本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,907 件)





金山明

没年月日:2006/09/02

 元具体美術協会会員で、現代美術家の金山明は9月2日、肺がんのため、三重県川越町の病院で死去した。享年82。1924(大正13)年、兵庫県尼崎市に生まれる。1947(昭和22)年に多摩美術大学を中退、大阪市立美術研究所に学ぶ。ここで52年に、同研究所で学んでいた村上三郎、白髪一雄等とともに0会結成、また後に妻となる田中敦子(1932―2005)を知る。54年、0会展を大阪そごう百貨店で開催。55年、第7回読売アンデパンダン展(会場、東京都美術館)、「真夏の太陽にいどむモダンアート展(芦屋市美術協会主催、会場、芦屋川畔、同展の40数名の出品者中、前年結成の具体美術協会のメンバーが23名参加していたことから同協会の第1回野外展とされている)。同年10月、第1回具体美術展を東京で開催(会場、小原会館)、金山は、作品として白い巨大なアドバルーンと赤い電光を天井からつり下げ部屋全体を赤く照らす「たま」を室内に展示した。具体美術協会の展覧会では、従来の絵画、彫刻の概念を超えるために、素材や身体性を過剰なまでに強調した作品、あるいはパフォーマンスが注目されたが、金山の作品は、それとは逆に展示される「空間」そのものを意識させたという点で、むしろ具体のメンバーたちに強い影響をあたえた。当時のメンバーのひとりである嶋本昭三は、この金山の出品作について、つぎのように述べていることからも了解される。「一つの作品は巨大なアドバルーン状のもので部屋の天井から床までとどくようなものが会場の真中にどすんと居座っているのです。形そのもののもつ異様な感じもさることながら、会場全体に、もうこれ以上大きくはなれない、というような精一杯はち切った感じは正に奇観です。(中略)作品のこのような提示方法は美術の一つの在り方として、画期的なものであると思うのです。」(「金山明氏の『たま』」、『具体』4号、56年7月より)このように金山は、身体による表現性を抑制し、作品が置かれた空間、環境を鑑賞者に意識させる作品を発表し続け、1965年の第15回具体美術展まで毎回出品をつづけた。68年から翌年にかけて、アメリカ、カナダを巡回した「エア・アート」展に出品。80年代以降は、81年の「現代美術の動向Ⅰ 1950年代 その暗黒と光芒」展(東京都美術館)、85年の「絵画の嵐・1950年代―アンフォルメル・具体・コブラ」展(国立国際美術館)、86年の「前衛芸術の日本1910―1970」展(パリ、ポンピドーセンター)、1990(平成2)年の「具体―未完の前衛集団」展(渋谷区立松涛美術館)等、日本の戦後美術、あるいは具体美術協会の活動の再評価と検証を試みる各地の企画展に、その作品が出品された。93年には、「エア・アート」展以来の新作として「金山明 第1回個展 1950/1992」を名古屋市の「ギャラリーたかぎ」で開催した。この個展には、クラシック音楽をアナライジング・レコーダーによって記録された振動を視覚化し、作品として出品した。ここでも、人為的な関与を最小限にとどめ、ミニマルなかたちで音楽の視覚化としての「絵画」を制作した。具体美術協会の創立メンバーながら、その創作活動は、コンセプチュアルアートの先駆けをおもわせる、一貫して概念的で知的な思索と行為から生まれ、その点からも寡黙だがユニークな芸術家であった。没後の2007年1月、豊田市美術館にて「金山明」展が開催され、その芸術が初めて回顧された。

井田照一

没年月日:2006/06/05

 造形作家の井田照一は6月5日午後7時10分、がんのため京都市上京区の病院で死去した。享年64。  1941(昭和16)年9月13日、京都市に生まれる。京都市立美術大学西洋画科に入学し、同学卒業後、西洋画科専攻科に進学し、65年に修了する。絵画の持つ情緒性から脱することができ、多数の鑑賞者を得ることができることから石版画という技法に注目し、独自のかたちと明快な色彩によるリトグラフを制作。65年、京都の画廊紅で個展を開催。67年、第2回フランス政府留学生選抜毎日美術コンクール展で2位となり、翌年大賞を受賞し、フランス政府留学生として69年にパリへ留学。パリ滞在中の70年ころ、カール・アンドレらと知り合いコンセプチュアル・アートに触れ、マルセル・デュシャンのしごとを知る。ジョン・ケージとも交友し「時間と空間の同時性の中に自分の感性を取り込むこと」を造形のなかで試みるようになる。71年、シルクスクリーンによる「Surface is the Between」(表面は間である)の制作を開始。またこの頃、版画作品で展覧会場全体を埋め尽くすインスタレーションを試みる。76年には「Surface is the Between」シリーズの一環としてアトリエの床をフロッタージュし、水平の床に作家が垂直の力を加えた痕跡を作品化した「Surface is the Between―Between Vertical and Horizon “Paper Between Floor and Floor No.2”」を制作。同年、第10回東京国際版画ビエンナーレで文部大臣賞受賞。79年紙による制作「Lotus Sutra」シリーズを開始。79年大阪府立現代美術センターで回顧展を開催。85年、原美術館で回顧展を開催。86年、交友のあるロバート・ラウシェンバーグとともに日米文化国際交流名誉賞を受賞する。87年には郷里京都市美術館で回顧展を開催。1989(平成元)年サントリー美術館賞受賞。89年米国オレゴン州のポートランド美術館で個展、90年には同国オハイオ州シンシナティー美術館で個展を開催する。水平と垂直の出会いに深い興味を抱き続けた井田は、版面に垂直に落とされた腐食液が水平に広がって版を浸蝕するスピットバイト技法を好んだ。腐食の際に発生するガスが一因してがんを発症し、90年に食道がんの手術を行なう。闘病しつつも、京都のアトリエにとどまらず、国内のみならず海外にまで制作の現場を移す「移動するアトリエ」と自らが称した制作態度を貫いた。95年山口源大賞受賞。2001年、『Garden Project Since 1968 in Various Works 井田照一作品集』(阿部出版)を刊行。04年1月、豊田市美術館で「井田照一 版画の思考」展が開催され、初期から近作まで120点の作品によって作家の歩みを回顧する展観となった。人を含む諸物の存在は、他者との接触や出会いによって生ずる表面(Surface)であるとし、版画のほか、布、ガラス、陶器、鉄など多様な素材を用いて、表と裏、地と図が両義性を持つことを、色やかたちといった造形要素により見るものに訴えた。

