パピヨン・デ・ザール(パリ)。「ローベル社発行 世界現代美術年鑑」最新版に新作3点掲載、(パリ、ニューヨーク)。「縄文の構造=天皇制の構造=現代日本の構造」展、サプリメントギャラリー(東京)、天満屋ホール(岡山)、ギャラリー16(京都)、フジタ画廊(弘前)。「1960年代展」東京都美術館。個展、51番館ギャラリー(青森)。1984年 「工藤哲巳のエロチィシズム」フジタ画廊(弘前)。「日本の心」伊達画廊(岡山)。「エレクトラ展」パリ市立近代美術館。個展、岡崎球子画廊(東京)。「現代の絵画1970-80」群馬県立近代美術館。「美術の神風・工藤哲巳」河合塾ホール(名古屋)。「縄文の構造=天皇制の構造=現代日本の構造」展、エスパースジャポン(パリ)、スペース・ニキ(東京)。「カフカの世紀」展、ポンピドーセンター(パリ)。「ベヒトコレクション」展、アムステルダム市立近代美術館。「現代東北美術の状況展」、福島県立美術館。弘前市立博物館長・羽場徳蔵氏の努力で父工藤正義の遺作回顧展を開催。「津軽文化褒賞」受賞、「内助功労賞」を妻・弘子が受賞。「天壤のオブジェ--工藤哲巳と日本の遊人たち」展、(東京・渋谷パルコ)。「鋸山-脱皮の記念碑-を回想する」ウナック・トウキョウ(東京)。1985年 パリの個展を前にドローイング、オブジェ、コラージュの新作展をMギャラリー(東京)で開催。(以上、記憶にあるものを記入、漏れのあった場合はお許し乞う。--工藤哲巳)1985年 「咲きほこる前衛」、ギャラリー・ジルベール・ブラウンストン(パリ)FIAC・画商展、グラン・パレ(パリ)。「再構成:日本の前衛芸術、1945-1965」、オックスフォード近代美術館(オックスフォード)。1986年 「ひとりの作家の歩んだ道・工藤哲巳の世界」弘前市立博物館(弘前)。個展、コバヤシ画廊、東京。1986年 「ひとりの作家の歩んだ道」、ギャラリー・クロード・サミュエル、ギャラリー・ジルベール・ブラウンストン(セレモニー「無限の綾取り」)、パリ。1986-87年 「前衛の日本」展、ポンピドーセンター、パリ。1987-88年 「ベヒト・コレクション」展、現代美術センター、ミディ・ピレネー、及びヴィルヌーヴ市立近代美術館、アスクにて、フランス。1988年 「マルセイユの現代美術」展、ミューゼ・カンチニ、マルセイユ。1989年 「ハプニングとフルクサス」展、ギャラリー1900-2000及びギャラリー・ドゥ・ジェニー、パリ。「クドー」FIAC国際画商展での個展、グランパレ、パリ。個展「クドー」、ギャラリー・ドゥ・ジェニー、パリ。1990年 11月12日死去(1987年10月1日から東京芸術大学美術学部の教授として単身赴任中であった。)家族は妻・弘子と長女紅衛、パリ在住。1991年 「クドーテツミへのオマージュ」展、主催、ゴッホ・ファンデーション及びファン・リーカム美術館、アペルドルーン、共催アムステルダム市立近代美術館。「クドー・テツミへのオマージュ」、ポンピドーセンター、パリ。協力:工藤弘子「芸術と日常-反芸術/汎芸術」展(予定10月10日~12月1日)、主催 国立国際美術館、大阪。1994年 「工藤哲巳回顧展」予定、国立国際美術館、大阪、東京、パリ等。(上記の略歴は、1985年の項目下に註記のある部分までが工藤哲巳の作成、それ以後は夫人の追記による。)

