本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





赤瀬川原平

没年月日:2014/10/26

 美術家・作家の赤瀬川原平(本名・克彦)は10月26日午前6時33分、敗血症のため都内の病院で死去した。享年77。 1937(昭和12)年3月27日、倉庫会社に勤務する父・廣長の次男として横浜で生まれる。長男の隼彦は作家の赤瀬川隼、三女の晴子は帽子デザイナー。幼少期は、芦屋、門司、大分と転居を繰り返す。41年から高校入学の52年まで過ごした大分では、画材店キムラヤのアトリエで活動していた「新世紀群」に出入りする。そこには、磯崎新、吉村益信らがおり、赤瀬川の進路に決定的な影響を及ぼす。高校入学直後に、名古屋にある愛知県立旭丘高等学校美術科に転校。同級には、荒川修作、岩田信市などがいた。55年、武蔵野美術学校(現、武蔵野美術大学)油画科に進学。サンドイッチマンのアルバイトをしながら生活するものの、貧困のうちに大学を中退。57年から日本アンデパンダン展、58年から読売アンデパンダン展に出品。58年には道玄坂にある喫茶店コーヒーハウスで初の個展を開催。このころには、社会主義リアリズムの影響を脱し、アフリカ原始美術に触発された絵画を制作していた。 59年4月、十二指腸潰瘍のため名古屋へ帰り、手術を受ける。60年、吉村と篠原有司男を中心とした「ネオ・ダダイズム・オルガナイザー」結成の呼びかけに応じて東京に戻る。このグループには、大分出身の吉村益信、風倉匠、名古屋時代の級友・荒川修作らがいた。彼らは、磯崎新設計による吉村のアトリエ「ホワイトハウス」を根城として活動したが、同年末には事実上活動を停止。この時期の赤瀬川は、廃物を利用したオブジェを制作していた。その後も、ネオ・ダダのメンバーと共に、62年8月15日、ヨシダ・ヨシエ発案による国立公民館での「敗戦記念晩餐会」などに参加。「敗戦記念晩餐会」の報告者として参加した雑誌『形象』の座談会で、「山手線事件」をおこなった高松次郎、中西夏之と知り合い、翌年、彼らと共にハイレッド・センターを結成。三人の他に、第四の公式メンバーである和泉達、非公式メンバーとして、グループ音楽の刀根康尚、小杉武久、『形象』編集者の今泉省彦、川仁宏、映画作家の飯村隆彦なども参加し、グループの匿名性を高める。赤瀬川個人の作品としては、梱包作品や模型千円札がある。後者は、同時期に起きた偽札事件「チ―37号事件」との関連で警察の目に留まり、65年11月に「通貨及証券模造取締法違反」で起訴される。このいわゆる「千円札裁判」は、芸術と法との関係を問う「芸術裁判」へと発展し、注目を集める。70年4月、上告が棄却され、懲役3月執行猶予1年の有罪が確定する。この時期には、「模型千円札」を理論的に正当化することも含めて様々な文章を執筆しており、70年に『オブジェを持った無産者』としてまとめられる。 68年に燐寸ラベルを収集する「革命的燐寸主義者同盟」、宮武外骨の著作などの珍本を集める「革命的珍本主義者同盟」、翌年には「娑婆留闘社」を結成して「獄送激画通信」を発行するなどの活動をおこなう。70年、今泉が代表を務める美学校の講師となる。赤瀬川教場からは、南伸坊、久住昌之らを輩出。同年、雑誌『ガロ』に初めての劇画「お座敷」を発表。また、69年から『現代の眼』(現代評論社)で連載を開始した「現代野次馬考」シリーズや70年から『朝日ジャーナル』に連載を開始した「野次馬画報」(のちに「櫻画報」と改題)など、いわゆるパロディ・ジャーナリズムに70年代半ばまで取り組む。78年、最初の小説「レンズの下の聖徳太子」を雑誌『海』に発表。79年、尾辻克彦名義で執筆した「肌ざわり」が中央公論新人賞を受賞。同年に「肌ざわり」が、翌年に「闇のヘルペス」が芥川賞候補作品となり、81年、「父が消えた」で芥川賞受賞。83年、『雪野』で野間文芸新人賞受賞。これら小説家尾辻克彦としての活動と並行して多くのグループを結成・活動しており、美学校の生徒たちとの「ロイヤル天文同好会」(1972年)や「超芸術探査本部トマソン観測センター」(1982年)、そこから発展した「路上観察学会」(1986年)のほか、「脳内リゾート開発事業団」(1992年)、「ライカ同盟」(同年)、「縄文建築団」(1997年)などがある。1998(平成10)年、『老人力』がベストセラーとなり、広く一般にその名を知られることとなる。 初期の絵画から、ネオ・ダダの廃品芸術、ハイレッド・センターでの模型千円札や梱包芸術という前衛的な美術作品だけではなく、パロディ漫画や小説、エッセイ、さらには路上観察学会のような非芸術にも目を向けるなど、その活動は多岐にわたり、いわゆる芸術家や画家といった枠組みに収まりきらない作家であった。これらの活動は、「赤瀬川原平の冒険――脳内リゾート開発大作戦――」(名古屋市美術館、1995年)、「赤瀬川原平の芸術原論展」(千葉市美術館他、2014年)といった展覧会でまとめられた。赤瀬川自身の経歴については、松田哲夫とのインタビュー形式による自伝『全面自供!』(晶文社、2001年)がある。また、読売アンデパンダン展周辺を描いた『いまやアクションあるのみ! 「読売アンデパンダン」という現象』(筑摩書房、1985年)、ハイレッド・センターの活動を描いた『東京ミキサー計画』(PARCO出版局、1984年)などは、戦後美術の状況を描写した資料として重要な役割を果たしている。