村上善男

没年月日:2006/05/04

 前衛的な作品で知られる現代美術家の村上善男は、5月4日、心不全のため岩手県盛岡市の自宅で死去した。享年73。1933(昭和8)年、岩手県盛岡市の染物屋に生まれる。岩手大学在学中の53年、二科展に「蛾」を出品して初入選を果たす(以後61年の第46回まで出品)。54年に教諭として岩手県花巻市立湯本中学校へ赴任。翌年の第40回二科展に出した「ヴァグースQ」が岡本太郎の目にとまり、この年新たに設けられた二科九室、通称太郎部屋に展示される。それまでのシュルレアリスム的表現から、形象化された人の手と糸で構成された「綾取りシリーズ」への移行がこの作品には顕著にみられる。57年には転勤先の岩手町で齋藤忠誠らと諮り、岩手町在住者を主体として「エコール・ド・エヌ」を結成。60年から、工業製品をポリエステルで固めたアサンブラージュによる「注射針シリーズ」「計測シリーズ」を展開していく。高校教師として再び転勤する61年にエコール・ド・エヌを退会、さらに岡本太郎の二科会脱退に続いて62年から団体展への出品も取りやめる。以降、グループ展や個展など表現方法の制約にとらわれない場での活動を重視するようになる。同年、詩人・高橋昭八郎に呼びかけ「一人の詩人、八人の画家と一人の芸術家、舞踏家による盛岡四月八日の日曜日」と題するショーを開催、この時の参加者・大宮政郎、柵山龍司らと共に盛岡で「集団N39」を結成。同年、第6回シェル美術大賞展において第3席受賞。「集団N39」は東北を拠点とした新たな前衛美術運動として注目されるが、次第にその活動は停滞、形式ばかりの存続を潔しとせず、69年解散を決意するに至る。68年に仙台へ転居していた村上は70年から、やはり数字や記号を取り入れた「気象シリーズ」に着手、ブルーやグレーを基調色として再び描写による制作を始める。続く「貨車シリーズ」では、「積空」「ワム」「テム」など、興味を抱いた貨車記号のイメージを独自の詩的解釈に基づいて画面に再構成していった。82年、弘前大学教育学部教授就任に伴い弘前に拠点を移す。津軽の民俗的大気に魅せられた村上は新たに「釘打ちシリーズ」を構想。津軽凧の裏打ちに使われていた古文書に思いがけなく美を発見。裏返して画面に貼り付け点を打ち線で結ぶ構成により津軽の記憶とイメージを形象化していった。2004(平成16)年盛岡に戻った後は、アトリエを花巻に置いて制作を続けていた。2005年には川崎市岡本太郎美術館を立ち上げとして回顧展「北に澄む」が開催された(萬鉄五郎記念美術館等に巡回)。翌06年には岩手町立石神の丘美術館で「村上善男展―1950年代を中心に 冷たい計算から熱い混沌へ…」が催されるが、村上自身は開催を目前にして世を去るかたちとなった。また美術家としてのみならず研究家としても知られ、萬鉄五郎をはじめ郷土に纏わる著述を特に多く残している。主な著書に『松本竣介とその友人たち』(新潮社、1987年)、『萬鉄五郎を辿って』(創風社、1997年)、『東北という劇空間』(創風社、2004年)などがある。

脇田愛二郎

没年月日:2006/01/26

 立体造形、版画等の平面作品を、アメリカ及び国内で発表していた美術家脇田愛二郎は、肝不全のため、東京都文京区の病院で死去した。享年63。1942(昭和17)年、現在の東京都港区に、画家脇田和(1908―2005)の二男として生まれる。64年武蔵野美術大学を卒業後に渡米。翌年からニューヨークに住み、ブルックリン・アート・ミュージアムに学ぶ。69年、ニューヨークのマーサ・ジャクスン・ギャラリーで個展を開催。60年代から工業製品であるワイヤーを素材に使用、円形状に並べたレリーフ状の作品を制作、さらにそれを転用して版画作品を制作した。以後、70年代にかけて、「螺旋」をテーマにした立体(木製、金属製)、平面作品を発表した。また78年に『脇田愛二郎の環境造形』(アート・テクニック・ナウ第12巻、河出書房新社)を刊行。(95年に増補版を刊行。)同書で、「彫刻とか、絵とか、版画とかさまざまなカテゴライズされた仕事をするのではなく、人間と物と場の相関関係を重視すべきであろう。」と述べている。その創作活動は、素材を問わない多岐なものだが、いずれも立体、平面作品において、つねに作品が置かれることで、その空間の意味を変移させようとする志向がはたらいていたといえる。そのために脇田は、70年代から「環境」への関心を早く持つようになった。70年代末頃からステンレス製の直方体に木製の太いリングがからみつく作品を発表、これにより83年に第11回平櫛田中賞を受賞。85年、詩人辻井喬との共作で詩画集『錆』(河出書房新社)を刊行。86年の第2回東京野外現代彫刻展(会場、東京都世田谷区砧公園)に「ねじられた錆の柱」を出品、大賞受賞。同年7月に渋谷区立松涛美術館にて「特別陳列脇田愛二郎」展を開催。鉄、アルミニウム等の金属による立体作品「ねじられた柱」のシリーズ16点を出品した。

田中敦子

没年月日:2005/12/03

 国内外で活動した現代美術作家の田中敦子は12月3日午後3時55分、肺炎のため奈良市の病院で死去した。享年73。田中は、1932(昭和7)年2月10日に大阪市に生まれ、50年3月樟蔭高等学校卒業、美術大学受験準備のため大阪市立美術館付設美術研究所に入所。翌年、京都市立美術大学に入学するが、秋には退学し、再び上記の研究所に通うこととなり、後に夫となる金山明を知り助言をうけるようになった。金山、白髪一雄、村上三郎等によって52年に結成された0会展に54年に参加出品。55年に金山、白髪、村上とともに吉原治良の「具体」に参加、同年10月第1回具体美術展(東京、小原会館)に出品。56年10月第2回具体美術展(同上)に「電気服」及び「電気服」のための素描を出品。57年4月、第3回具体美術展(京都市美術館)に「電気服」等を出品した。およそ200個ほどの様々な色に着色された電球、管球が点滅する服と電気コードにおおわれた「電気服」によって、さまざまなパフォーマンスをくりひろげて具体美術の作家のなかでも一躍注目された。その後も、舞台においてさまざまな色の衣裳に変化する「舞台服」、さらに「電気服」からの展開としてエナメル塗料による平面作品を制作するようになった。その間、来日したフランスの美術批評家ミシェル・タピエ、サム・フランシス等との交流から、平面作品に制作の中心が移行していった。画面には、大小さまざまな円形が色鮮やかに描かれ、電気コードをおもわせる線が縦横に絡みあう絵画を描くようになった。しかし、それも「絵画」というにはいささか異なる表現であり、平面上での絵具を用いた持続的で同時に変化を求めた実験ともいえるものであった。80年代に入ると、国内外での旺盛な個展活動とともに、81年9月開催の「現代美術の動向1 1950年代-その暗黒と光芒」(東京都美術館)、83年5月開催の「1920-1970 日本のダダ/日本の前衛」(東京大学教養学部美術博物館)、86年12月開催の「JAPON DES AVANT GARDES 1910-1970」(パリ、ポンピドーセンター)など、日本の現代美術を回顧する展覧会には、必ずといってよいほど欠かせない作家として出品された。この傾向は、90年代にも引きつがれ、現代美術及びその活動の基点となった「具体美術協会」の意味の検証が繰り返されるなか、その芸術の評価がつねに論議されていきた。2001(平成13)年3月には、「田中敦子 未知の美の探求 1954-2000」(芦屋市立美術館、静岡県立美術館に巡回)が開催され、その一貫した実験精神の展開の全貌が回顧され、日本の戦後及び現代美術において特異な位置にある作家を総括的に評価する試みとなった。