伊藤隆康

没年月日:1985/02/15

 造形作家の伊藤隆康は2月15日肝がんのため東京都港区の慈恵医大附属病院で死去した。享年50。昭和9(1934)年8月31日兵庫県明石市に生まれ、同33年東京芸術大学美術学部油画科を卒業する。在学中は小磯良平教室に属し、同期に高松次郎、中西夏之、工藤哲巳らがいた。卒業後、東横百貨店宣伝部に就職、ディスプレイ・デザインの仕事に従事する側ら、制作活動を行う。当初から石膏などの素材を用いた造形作品をめざし、同34年村松画廊で初の個展を開催、同年の3回シェル美術賞展で第一席を受賞する。同36年2回パリ青年ビエンナーレ展に出品、同年のいとう画廊での個展ではじめて「無限空間」シリーズの作品を発表する。その後わが国におけるライト・アートの先駆をなした「負の球」シリーズ、さらに「同時に存在する」シリーズを展開、この間、個展の他、5回現代日本美術展(同37年)、15回読売アンデパンダン展(同38年)、現代美術の動向展(同39、42年)、現代美術の新世代展(同41)などに出品し、石膏や土管による無限空間作品やオブジェを発表する。また、同39年の秋山画廊での個展では、家庭用土管を一週間展示した。同44年、国際サイテック・アート展「エレクトロマジカ」を山口勝弘らと開催、翌45年には大阪万国博覧会テーマ館の企画、デザインに参加した。同47年スペースデザイン事務所サムシンクを設立、環境・空間デザインを本格的に手がける。同53年、商空間デザイン賞特別賞を受賞。同59年、作品集『無限空間-The Infinite』を刊行する。没後、同60年に渋谷区立松涛美術館で伊藤隆康展が開催された。

村山知義

没年月日:1977/03/22

 大正後期に前衛的な美術運動の推進者で画家でもあった劇作家、演出家の村山知義は3月22日午前6時17分、横行結腸ガンのため東京・千駄ヶ谷の代々木病院で死去した。享年76であった。 村山知義は、明治34年(1901)1月18日、東京都千代田区に生まれ、大正10年(1921)第一高等学校を卒業、東京帝国大学文学部哲学科へすすんだが、同年12月哲学研究のためベルリンへ留学した。ベルリンへ着いて間もなく、同地の前衛的な芸術に熱中して絵画へ転じ、カンディンスキー、アーキペンコ、シャガールなどに傾倒、ロシア構成主義へひかれていった。特定の画家につくこともなく、画廊、展覧会をめぐって独学、「コンストルクチオン」「あるユダヤ人の少女像」(いずれも東京国立近代美術館蔵)、「美しき乙女に捧ぐ」などコラージュや抽象的な作品を製作し、デュッセルドルフの「若きラインラント」主催国際美術展に参加した。大正12年1月に帰国し、未来派、二科会系前衛集団アクションなどの活動が始まっていた大正期前衛美術運動の渦中にとびこむこととなった。大正12年5月、神田文房堂において「村山知義・意識的構成主義的小品展」を開催、ドイツから荷物が届かないままに帰国後の作品を展示、また美術雑誌に精力的に日本の前衛美術の批判や、自己の主張する意識的構成主義の論稿を発表した。同年7月には柳瀬正夢、尾形亀之助らとダダイズム的な集団マヴォ(MAVO)を結成し、8月展覧会を開催した。また翌大正13年7月には雑誌『マヴォ』を創刊(翌14年6月までに7号を発行)した。同年11月、築地小劇場第16回公演「朝から夜中まで」(ゲオルグ・カイザー作、土方与志演出)の舞台装置を担当し、その構成派的作風が注目され話題となった。また同13年10月、前衛的集団の合同呼びかけによって成立した三科造型美術協会に参加した。三科は展覧会開催と同時に大正14年9月30日、築地小劇場で「劇場の三科」を開催(今日のハプニングに近い)したが、その後解散、村山もしだいに美術から離れて演劇運動へ転進していった。