河原温

没年月日:2014/06/27

 現代美術作家の河原温は、6月27日にニューヨークで死去した。生没年月日は公表されていないが、2015(平成27)年にグッゲンハイム美術館(ニューヨーク)で開催された大規模な個展「河原温――沈黙」の図録に、上記の日付における略歴として「29,771日」と記されており、享年81であったと思われる。 河原温は、1951(昭和26)年に愛知県立刈谷高等学校を卒業して上京し、独学で絵画の制作を開始した。翌52年から56年頃までの約5年間に、日本美術会と読売新聞社のそれぞれの主催による二つのアンデパンダン展、「ニッポン」展、デモクラート美術展などの公募展やグループ展において、またタケミヤ画廊等で開催した何回かの個展を通じて、精力的に絵画作品の発表を行っている。この時期の河原の作品は、ロボットやマネキンを思わせる記号化された人体表現、遠近法を強調した空間表現、不規則多角形の変形カンヴァスや変形紙面の使用を特徴とし、非人間的でSF的な状況を不条理なユーモアとともに描出した具象的な絵画(油彩画および素描)であった。中でも「浴室」シリーズと「物置小屋の中の出来事」シリーズという二つの鉛筆素描連作(いずれも東京国立近代美術館蔵)は、戦後の閉塞した社会状況を象徴し、時代を代表する傑作として高い評価を受けている。油彩画としては「孕んだ女」(1954年、東京国立近代美術館蔵)や「黒人兵」(1955年、大原美術館蔵)などがある。 戦後世代を代表する新進画家として注目を集め、活躍が期待された河原だったが、少数の観客しか目にしない展覧会での作品発表という形式に限界を感じ、より広範な観客が鑑賞できる媒体として、50年代後半から「印刷絵画」の可能性を模索するようになった。これは、作家自身が製版・印刷の工程を監理しながら制作する、オフセット印刷による絵画で、作者自身によって書かれたテクスト「印刷絵画」(『美術手帖』誌155号、臨時増刊「絵画の技法と絵画のゆくえ」、1959年)に詳細が論じられている。 しかしながら、結局のところ河原は、全く新しい展開を求めて59年9月に日本を離れ、メキシコ、ニューヨーク、パリでの滞在を経て、64年秋からはニューヨークに定住することになる。この間の63年以前の作品についてはほとんど知られていないが、64年にパリおよびニューヨークで制作されたドローイングが200点ほど現存する。これらは言語をテーマにした作品やインスタレーション作品のプランが多く、50年代の東京時代の作品とは、すでに全く異なるものであった。65年にニューヨークで制作された作品は、カンヴァス上に文字を描いた作品や暗号を用いた作品であり、そして翌66年1月からは、単色の地のカンヴァスに白い活字体の文字で日付を書いた絵画作品、いわゆる「日付絵画」(「Today(今日)」シリーズ)の制作が始められることになる。 「日付絵画」は、ただ単に日付を描いた絵画ではなく、いくつかの規則に則って制作されているが、そのうち最も本質的なものは、描かれた日付の24時間のうちに制作が開始され、描き終えられなければならないというものである。すなわち、その正式タイトルが「Today(今日)」であることからもわかるように、描いている作家にとって、描かれる日付は常に「今日」でなければならないのであり、描き終えられなかった場合は破棄される。それゆえ、一枚一枚の「日付絵画」は、作家がその日付の日に生存し制作したという、一種の存在証明のようなものとなる。日付は、作家がその日に滞在していた都市における公用語の一つを用いて書かれており、カンヴァスの大きさは、8×10インチから150号大までの8種類の中から選ばれている。