水谷勇夫

没年月日:2005/06/05

 美術家の水谷勇夫は6月5日午後6時29分、腹部大動脈瘤破裂のため愛知県半田市の病院で死去した。享年83。1922(大正11)年1月1日名古屋市の果物商の家に生まれる。独学で絵を学び、1942(昭和17)年電信第10連隊に入隊して中国へ赴き、そこでの不条理な戦争体験を契機に人間をテーマとした制作を決意。46年の復員後は闇屋をしながら絵を描き、50~51年新制作協会の名古屋グループ、52~54年美術文化協会に所属。55年には匹亜会を結成するも翌年には退会。58年の村松画廊での初個展以降、数々の個展発表にくわえて読売アンデパンダン展や毎日新聞社主催の現代日本美術展に出品、「超現実主義の展開」展(東京国立近代美術館 60年)、「現代美術の動向」展(京都国立近代美術館 64年)、「国際超現実主義展」(オランダ・ユトレヒト市、64年)といった企画展への出品も多く、また針生一郎企画による第1回「これが日本画だ!」展(日本画廊 66年)、翌年の第2回展への出品は、戦後日本画の改革者としてのイメージを定着させた。その一方で60年に土方巽の舞台美術を手がけ、土方や大野一雄といった舞踊家と親交を結ぶなど幅広い活動を展開。65年には長良川河畔で開催された「岐阜アンデパンダン・アート・フェスティバル」で土俗的なテラコッタ作品を発表、70年代には公害を含めた人間社会の危機を意識し、テラコッタ作品を四日市コンビナートや海岸、山村等に置く行動芸術「玄海遍路」を始める。80年代には真冬に雪の山中に入り、紙に胡粉と墨を流して自然の冷気で凍結させる“凍結絵画”を制作。1993(平成5)年名古屋市芸術賞特賞を受賞し、これを記念して翌年『水谷勇夫作品集』を刊行。98年には池田20世紀美術館で「水谷勇夫 50年の造形の軌跡 終りから始りから」が開催。2000年には体の不調もあり愛知県阿久比町のケアハウスに居を移すも、同施設を制作の拠点として最期まで精力的に活動を続けた。

石田徹也

没年月日:2005/05/23

 私的なイメージを通して現代社会におかれた孤絶した人間存在を表現して注目されていた美術家の石田徹也は、5月23日に急逝した。享年31。1973(昭和48)年6月16日に静岡県焼津市に生まれる。1992(平成4)年3月静岡県立焼津中央高校を卒業、同年4月武蔵野美術大学伝達デザイン科に入学。在学中の95年10月に第6回グラフィックアート「ひとつぼ展」グランプリ受賞、翌年3月には第63回毎日広告デザイン賞で優秀賞を受賞。同年、同大学を卒業。97年3月の第64回毎日広告デザイン賞で奨励賞受賞。同年9月、JACA日本ビジュアル・アート展でグランプリ受賞。98年10月、キリン・コンテポラリーアワードで奨励賞受賞、同月の第7回リキテックス・ビエンナーレでも奨励賞受賞。99年9月、銀座ギャラリーQ&QS(東京・銀座)で個展開催。2001年2月のVOCA展2001では奨励賞を受賞するなど、早くから注目されていた。同賞受賞作「前線」は、自身の分身ともみえる無表情な青年と白髪の幼児がベンチにたたずむ情景を描いており、荒涼とした心象風景にとどまらず、現代社会のなかで疲弊し、排除された人間の在りようを表現した作品であった。没後の06年6月、『石田徹也遺作集』(求龍堂)が刊行され、また同年9月にはNHK新日曜美術館「悲しみのキャンバス・石田徹也の世界」が放映されたことによりひろく知られるようになった。07年3月には焼津市教育委員会から特別表彰され、同年7月には静岡県立美術館県民ギャラリーにて「石田徹也―悲しみのキャンバス」展が開催された。その作品の画面には、つねに自画像のように自己イメージが投影され、独特の幻想性と設定のユニークさによって現代の社会に生きる青年が抱く痛みと悲しみを伝えるとともに、管理社会のなかで生きる人間の閉塞感を告発する、鋭くも繊細な表現者であり、その急逝が惜しまれる。

小野忠弘

没年月日:2001/08/05

 美術家の小野忠弘は、8月5日午前3時、急性心不全のため福井県三国町の自宅で死去した。享年88。1913(大正2)年3月3日、青森県弘前市に生まれる。31(昭和6)年、青森県立弘前工業学校土木科を卒業、33年に東京美術学校彫刻科に入学、在学中、鳥海青児の知遇をうけ、アトリエに出入りするようになり、油彩画を描くようになる。38年、同学校を卒業後、徳島県立富岡中学校の図画担当教員として赴任した。卒業後から42年まで、春陽会に出品をつづけた。42年、福井県立三国中学校に転任。47年、北陸美術会が結成され、会員として第1回展から出品をつづけた。50年、第14回自由美術家協会展に出品、会員となる。53年、ロンドン国際彫刻コンクールに「無名政治犯」を出品し、佳作賞を受賞。同年、福井大学工学部の非常勤講師となり、「造形学」を担当する。57年、国立近代美術館の「前衛美術の15人展」に「タキスの天」、「モナノドック」等を出品。同年、ブリヂストン美術館でのミシェル・タピエ選「世界・現代芸術展」にも出品。59年、第5回サンパウロ・ビエンナーレに「シモセファロス」(立体)を出品、翌年、第30回ヴェネツィア・ビエンナーレに「作品」(絵画)2点、「作品」(立体)1点を出品、また第4回現代日本美術展に「アンチプロトン」を出品した。この頃より、鉄屑、陶片、木屑などの廃品によって構成したジャンク・アートとして、国内外から評価をうけるようになった。73年、福井県立三国高等学校を定年退職。79年、東京セントラル美術館で個展を開催し、106点を出品。80年には、東京の小田急グランドギャラリーで「妖星の画家―小野忠弘」展を開催、「タダの人」シリーズ、「テラテラの曠野」シリーズなど新作100点余を出品した。これらの作品は、重厚なマチエールに線がのたうちまわるような情念的な表現の作品であった。85年11月、福井県立美術館で「隕石・縄文・写楽の系譜 小野忠弘展」が開催され、戦前の作品から新作「ゲームの廃墟」シリーズまで224点を出品した。福井にあって、終生、反骨的な気概のもと、情念的な作品をつくりつづけた美術家であった。