普門暁

没年月日:1972/09/28

 わが国前衛美術運動の先駆者として知られた普門暁は、2月にクモ膜下出血で倒れ、大阪の暁明館病院に入院、9月28日同病院にて死去した。享年76歳。明治29年8月15日奈良市に生れた普門が生後間もなく東京に移り、青年期を迎えて画家を志望し、偶々1910年代イタリアのミラノに起った未来派の美術運動に刺激影響を受け、大正9年秋、みずから首唱者となって未来派美術協会を創立し、以来数年にわたってわが国における前衛美術運動の口火を切って活躍したことは、わが近代美術史上の特異な存在として銘記されているが、戦後の晩年は帰郷して殆んど中央での活動がなかったので、奈良で生れ、またその奈良で生涯の仕事をひっそりと終えた普門については、一般に知られるところが少なかった。昭和48年12月、地元の奈良県立美術館の努力によって開催された『未来派の先駆・普門暁回顧展』に当って作成された目録中の貴重な「略年譜」によって、その生涯の大方を再認識することが出来る。なお、その回顧展の骨子となった作品群は、このとき、普門家の遺族関係者から同家に伝存する限りの遺作品が奈良県立美術館へ寄贈されたのによったという。略年譜明治29年 8月15日、普門常次郎・よねの長男として生れる。本名常一。その後間もなく東京に移る。貴金属商を営んでいた叔父の仕事を手伝いながらデザインを勉強する。大正4年 東京蔵前高工で建築意匠を学ぶ、また安田緑郎に師事しイタリア新興美術(未来派)等の表現技術を学ぶ。大正5年 どうしても絵をやりたくて、蔵前高工を中退し、川端画学校に入る。日本画をも学ぶ。ここでも新傾向グループのリーダーになり、紅児会と名づける。この頃看板等にコルクの焼絵を試みる。第1回個展(上野山下・三橋亭)、石井柏亭に二科会への出品をすすめられる。大正7年 春、太平洋画会展に未来派作品を数点出品。秋、二科会展に石井漠の踊りを描いた「フューモレスク」を出品。大正8年 春、個展(日本橋・白木屋)。その後奈良に帰り制作、県立図書館で足立源一郎・浜田葆光・山下繁雄とあしび会というグループ展を開く。大正9年 二科展に絵をやめて彫刻を出品するが落選。首唱者となり未来派美術協会を創立。第1回未来派展(9.16~25、銀座・玉木屋)、会員約10人のほか、木下秀一郎等の応募者がいた。絵画のほかに未来派彫刻2点も出品、日本で初めての未来派彫刻の発表として問題作となる。10月、パリモフ、ブルリュックらが来日し、ロシアの「未来派美術展」を開催するのを援助(東京と大阪で同展は開かれる)。第1回未来派大阪展開催後、反響もあり、大阪で新しい仕事を勧める人もあり、大阪に止まる。大正10年 大阪市南区笠屋町に自由美術研究所が設立され、赤松麟作・斎藤与里と共に指導にあたる。第2回未来派展(10.15~28、上野・青陽楼)には、座骨神経痛で芦屋から動けず、代って中心になって木下秀一郎が動いた。その後、同大阪展を本町の商工会議所会館で開く。二科展に出品。大正11年 大阪市美術展覧会創立委員となり、第1回展に出品。未来派美術協会の主催で、第3回未来派展を拡張して三科インデペント展が開かれるが、同協会の解散説を唱えて参加しなかった。二科展に出品。大正12年 春個展(京都及び東京)。大阪に演劇映画研究所が開催され、演劇舞台美術を指導。昭和2年 東京に産業美術研究所を設置、未来派技術と感覚をデザインに移入、生活美術としての新分野を開拓。身体障害者の社会復帰に寄与しようとするものでもあった。これらの製品(団扇・ネクタイ・切り絵等)は東宝劇場内の販布コーナーで市販した。昭和5年 発病し静養。昭和12年 日大美術科の講師となり、翌年、主任となる。昭和18年 日大美術科主任を辞し、講師として出講。昭和21年 G・H・Qの日本美術顧問となり、米軍だけでなく米国への日本美術紹介に骨を折る。アーニーパイル劇場に新設美術会場を開設。昭和26年 肝臓を悪くして東京日赤に入院。昭和27年 春、一時小康を得て東京綜合美術研究所を開き、洋画やデザインの指導にあたるが、健康はすぐれなかった。昭和35年 かねてから塗料の開発に取り組んでいたが、ベンゾール中毒にかかり発病、奈良・大林家に寄寓し療養に専念する。昭和39年 健康を取り戻し、手はじめに王寺工業高校の記念碑「希望の像」を翌年にかけて制作する。昭和49年 秋、当麻寺奥院の大作「倶利迦羅龍幻想」の制作にかかる。翌年春完成。昭和41年 同寺奥院のお茶所を改造してアトリエとして住む。この頃から、水墨の抽象画に打ちこむ。ニューヨークで個展を開くつもりで後期未来派作品の制作を始める。昭和47年 2月、蜘蛛膜下出血で倒れ、大阪の暁明館病院に入院。9月28日、同院にて没す。法名龍光院常誉照鑑暁雲居士。

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