画材はリキテックス社のアクリリック(アクリル絵具)で、赤と青は既成の絵具を混色せずに用いているのに対し、ダークグレーに見えるその他の画面の色彩は、その都度絵具を調合して色を出している。それゆえ、一見同じように見えるダークグレーの画面には様々な色調が認められ、「日付絵画」が作家の感情や気分、意識の状態を反映した「絵画」として制作されていることがわかる。絵画は自作のボール紙製の箱に納められ、箱の内側にはその日の新聞が貼り込まれている。「日付絵画」は、文字通り河原ライフ・ワークであり、亡くなる前年の13年までの間に3000点近い数が描かれたと言われる。 「日付絵画」に続き、河原は60年代の後半から、一連の自伝的な作品を制作した。その日に読んだ新聞記事をスクラップした「I READ」(1966年-95年)、起床した時刻をスタンプで記した絵葉書を友人に宛てて送り続ける「I GOT UP」(1968年-79年)、その日に会った人物の名前を会った順にタイプ打ちした「I MET」(1968年-79年)、その日に行った経路をゼロックス・コピーの地図の上に赤線で記録した「I WENT」(1968年-79年)がそれである。 一方、存在証明的な意味が最も強いのは、電報による作品「I AM STILL ALIVE」(1970年-2000年)で、「私はまだ生きている」という意味の英文の電報を間欠的に友人や知人に宛てて打電するものである。とはいえ、発信時点での発信者の存在証明は、受信者の時空におけるその不在を同時に喚起する。受信した時点で本当に「私はまだ生きている」かどうかはわからないのである。この構造は「日付絵画」とも通じるものである。というのも、66年以降、河原は、展覧会のオープニングなど公式の場に姿を見せることはなく、写真も公表していないので、描かれた日付の時点における作者の存在証明は、そのまま「日付絵画」の鑑賞者にとっての作者の不在をあらわにするからである。 「日付絵画」と一連の自伝的な作品のように、河原自身の生と密接に結びついた作品とは異なり、時間と人類を巨視的に捉えた作品が、「100万年」である。1ページに500年分の西暦の年号をタイプアウトし、それを2000ページ、つまり100万年分続けて、10巻からなる年号簿とした書物の形の作品で、過去編(1970年-71年)と未来編(1980年-98年)が制作された。人類そのものの発生から、現在を経て、その消滅までをも包含する時間が可視化されたこの作品は、見る者を超越的で宇宙的な視点に誘う。 晩年の河原温は、「日付絵画」の制作を続ける傍ら、展覧会への参加を極力限定し、最終的には二つのプロジェクトのみが残ることになった。一つは「100万年」の朗読のプロジェクト(1993年-)で、展覧会などの会場で「100万年」の一部を俳優や一般の参加者などが朗読したり、録音して出版したりするものである。もう一つは「純粋意識」(1998年-)と題された「日付絵画」を幼稚園に展示するプロジェクトで、人間に社会性が刷り込まれる以前の幼児期に「日付絵画」を直接的に経験させることを意図して、世界の20カ所以上で実施されてきた。これらはいずれも、他者の意思により、作者の不在のもとでも、おそらくは死後においても、実施することができるプロジェクトである。 「日付絵画」以降の河原温の作品は、文字や数字を用いているため、コンセプチュアル・アートの代表的な作例とされることが多い。しかしながらそれは、日々目覚めては眠りにつく人間の生を意識の明滅と捉え、それを誕生から死までの時間に、さらには人類の発生と滅亡という次元にまで敷衍するもので、個人的なものや日常的なものと普遍的なものや宇宙的なものとを直感的に結びつける、極めて独創的な形式であった。瞑想的な作品は、世界中で高く評価され、大きな影響を与えている。