斎藤義重

没年月日:2001/06/13

 現代美術家の斎藤義重は、6月13日、心不全のため横浜市内の病院で死去した。享年97。1904(明治37)年5月4日に生まれる。本籍は、東京市四谷区左門町。1920(大正9)年、京橋の星製薬会社で開かれたロシア未来派の亡命画家ダヴィード・ブルリューク、ヴィクトル・パリモフの展覧会を見て、衝撃を受ける。以後、築地小劇場における村山知義の舞台美術に感動するなど、大正期の新興芸術に関心をよせるようになる。1933(昭和8)年、東郷青児、阿部金剛、古賀春江が主宰する「アヴァンガルド洋画研究所」に入り、桂ユキ子を知る。36年、第23回二科展に初入選する、同年、第14回黒色洋画展にも出品。38年、解散した黒色洋画展の山本敬輔、高橋迪章らと絶対象派協会を結成、また同年には、二科会内の前衛的な傾向の作家によって結成された九室会に会員として参加。翌年、美術文化協会が結成され、参加することになり、九室会を退く。53年、美術文化協会を退き、以後、団体に属することはなかった。57年、第4回日本国際美術展で「鬼」がK氏賞を受賞、翌年、瀧口修造の紹介により東京画廊での最初の個展を開催。59年、第5回日本国際美術展に出品した「青の跡」によって、国立近代美術館賞を受賞。同年、第5回サンパウロ・ビエンナーレに出品。60年、第4回現代日本美術展に出品した「作品R」によって最優秀賞を受賞。同年の第30回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品。61年には第5回サンパウロ・ビエンナーレに出品、国際絵画賞を受賞。60年代からは、ドリルをつかって、画面を掘り込む平面作品を制作するようになり、さらに「クレーン」、「ペンチ」シリーズなど、合板にラッカーを塗った明快な作品へと展開していった。64年、多摩美術大学の教授になる。在職中は、その後現代美術の分野で活躍することになる多くの学生を指導したことで知られる(73年に退職)。78年には、東京国立近代美術館において「斎藤義重展」(出品作品・資料点数108点)が開催された。80年代にはいると、立体と平面にわたる「反対称」、「反比例」のシリーズがはじまり、84年、東京都美術館、栃木県立美術館、兵庫県立近代美術館、大原美術館、福井県立美術館を巡回した「斎藤義重展」(出品点数98点)が開催された。85年1月、実験的制作活動による現代美術への貢献を評価され、昭和59年度朝日賞を受賞。80年代末からは、黒い木を連結したインスタレーションである「複合体」シリーズがはじまり、平面、立体の区別なく、空間を構成した作品を発表した。1993(平成5)年、77点の作品によって構成された「斎藤義重による斎藤義重展 時空の木―Time・Space・Wood」が、横浜美術館と徳島県立近代美術館において開催された。99年には、神奈川県立近代美術館において「斎藤義重展」(出品点数53点ほか)が開催された。没後の2003年1月から翌年3月まで、岩手県立美術館、千葉市美術館、島根県立美術館、富山県立近代美術館、熊本市現代美術館の全国5館を巡回する回顧展が開催され、戦前の作品から遺作まで158点によって構成された内容によって、その弛むことのなかった「前衛」の軌跡が回顧された。日本の戦後から現代美術を顧みるとき、欠くことのできない多くの作品の残し、また「もの派」をはじめ、多くの作家に影響を与えたことも忘れられない。

北代省三

没年月日:2001/02/28

 多分野にわたり表現活動をした美術家の北代省三は、2月28日午後5時15分、埼玉県熊谷市の病院で脳出血のため死去した。享年79。1921(大正10)年、東京市芝区白金に生まれる。1939(昭和14)年、麻布中学校を卒業、同年新設された新居浜高等工業専門学校機械科に入学。41年、太平洋戦争勃発にともない、同学校を繰り上げ卒業する。翌年、陸軍に応召、終戦をサイゴンで迎える。47年に復員。48年、日本アヴァンギャルド美術家クラブ主催のモダンアート夏期講習会に参加、同じ受講生であった福島秀子、山口勝弘を知る。同年10月、第12回自由美術家協会展に初出品し、また岡本太郎の勧めによりアヴァンギャルド芸術研究会に参加する。50年、この年より福島、山口とともに音楽家の鈴木博義、武満徹、福島和夫らと交流する。同年9月には、芥川也寸志の依頼により横山はるひバレエ・アート・スクール公演「失楽園」(日比谷公会堂)の舞台美術、ポスター、プログラムのデザインを手がけた。翌年、上述のグループに、さらに音楽家の秋山邦晴、山崎英夫が参加し、音楽、美術、写真、照明などによる総合芸術グループとして活動をすることになり、瀧口修造によって「実験工房」と名づけられた。同年10月、瀧口の企画により第1回個展(タケミヤ画廊)を開催した。11月、ピカソ祭バレエ「生きる悦び」(日比谷公会堂)の舞台美術とプログラムをデザインし、これが「実験工房」の第1回発表会となった。同グループは、実質的に57年まで活動をつづけた。52年1月の第2回発表会では、モビールによる舞台美術を制作し、個展でも、それまでの透明感のある幾何学的な抽象絵画にくわえてモビールを発表した。その後、モビールから、次第に写真への関心がたかまり、56年7月には、写真による最初の個展を開催した。66年には、アラビア石油カレンダーの写真を担当し、第17回全国カレンダー展で大蔵省印刷局賞を受賞。70年、石元泰博、岩宮武二と撮影にあたった写真集『日本万国博の建築』(朝日新聞社)を刊行したが、これ以後、商業写真から遠ざかった。かわって模型飛行機製作に熱中し、76年には、『模型飛行機入門』(美術出版社)を刊行した。81年、「現代美術の動向Ⅰ 1950年代―その暗黒と光芒」展(東京都美術館)、86年には「前衛芸術の日本1910―1970」展(ポンピドー・センター)に旧作を出品したことから、再評価を背景に旧作への関心がたかまり、1989(平成元)年には40年代から50年代の作品を再制作し、個展(村松画廊)で発表した。没後の2003年4月には、「風の模型―北代省三と実験工房」展が、川崎市岡本太郎美術館において開催され、生前の再制作作品を含む128点によって、旺盛な実験精神にうらづけられた、その多彩な表現活動が回顧された。

畦地拓治

没年月日:2000/12/18

 現代美術家の畦地拓治は、12月18日午後10時25分、くも膜下出血のため東京都三鷹市の病院で死去した。享年52。畦地は、1948(昭和23)年11月、木版画家畦地梅太郎の二男として、東京に生まれた。70年、東京芸術大学美術学部彫刻科を卒業。73年、同大学大学院修士課程修了。個展での発表活動をはじめた頃より、CARVINGと題した作品では、木をグラインダーで削っただけの行為の痕跡と素材そのものを提示しようとしたものであった。これは、同時代の「もの派」といわれるコンセプチュアル・アートの興隆を背景としており、この作家の起点をしめすものであった。75年の第10回ジャパン・アート・フェスティバル(東京、上野の森美術館)で通産大臣賞を受賞。82年には第16回日本国際美術展で、栃木県立美術館賞を受賞。85年から1年間、文化庁在外研修員としてニューヨーク州立大学の各員芸術家として滞在した。すでに、この頃には、木、金属、大理石などの断片を組み合わせた平面に、波の写真をシルクスクリーンで転写し、さらにグラインダーで波動の形に呼応するように削る作品CARVING -WAVEのシリーズを制作していた。イメージ、素材、身体性が重層的にかさなりあい、虚実の折り重ねをしめす、きわめてコンセプチュアルなものとなっていた。個展の活動のほか、83年、「現代美術における写真」(東京国立近代美術館等)、87年、「現代美術になった写真」(栃木県立美術館)、1991年「マニエラの交叉点-版画と映像表現の現在」(町田市立国際版画美術館)など、現代美術における写真、版画などを用いた先鋭的な試みを検証しようとする企画展に出品していた。

小林昭夫

没年月日:2000/07/24

 画家、現代美術家で、現代美術の教育機関のひとつであるBゼミスクーリングシステム所長であった小林昭夫は、7月24日、胸部大動脈りゅう破裂のため横浜市南区の病院で死去した。享年71。特色ある教育機関を自営し、多くの現代美術家を輩出した小林は、1929(昭和4)年2月18日、横浜本牧に生まれた。横浜市立南太田小学校を経て、45年神奈川県立第一中学校(現 同県立希望ヶ丘高校)を卒業。同年海軍経理学校に入学するが、国立東京商科大学予科(現 一橋大学)に転入学する。同学在学中の46年ハマ展に初入選。翌47年第15回独立展に「風景」で初入選し、同年より児島善三郎に師事。50年第18回独立展に「風景(河)A」を出品する。51年東京商科大学を、卒業論文「セザンヌ論」を提出して卒業し、野沢屋(現 横浜高島屋)に入社。同年第19回独立展で新人賞を受賞するが、次第に団体展への疑問を抱く。53年野沢屋内に美術売り場が設置され、その仕入れを担当し、また、同社包装紙・ポスター等を手がける。54年から雑誌や書籍のイラストを描き、翌年には雑誌「文学界」「文芸」等のイラストを描いたほか、雑誌「あるびよん」に「ウイリアム・ブレイク論」を発表する。一方でアメリカ留学を志し、56年、アメリカのペンシルベニア美術学校などから奨学金支給の許可を受け、アメリカ文化センターで個展を開催。同年12月サンフランシスコ・スクール・オブ・ファインアーツに奨学生として入学する。米国滞在中、デ・クーニング、アシル・ゴーキーなどアメリカ抽象表現主義に触れ、岡田謙三を知る。58年Printmakers National Exhibit in Oaklandに出品して受賞し、同年サンフランシスコのFiengarten Gallery in San Franciscoで個展を開催して好評を博す。59年Fiengarten GalleryのCarmerl支店で個展を開催。同年デヤング美術館の無給助手となり、シンシナティでの国際版画ビエンナーレに招待出品。60年サンタバーバラ美術館で個展を開催し、ヨーロッパ旅行を経て同年帰国する。帰国に際し、全作品をFiengarten Galleryに売却。帰国後の61年「青年抽象作家展」(村松画廊)に出品。62年小林昭夫洋画研究会を横浜市中区相生町進交会館に設立。デッサン、油彩画の指導の一方で多くのゲスト講師を招き新しい美術のための多角的アプローチを模索する。67年、同年4月に開校予定であったデザイン専門学校「富士芸術学院」での現代美術講座が頓挫し、これを契機として同年10月「現代美術ベイシックゼミナール(Bゼミ)」を横浜に開設する。これに先立ち9月に同ゼミの開設を記念してシンポジウム「現代美術とは何だ」(参加者:小林昭夫、斎藤義重、城山三郎、日夏露彦、黛敏郎)を開催する。同時に斎藤義重とのディスカッションとスタジオ制作を中心とするAゼミも発足。当時のAゼミ受講者に小林はくどう、小清水漸、菅木志雄、吉田克郎らがいる。68年2月「九紫友びきひのえさる、今日は歴史の終りで始め、隙間で行うFace to Face」というイベントを開催。同年8月、後のBゼミ展につながる「にっぽんかまいたち展」を小林はくどう、小清水漸らと企画し、旧横浜市民ギャラリーで開催する。60年代後半から70年代のBゼミ専任講師には小清水漸、斎藤義重、関根伸夫、宇佐美圭司、高松二郎、李禹煥、柏原えつとむ、中原佑介、彦坂尚嘉、多木浩二らがいる。80年代に入ると、諏訪直樹、岡崎乾二郎、川俣正、鷲見和紀郎、戸谷茂雄、安斎重男らが選任講師をつとめた。そのうちの幾人かはBゼミ出身者であり、そのことにも現れるように、80年代のBゼミは、現代美術家として社会的認知を得る作家を輩出する独自の教育機関として注目を集めた。90年代には、赤塚祐二、海老塚耕一、小山穂太郎、Azby Brown、笠原恵実子、宇波彰、西雅秋、丸山直文、蔡国強、鈴木理策、青木野枝らが専任講師をつとめている。この間、小林はBゼミ所長としてその講義内容、Bゼミ展の企画などの指揮をとった。講師陣の人選にも見られるように、小林は常に変化していく社会の中で鋭敏な感性を働かせ、その時々の造形の問題と取り組み続けた。写真、ビデオ、コンピュータなど、狭義の「美術」には容れられなかったメディアにも逸早く注目し、Bゼミの講義内容に盛り込んでいる。この間、同ゼミの名称は86年にBゼミSchooling Systemとなり、1991(平成3)年には有限会社となっている。戦後の日本美術界において、戦前に結成された団体の相次ぐ復興が大きな流れを形づくって行く中で、新しい造形のあり方を真摯に考え、それを自らの制作の問題にとどまらず、共同で学びあい、模索しあうBゼミというシステムへ結実させた小林の仕事は、20世紀後半の日本美術史の中で特筆すべきものである。なお、Bゼミは99年に副所長に就任した昭夫の長男晴夫によりBゼミLearning Systemと改称されて、現在に至っている。