吉村芳生

没年月日:2013/12/06

 美術家の吉村芳生は12月6日、間質性肺炎のため死去した。享年63。 1950(昭和25)年7月24日、山口県防府市で生まれる。創設されたばかりの山口芸術短期大学に進みデザインを学ぶ。71年に同大学を卒業後、山口県周南市の広告代理店にデザイナーとして勤務するが体調を崩し、5年ほどで退職。76年上京して創形美術学校に入学、版画を学ぶ。この頃より克明な鉛筆画を発表、その手法は高圧のプレス機で新聞のインキを紙に転写した後、それに基づいて鉛筆で描き起こした「ドローイング 新聞 毎日新聞 1976年11月6日」(1976-78年)や、17mに及ぶ金網を一旦描く紙に押し付けて、そこに残ったわずかな痕跡を鉛筆でなぞった「ドローイング 金網」(1977年)のように極めて機械的であり、アメリカの現代美術を紹介する展覧会で衝撃を受けたアンディ・ウォーホルの作品に通ずるものであった。80年より郷里の公募展である山口県美術展覧会を主な発表の場とし、同県を中心とする地域で活動、85年に山口市徳地に移住する。2007(平成19)年山口県美術展覧会で「コスモス 徳地に住んで見えてくるもの(色鉛筆で描く…)」により大賞を受賞。同年、東京の森美術館で開催された「六本木クロッシング2007 未来への脈動」展で、「ドローイング 新聞 毎日新聞 1976年11月6日」や「ドローイング 金網」といった吉村の出発点ともいえる作品が紹介され、多くの美術関係者に知られるところとなる。10年山口県立美術館にて「とがった鉛筆で日々をうつしつづける私 吉村芳生展」が開催されている。