吉田克朗

没年月日:1999/09/05

 武蔵野美術大学教授の美術家吉田克朗は9月5日午後2時39分食道がんのため神奈川県鎌倉市の病院で死去した。享年55。1943(昭和18)年9月23日、埼玉県深谷市に生まれる。68年、多摩美術大学絵画科を卒業、在学中は斎藤義重の指導をうけた。同年、第8回現代日本美術展のコンクール部門に、机を二つに切りはなした作品「cut-1」が初入選した。その後、個展によって発表活動をするかたわら、69年の「現代美術の動向」展(京都国立近代美術館)、翌年の「現代美術の一断面」展(東京国立近代美術館)などの企画展に出品した。作品は、紙、石、綿、角材、電球、ロープなど、未加工のままの素材をつかい、それらを組み合わせることで、日常での意味からも、物質性からも「もの」そのものを解きはなち、存在を提示することで表現たらしめようとするもので、題名には「cut-off」(切り離す)という言葉がつかわれていた。この当時、すでに「もの派」という呼称が生まれており、吉田もその中核的な活動をする作家のひとりとして評されていた。一方、版画制作を同時期からはじめており、身辺のスナップ写真をつかったシルクスクリーンによる作品を制作し、70年の第1回ソウル版画ビエンナーレでは、大賞を受賞した。以後、制作の中心を版画制作にうつし、国内外の版画コンクールに出品をつづけた。73年から翌年にかけて、文化庁海外芸術研修生としてイギリスに滞在。70年末には、個展において、傘、衣服、建物の一部に絵の具をつけて、麻布の平面に押し当てる作品を発表した。これも、いわゆるフロッタージュとはことなり、日常の認識からはなれた「もの」としての事実を表現しようとした作品であった。しかし、こうした手の行為による制作は、80年代後半から、手の指、手のひらに直接黒鉛をつけて、画面にむかう平面作品に展開していった。作品は、いずれも大画面に、肉塊のようなフォルムがかさなりあったような圧倒的なイメージを示しつつ、そこに手の行為の痕跡をとどめていくというものであり、この制作方法は最後までつづけられた。「もの派」のひとりとして出発したこの美術家は、行為としての表現、ものそのものとしての表現を採りつづけたことで、現代美術に新しい地平をきりひらき、確かな足跡を残したといえる。

久野真

没年月日:1998/08/22

 美術家の久野真は8月22日午前9時、前立腺がんのため名古屋市の自宅で死去した。享年77。大正10(1921)年3月3日、名古屋市に生まれる。昭和18(1943)年東京高等師範学校芸能科(現筑波大学)を卒業。同27年より新制作協会を発表の場とし、石膏による作品で話題を呼ぶ。しかしその素材の速効性に対し次第に疑問をもつようになり、同33年頃から鉄を主体に石膏や布、特種染料等の多彩な材料を用いた作品を手掛けることになる。同34年の第23回新制作協会展では新作家賞を受賞するも、翌年第24回展への出品を最後に同会を退会、その一方で同34年のイタリアでのプレミオ・リソーネ国際美術展への招待出品、同36年のアメリカのカーネギー財団主催によるピッツバーグ国際美術展への招待出品、同38年のロンドンの画廊マクロバート&タナードでの個展開催、同39年のアメリカ美術連盟主催による現代日本絵画彫刻展への招待出品と、東京画廊の支援を受けながら海外で作品を発表するようになる。同41年から翌年にかけてロックフェラー財団運営のジャパン・ソサエティの奨学金を得てニューヨークに研究滞在、帰国後はニューヨークで得た自由の精神を日本で試そうと考え、一時期金属から離れてナイロンやポリウレタンフォーム、発砲スチロールなどの合成樹脂を素材とした立体作品の仕事に取り組む。しかし同47年の個展から再び金属による作品を制作、使用する鉄も極力情感を排除するために錆びにくく一定の表情を保つステンレススチールを採用し、画面も鋭角的な線による突出感を強調するような幾何学形態を不連続で不安定な構図のなかに配置した作品を創り出した。その後窓枠のような矩形を少しづづずらしながら二重三重に重ね合わせた立体的構造の作品を経て、同60年代にはかつて情感を排除すべく用いることのなかった曲線を表現のなかに復活させ、題名も「長い手紙-0」のような前にはない具体的な名称をつけるなど新たな展開をみせていた。平成10(1998)年には愛知県美術館にて「久野真・庄司達展 鉄の絵画と布の彫刻」が開催されている。

高松次郎

没年月日:1998/06/25

 60年代から今日まで、芸術表現に一貫して根源的な問いとかけと視点をもちつづけながら、作品と言説においてつねに現代美術をリードしていた美術家高松次郎(本名、高松新八郎)は、直腸ガンのため東京都三鷹市の病院で死去した。享年62。昭和11(1936)年、2月20日東京に生まれ、同34年東京芸術大学美術学部絵画科油絵専攻を卒業、同年3月に第10回読売アンデパンダン展に出品。同38年、赤瀬川原平、中西夏之とグループ「ハイレッド・センター」を結成。同年、「ミキサー計画」(新宿第一画廊、宮田内科診療所)で、「紐」シリーズの作品を発表、さらに街頭ハプニングなど反芸術的な運動をはじまた。また、同年の第15回読売アンデパンダン展に「カーテンに関する反実在性について」と題する作品を発表、これは上野駅から会場の東京都美術館までを紐でつづけるというもので、はやくも観念性のつよい傾向をしめしていた。このように点、線(紐)といった、最小限の表現の単位を最小限の素材(針金)から自身の表現を開始した。ついで、同39年頃から、画面に人間の影だけを描き、実在物と虚像の在り方を問いかける「影」のシリーズをはじめ、この年の第8回シェル美術賞展に「影A」を出品、佳作となり、さらに翌年の第9回シェル美術賞展に「影の圧搾」、「影の祭壇」を出品、1等賞となった。同40年の第2回長岡現代美術館賞展に「カーテンをあけた女の影」を出品、優秀賞をうけた。同42年からは、「遠近法」のシリーズをはじめ、立体作品によって視覚として感じられる遠近感と遠近法との差異を提示しようとした。また、70年代には、木、鉄、布、紐など、さまざまな物質を組み合わせ、構成する「複合体」のシリーズは、立体作品というよりも、空間をつかいながら、物質とそこにはたらく重力の関係を注視することが意図され、今日でいうインスタレーションに近い作品となっている。同47年、第8回東京国際版画ビエンナーレに、「The Story」を出品、国際大賞を受賞した。これは、文字や記号をつかった作品で、あらたなシリーズとなった。その後も、同48年に第12回サンパウロ・ビエンナーレ、同52年にはドクメンタ6(ドイツ、カッセル市)に出品するなど、国内外において作品を発表しつづけた。80年代は、身体的なストロークを残す、平面作品を制作した。日本の現代美術界にあって、終始一貫して、観念性の深い、知的な視覚表現をもとめつづけた作家であったといえる。没後の平成11(1999)年10月に、国立国際美術館において「高松次郎―『影』の絵画とドローイング」展、平成12年5月には、千葉市美術館において「高松次郎 1970年代の立体を中心に」があいついで開催された。