嶋本昭三

没年月日:2013/01/25

 画家・現代美術家で具体美術協会の主要メンバーでもあった嶋本昭三は1月25日、急性心不全のため兵庫県西宮市の病院で死去した。享年85。 1928(昭和3)年1月22日、大阪に生まれる。関西学院大学文学部在学中に、新制作協会の大住閑子と出会ったことをきっかけに絵を描き始める。大住の上京後は、同会の増田雅子に学ぶ。47年、増田の紹介により、画家吉原治良の門下となる。関西学院大学を卒業する50年頃、新聞紙を貼り合わせたキャンヴァスに穴を開けた作品を制作し、その斬新さを吉原に高く評価される。このころから、吉原門下生たちのリーダー的な役割を果たす。53年、大阪市立豊崎中学校に美術教員として着任。54年、吉原門下の作家たちの作品を海外に発信するための雑誌を制作する際にも、印刷機の入手や作業場所の提供など、中心的な役割を果たした。雑誌名は嶋本の提案した「具体」という名称が採用され、具体美術協会が発足。以降、具体美術協会の中心メンバーとして、主要な具体展すべてに参加。55年7月の「真夏の太陽にいどむモダンアート野外実験展」(芦屋公園)では、トタンに穴を開けた作品。同年10月、東京の小原会館で開催された第1回具体美術展には、上を歩くことができる体験型の作品を出品。翌年2月には、ポロックをはじめとする海外の作家へ雑誌『具体』を発送する作業も担当。同年の「野外具体美術展」では、上を歩く作品を再度出品するとともに、「大砲絵画」を制作。この手法をヒントに、10月の第2回具体美術展では、絵具を詰めた瓶を投げつけて描く手法を初めて用いる。以降、嶋本にとって主要な制作方法のひとつとなる。62年、グタイピナコテカ開館に際して行われた連続個展シリーズで、最初の個展を担当。69年、関西女子学園短期大学専任講師(1971年助教授、74年教授)。70年の大阪万博では、お祭り広場で「1000人の花嫁」のアート・プロデュースを担当。72年の吉原の死去によって具体美術協会が解散する前年に退会するまで、中心メンバーとして活躍した。 75年、アーティスト・ユニオンに参加。翌年、同会の事務局長に選出。このころから、メール・アートを本格的に行うようになり、国際的なネットワークが構築されていく。80年、アーティスト・ユニオンがアート・アンアイデンティファイド(AU)に改名した後も、同会の運営を担う。86年、「大阪姉妹都市まつり」にイタリアの芸術家G・A・カヴェリーニを招待した際に、自らの頭を剃り上げ、メッセージを書き込むヘッド・アートを初めて行う。これはのちに海外の雑誌や新聞に大きく取り上げられる。1989(平成元)年、被差別部落の人々とともに、鴨川の河原に「へ」の字を描いた模造紙を一万枚並べるプロジェクトを実施。91年、宝塚造形芸術大学教授に就任。92年、ペインティングした廃ビルを崩壊させる「タイム・ラック」を、翌年には人間を十字架に磔にするパフォーマンスを行う。このころから、裸体の女性による女拓の制作を始める。同年、障害者の芸術祭のアート部門実行委員長を務め、94年には、日本障害者芸術文化協会会長に就任。また、85年に来日した、メール・アーティストで元原爆製造関係者である原子物理学者バーン・ポーターと交流を持ち、95年には彼によってノーベル平和賞に推薦される。98年には、ロスアンジェルスのMOCAを皮切りに世界を巡回した「Out of Actions:Between Performance and Object」展に穴の作品を出品し、ケージ、フォンタナ、ポロックとともに第1室に展示された。同年には、早い時期にアメリカで具体を紹介したアラン・カプローとともに、台湾でパフォーマンスを行った。その後も、世界各地の具体展においてパフォーマンスを披露するとともに、自身の個展も活発に行う。タピエ以降、具体の作家たちの多くが絵画へと傾倒していく中、パフォーマンスやメール・アートなど独自の路線を追求していった嶋本の活動が、結果的に、具体の名を世界に知らしめる役割を担ったと言えるだろう。 主な受賞には、95年に井植記念館文化賞、99年に紫綬褒章、2000年に兵庫県文化賞(現代美術)などがある。主な著書には、『芸術とは、人を驚かせることである』(毎日新聞社、1994年)、『ぼくはこうして世界の四大アーティストになった』(毎日新聞社、2001年)がある。

元永定正

没年月日:2011/10/03

 画家・現代美術家で具体美術協会の主要メンバーでもあった元永定正は、10月3日午後9時42分、前立腺がんのため宝塚市内の病院で死去した。享年88。 1922(大正11)年11月26日、三重県阿山郡上野町桑町(現、三重県伊賀市上野)に、父正一郎、母きんの長男として生まれる。1938(昭和13)年、三重県上野商業学校を卒業後、大阪の機械工具店に就職。当時は漫画家を志しており、このころから漫画の投稿をはじめる。日本国有鉄道に入社し関西各所で勤務したのち、44年、上野に戻り地元の画家濱邊萬吉に師事。46年、濱邊が局長を務める上野愛宕町郵便局に就職したことをきっかけに、本格的に油彩画をはじめる。また、地元の各種文化活動にも参加。48年、三重県総合美術展に出品。第1回展(4月)奨励賞、第2回展(11月)入選。この頃、雑誌や広報誌に漫画の連載を持つ。50年、郵便局を退職し、その後に就職した山東林業も52年に退職。弟政美のいる神戸市に移る。 様々な仕事をしながら、西宮美術教室に通いはじめる。当初は西宮市の美術展に出品していたが、吉原治良らによる芦屋市美術協会主催の芦屋市展を知り、絵画や彫刻、写真などを出品する。同展初出品となる53年の第6回展でフォーヴ風人物画「黄色の裸婦」がホルベイン賞受賞。(以後、渡米中の第20回展[1967年]、震災で中止となった第48回展[1995年]を除いて、第55回展[2002年]まで出品を続ける。)当時の芦屋市展には多くの抽象画が出品されており、それらに触発されて抽象画に転向。摩耶山とそこに光るネオンをヒントに描いた抽象画「寶がある」を第8回展に出品し、吉原治良に絶賛されたという。この作品にみられる、山のような形状に小さな色点を配置する作風は、かたちを追究した元永の初期抽象画を代表するものである。同展で、ホルベイン賞(洋画)、日本油絵具賞(彫刻)受賞。直後の7月に開催された芦屋市美術協会主催「真夏の太陽にいどむ野外モダンアート実験展」をきっかけに具体美術協会に入会。以後、71年に脱退するまで中心メンバーとして活躍することになる。57年、大阪の阪急百貨店で初個展。同年、のちに夫人となる中辻悦子と西宮美術教室で出会う。58年ごろから、日本画のたらし込みの技法にヒントをえて、キャンヴァス上に絵具を流した絵画を作りはじめる。60年、ミシェル・タピエの紹介でニューヨークのマーサ・ジャクソン画廊と一年契約を、翌年はトリノの国際美学研究センターと十年契約を結ぶ。61年、東京画廊での個展をきっかけに、東京の作家・評論家たちと交流を持つ。64年、第6回現代日本美術展で優秀賞(1966年の第7回同展でも優秀賞)。66年、ジャパンソサエティの招聘で妻の中辻悦子を伴って渡米。ともに招聘されていた谷川俊太郎と知り合う。ニューヨーク滞在中、うまく流れる絵具が手に入らなかったため、代わりにエアブラシやアクリル絵具を使って、ふたたびかたちの問題に取り組み、新たな作風を確立する。また、この時期に前後して、海外の展覧会への出品が相次ぐ。67年、帰国。70年、大阪万国博覧会のお祭り広場で行われた具体美術まつりに参加。しかし、新しいメンバーが多く加わった具体の雰囲気に違和感を覚え、71年10月に具体美術協会を脱退。翌年、吉原治良の死去によって、具体美術協会は解散。 70年代から絵本の制作にも携わる。73年、初めて原画を手掛けた英文の絵本『ポアン・ホワンけのくもたち』刊行。アクリルとエアブラシを使った当時の元永の画風でユーモラスに描かれる。77年には谷川俊太郎文による絵本『もこ もこもこ』刊行。その後も、自身の絵画技法を応用した絵本を刊行し、絵本原画展も数多く開催する。2007(平成19)年からは中辻の作品と共に「もーやん えっちゃん ええほんのえ」展が各地を巡回。 1980年代以降も精力的に創作と発表を続けるが、とりわけ、具体再評価に伴って国内外で開催された具体関連の展覧会に積極的に参加する。主な海外展としては、86年、「前衛の日本 1910-1970」(ポンピドゥーセンター、パリ)、90年「日本の前衛―1950年代の具体グループ」(ローマ国立近代美術館)、93年「東方への道」(第45回ヴェネツィアビエンナーレ)などが挙げられる。2012年の「具体―スプレンディッド・プレイグラウンド」展(グッゲンハイム美術館、ニューヨーク)では、水を使ったシリーズの新作が元永の指示のもとに制作・展示され、事実上、最後の作品となった。 晩年には、1991年と2009年、地元の三重県立美術館での大規模な回顧展のほか、各地の美術館で個展が開かれる。また、仏政府の芸術文芸シュヴァリエ章(1988年)、紫綬褒章(1991年)、勲四等旭日小綬章(1997年)、三重県民功労賞文化賞(2002年)ほか多くの受賞がある。作品集はアラベル(1983年)と博進堂(1991年)から出版されており、元永の画業を概観できる。遺作は三重県立美術館、宝塚市、西宮市などに寄贈され、三重県立美術館と宝塚市アピアホールでそれぞれ寄贈作品展が開かれた。