立石大河亞

没年月日:1998/04/17

 美術家の立石大河亞は4月17日午後7時40分、肺がんによる心不全のため死去した。享年56。昭和16(1941)年12月20日、福岡県伊田町(現・田川市)に生まれる。本名紘一。少年期を筑豊の炭坑地域で過ごした後、同36年に上京、武蔵野美術大学短期大学芸能デザイン科に入学する。同38年第15回読売アンデパンダン展に玩具や流木を貼りつけたレリーフ的作品「共同社会」を出品、針生一郎ら評論家の絶大な支持を集める。同年武蔵野美術短期大学芸能デザイン科を卒業、次回の読売アンデパンダン展にネオン絵画「富士山」を出品すべく品川のネオン会社に翌年まで勤務、エアーブラシの技法を身につける。同39年東野芳明の企画による南画廊での「ヤング・セブン展」、および初個展の「積算文明展」で旭日旗のイメージをとりこみつつ立体的ロゴ等の広告的表現による作品を発表し、日本ポップ・アートの嚆矢としてさらなる注目を浴びる。またこの年、中村宏と観光芸術研究所を設立し、多摩川川原で旗揚げ展を開催、以後富士山や漫画のキャラクターといった大衆的なイメージを引用した作品を制作する。観光芸術研究所は同41年にその活動を止め自然解散となるが、その前後から漫画を雑誌に発表しはじめ、同43年からはタイガー立石のペンネームを使用するようになる。同44年渡伊し、ミラノに滞在し欧米各地で個展を開催、同46年~49年にはオリベッティ社のエットレ・ソットサス工業デザイン研究所に嘱託として在籍しイラストレーション等を手がける。またミラノ滞在中の同44年頃から漫画の如く分割された画面をもつ「コマ割り絵画」を描き始める。同57年帰国、その後も油彩画、掛軸、屏風、陶土のオブジェなど表現を多様に変化させながら作品を造り続ける。平成2(1990)年の市原での個展以後、立石大河亞の名を使用。同4年アルティウムで多次元パノラマ絵巻展、同6年郷里田川市美術館で「立石大河亞1963―1993展 筑豊・ミラノ・東京、そして…」を開催。没後の同11年には田川市美術館で「立石大河亞展 THE ENDLESS TIGER」、O美術館で「メタモルフォーゼ・タイガー 立石大河亞と迷宮を歩く」展が開催された。

菅井汲

没年月日:1996/05/14

 現代美術家の菅井汲は、5月14日午後1時35分、心不全のため神戸市の六甲病院で死去した。享年77。大正8(1919)年3月13日、神戸市東灘区御影町に生まれ、幼少時、心臓弁膜症と診断され、病床生活を送り、そのため中学進学の時期にも遅れたため、昭和8(1933)年知人のすすめで大阪美術学校に入学した。しかし、病後の回復も充分ではなかったことから退学し、同12年から20年まで、阪急電鉄の宣伝課に勤務し、商業デザインの仕事に従事した。自作の油彩画を吉原治良から批評してもらいながら、独学していたが、二科展などには落選しつづけた。同27年にフランスに渡り、同29年には、パリのクラヴェン画廊と契約して、最初の個展を開催した。翌年には、リトグラフを試みるようになった。1950年代後半から60年代前半には、重厚なマチエールと単純化された土族的なフォルムによる抽象絵画を制作していた。同32年には、第1回東京国際版画ビエンナーレにリトグラフを出品、同年の新エコール・ド・パリ展(ブリヂストン美術館)にガアッシュを出品、これが日本での最初の作品紹介となった。また、同33年には、カーネギー国際美術展(ピッツバーグ)、翌年には第2回ドクメンタ展(カッセル)、第3回リュブリアナ国際版画展など、国際展に出品をかさね、フランス国内から国際的にも高い評価をうけるようになった。同35年、第2回東京国際版画ビエンナーレ展に出品、東京国立近代美術館賞を受けた。同42年、ヴァカンスの帰路、自動車事故をおこし、頚部骨折の重傷を負い、完治まで数年を要した。同44年、東京国立近代美術館から依頼された壁画「フェスティバル・ド・トーキョウ」が完成し、その取付に立ち会うために、渡仏以来、18年ぶりに帰国した。制作面では、「オート・ルート」シリーズなど有機的なフォルムと明るい色彩による抽象表現から、70年代以降は、「フェスティヴァル」シリーズなど道路標識をおもわせる無機的で、規格化されたフォルムと明快な色彩によって構成された平面作品を制作するようになった。戦後、欧米を中心に活躍しはじめた日本人作家としては、もっとも早い位置にあり、国際的な評価を得た画家であった。同58年から翌年にかけて、初期作品から近作まで80点によって構成された国内で最初の回顧展「菅井汲展」が東京の西武美術館、大原美術館を巡回した。平成3(1991)年には、芦屋市立美術博物館で、翌年にも大原美術館でそれぞれ個展を開催した。画集には、『菅井汲作品集』(昭和51年、美術出版社)、『SUGAI 菅井汲』(平成3年、リブロポート)などがあり、また吉行淳之介、原広司等との対談集『異貌の画家・菅井汲の世界』(昭和57年、現代企画室)を残している。

吉原通雄

没年月日:1996/02/18

 具体美術協会のメンバーで、現代美術家の吉原通雄は、2月18日午後6時49分、脳内出血のため死去した。享年63。昭和8(1933)年兵庫県芦屋市に生まれ、父は美術家の吉原治良。関西学院大学在学中の同29年、具体美術協会の結成に参加、第1回展から同47年の第21回展まで、毎回出品した。第1回展では、地面にひろげたベニヤ板に、コールタールを流し、上から砂をふりかけ、アスファルト道路をはぎとったような絵画作品を出品した。同33年の大阪で開催された第2回「舞台を使用する具体美術」発表会では、美術と舞踏を融合させた「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を演出した。同40年には、オランダとドイツの前衛グループ「ヌル」が主宰するヌル国際展に、具体グループが招かれ、父治良とともにアムステルダムのステデライクミュージアムに赴き、展示にあたった。具体美術協会解散後は沈黙していたが、近年再び活動をはじめていた。

村上三郎

没年月日:1996/01/11

 具体美術協会のメンバーで、神戸松蔭女子学院短大教授の現代美術家の村上三郎は、脳挫傷のため兵庫県西宮市の自宅にて死去した。享年70。大正14(1925)年兵庫県神戸市に生まれ、昭和18(1943)年に関西学院大学に入学した。在学中に応召、戦後に復学し、同大学大学院にすすみ美学を専攻し同26年に修了した。美術については在学中に一時伊藤継郎に師事し、同24年の第13回新制作派展に出品、同29年の第18回展まで毎回出品した。同27年頃、新制作派協会内の先鋭分子とともに「0(ゼロ)会」を結成した。また、同年第5回芦屋市展に出品、平成9(1994)年の第47回展まで毎回出品した。昭和28年、白髪一雄と二人展を開催、このとき吉原治良と初めて出会った。同30年、具体美術協会会員となり、同年の第1回具体展から同47年の第21回展まで、毎回出品した。東京で開催された第1回展では、木枠に張ったハトロン紙の壁を何重にも重ね、身体ごとぶつかり打ち破るパフォーマンスをおこなった。また、同32年の大阪で開かれた第1回「舞台を使用する具体美術」では、ハトロン紙の巨大な屏風を棒をつかって破壊するパフォーマンス「屏風と取組む」をおこなった。具体美術協会での活動のほか、児童画教育にも携わり、平成2年には、神戸松蔭女子短期大学教授となった。

岡本太郎

没年月日:1996/01/07

 1970年に日本で開催された万国博覧会のシンボル太陽の塔で知られた美術家岡本太郎は1月7日午後3時32分急性呼吸不全のため東京都新宿区の慶応義塾大学病院で死去した。享年84。明治44(1911)年2月26日、神奈川県川崎市に生まれる。父は漫画家の岡本一平、母は歌人・小説家の岡本かの子。大正6(1917)年青山の青南小学校に入学するが教師に反感を持ち1学期でやめ、日本橋の日新学校に入るが、翌年慶応幼稚舎に入学。昭和4(1929)年、慶応普通部を卒業して東京美術学校に入学するが半年で退学。同年、父母が渡欧するのに同行し、翌5年よりパリで一人暮らしを始める。同7年、ピカソの抽象絵画に触発され抽象画を描き始め、同年サロン・デ・シュールアンデパンダンに出品したほか、アプストラクシオン・クレアシオン協会に参加し、アルプ、ブランクーシ、ドローネー、カンディンスキー、モンドリアンらと交遊する。同協会展に「リボン」「コントルポアン」などの抽象作品を次々に発表。同年GLM社から初めての画集『OKAMOTO』が刊行される。同12年、純粋抽象へのあきたらなさも一因となってアプストラクシオン・クレアシオン協会を脱退する。同13年国際シュールレアリスト・パリ展に「痛ましき腕」を出品して純粋抽象から具象的イメージを取り込んだ画風へと展開。ブルトン、エルンストら、シュールレアリストとの交遊を深めるが、芸術家としての孤独な立場に悩み、パリ大学に入学して哲学、心理学、社会学、民族学などを学ぶ。同14年パリ大学民族学科を卒業。同年ジョルジュ・バタイユを中心にコレージュ・ド・ソシオロジーを設立。同15年、第二次世界大戦の勃発により帰国を決意し、8月に日本に着き、翌16年の第28回二科展に滞欧作を特別陳列する。翌年1月に召兵され同21年6月に復員。美術界が政治・社会の変化に緩慢な対応を示すのを批判し、絵画制作のみならず、文筆活動、講演などを通して広く問題提起を行う。同23年花田清輝らとともに「夜の会」を結成。同27年、縄文土器に衝撃を受け、その後の制作へのひとつの指針を得る。同年11月より翌年5月まで戦後はじめての渡仏。同28年サンパウロ・ビエンナーレ日本代表、翌29年ヴェネツィア・ビエンナーレ日本代表となる。同31年建築家丹下健三設計による東京都庁舎に「日の壁」「月の壁」ほかの登板レリーフによる壁画を完成し、同34年丹下との協力による制作によってフランスの「今日の建築」(ARCHITECTURE D’AUJOURD’HUI)誌の設定した国際建築絵画大賞を受賞する。その後も壁画、モニュメント等、建築と結びついた作品を数多く制作する。同38年フランス、イタリア、アメリカ、メキシコを巡遊。同39年韓国に取材旅行。同42年中南米を訪れる。同年、1970年の日本万国博覧会・テーマ展示プロデューサーに就任。翌年、国際協力要請のためパリ、プラハ、ロンドンを訪れる。同45年、大阪で行われた万国博覧会では、「太陽の塔」「青春の塔」「母の塔」を含むテーマ館を完成し、テーマ館長をもつとめた。同45年大阪そごうで「太陽・生命・歓喜-岡本太郎展」を開催。同50年代に入ると、壁画、モニュメント、タブローの制作のみならず、テレビ、映画への出演、鯉のぼりやレコード・ジャケットのデザイン、文字の画集『遊ぶ字』に見られるレタリングなども行い、多岐にわたる活動によって広く人々に知られるようになった。同53年10月、西宮市大谷記念美術館で「岡本太郎の世界-現代の神話」展が開催され、同月平凡社から全作品集『岡本太郎』が刊行された。また、同55年東京新宿の小田急グランドギャラリーで「挑む-岡本太郎展」が、平成2年生誕地川崎の川崎市市民ミュージアムで「川崎生まれの鬼才 岡本太郎展」が開催されている。著作も多く、主要なものに『アヴァンギャルド芸術』(美術出版社 1950年)、『日本再発見-芸術風土記』(新潮社 1958年)、『岡本太郎著作集』全9巻(講談社 1979-80年)などがあり、画集に『岡本太郎の全貌』(編集・山本太郎 アトリエ社 1955年)、『T.OKAMOTO』(文・瀧口修造 美術出版社 1956年)などがある。没後、岡本太郎美術館が開設されることとなった。

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