吉村益信

没年月日:2011/03/15

 現代美術家でネオ・ダダのリーダーだった吉村益信は、3月15日、多臓器不全のため死去した。享年78。 1932(昭和7)年5月22日、大分市で薬局を営む父益次、母幸の九男として生まれる。48年、大分第一高等学校入学。一学年上に磯崎新、赤瀬川隼がいた。高校二年の時に青木繁の画集を見て画家になることを決意。この頃から、地元の画材店キムラヤに出入りするようになる。51年、東京藝術大学受験に失敗し、武蔵野美術学校に入学。同年、大分のキムラヤで結成されたグループ新世紀群に参加し、第1回新世紀群同人展に出品する。新世紀群には、磯崎新、風倉匠、中学生だった赤瀬川原平なども関わっており、後のネオ・ダダの原型となった。52年、新世紀群野外展を若草公園で開催(56年まで)。55年、武蔵野美術学校を卒業。この頃、国分寺の旧児島善三郎アトリエに移り、日本アンデパンダン展(第7~10、12、13回)、読売アンデパンダン展(第7~14回)に出品を始める。また、55年4月に新世紀群主催の座談会に池田龍雄を招いたことをきっかけに、「制作者懇談会」や岡本太郎主宰「アートクラブ」に出席し、アヴァンギャルドの精神を吸収していった。57年、赤瀬川隼の結婚式で磯崎新に描いてもらった図面をもとにしたアトリエ「ホワイトハウス」が新宿百人町に完成。若い前衛芸術家たちが集まるようになる。赤瀬川原平、風倉匠、磯崎新らに呼びかけ、60年に「オール・ジャパン」結成。しかし、本格的に活動を始める前に、篠原有司男が合流し、「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」を改めて結成する。4月には第1回展を銀座画廊で開き、吉村は折り畳み可能な「携帯絵画」を出品するとともに、ポスターを全身に巻いて街中を練り歩くパフォーマンスで注目を集める。その後も立て続けに、「安保記念イベント」(6月、ホワイトハウス)、第2回ネオ・ダダ展(7月、同上)、「ビーチ・ショウ」(7月、鎌倉安養院/材木座海岸)、第3回ネオ・ダダ展(9月、日比谷画廊)とイベントを行うが、10月に吉村が石崎翠と結婚したことで、ネオ・ダダは事実上解散する。ネオ・ダダ活動中は作品制作の余裕がなかったが、62年の読売アンデパンダン展で展示空間を埋め尽くすような作品「ヴォイド」を出品し話題となる。同年8月、国立市公民館での「敗戦記念晩餐会」、磯崎新邸での壮行会を経て、ニューヨークに渡る。 ニューヨークでは大工やディスプレイの仕事をしながら制作を続ける。その際、他の日本人作家たちにも仕事を斡旋するなど、リーダーとしての資質を発揮。渡米当初は「ヴォイド」シリーズの制作を続けていたが、66年にカステレーン・ギャラリーで開催した個展「HOW TO FLY」では、電球を使用した作品を発表し、ライト・アートの先駆となる。同年、ビザのトラブルで帰国を余儀なくされる。帰国後は、電球やネオンを使った作品の制作を続けるが、アトリエが手狭なために、自身は図面を引くだけで制作は工場に発注する「発注芸術」と呼ばれる制作方法をとる。ライト・アートと発注芸術は、68年の第8回現代日本美術展でコンクール優賞となった「反物質 ライト・オン・メビウス」に結実する。70年の大阪万国博覧会に際しては、「貫通」という会社組織を作り、若い作家たちを雇い、彼らに活躍の場を与えた。万博のせんい館のために作られた巨大なカラスのオブジェ「旅鴉」は、のちにデュシャンの作品になぞらえて「大ガラス」と改名されたことで知られる。吉村のリーダーシップが発揮された「貫通」も、万博の終了と共に仕事の機会が減るなどして解散。テクノロジーに彩られた万博のあと、吉村は第10回現代日本美術展にサヴィニャックのポスターを元にしたオブジェ「豚・pig lib;」を出品し、新しい作風を見せる。翌72年には、サトウ画廊で個展「群盲撫象」を開催し、象の身体部位を切り落としたようなオブジェを発表する。万博前後のこの時期は、異なるスタイルで自身の代表作となる作品を次々と作り出した豊穣な時期となった。75年にこれまで様々な組織を牽引してきた実績をかわれ、国内外の作家から要請されてアーティスト・ユニオン結成に伴うまとめ役を引きうけるが、79年には事実上消滅した。精神的にも疲弊していた吉村は神奈川県秦野市の山中にアトリエを構え、アートシーンの中心から離れていった。90年代に、戦後の前衛美術の再評価が高まるなか、福岡のギャラリーとわーるで行われた石松健男の写真展「60年代ネオ・ダダと!」(1992年)や福岡市美術館の「流動する美術―ネオ・ダダの写真」展(1993年)によって、ネオ・ダダにも注目が集まる。1994(平成6)年の個展「ウツ明け元年」(佐野画廊)で「豚;Pig Lib;」を再制作し、吉村はふたたび表舞台に登場する。その後も、「ヴォイド」や「携帯絵画」などの再制作を行い、ほとんど作品が残っていなかったネオ・ダダの再評価に寄与する。2000年には地元である大分市美術館で回顧展「応答と変容 吉村益信の実験展」が開催された。

清水誠一

没年月日:2010/12/06

 美術家の清水誠一は12月6日、山梨県北杜市の自宅で死去した。享年64。1946(昭和21)年2月27日、山梨県小淵沢に生まれる。67年新潟大学医学部を中退し、上京。すいどーばた美術学院で学ぶが、ほどなく独学で制作活動に入る。デヴューは69年の第9回現代日本美術展。初個展は72年、神田の田村画廊だった。この年、3回の個展を田村画廊で勢力的に開催する。マルセル・デュシャンに傾倒していた清水は、当時の作品を次のように記述している。1回目は、「動力用モーターが3台廻り、空中に大きな楕円の輪が吊るされ、楕円の中を円形蛍光灯20個が筒状に光を発する」もの。2回目は、「画廊のコンクリートの床に穴を掘り」画廊の名前が入ったガラスの看板を埋めるもの。3回目は1日のみで、「白い傾斜した大きなベニヤ・パネルをトラックに積み、田村画廊と近くにあったときわ画廊とのあいだを20回通過するイヴェント」(引用はいずれも『あいだ』157号「追悼山岸信郎・わが虚無的往還のかたわらで」より)だった。77年には第10回パリ青年ビエンナーレに出品。この頃には、コンクリート板などを線描で覆い尽くす「マーク・ペインティング」をシリーズ化している。79年に小淵沢に制作の拠点を移し、80年代はおもに「クランク・ペインティング」のシリーズを展開、1色の背景に直線と曲線が規則的に並ぶ、運動感をみせる絵画である。個展は主に東京のコバヤシ画廊、田中画廊などで開催、その数44回に及び、毎年のようにグループ展にも参加していた。1998(平成10)年頃からコンピューターを使用し、絵画制作を行なう。写真を取り込みソフトで加工、旧作の画面に入れ込んだりし、しだいに具象的な形象が画面を覆ってくるようになる。2009年6月から11月に開催された香川県のソフトマシーン美術館での個展が最後の発表となった。作品は次のホームページで参照できる。http://lastpainting.main.jp/ (2013年現在)

鈴木慶則

没年月日:2010/11/21

 画家の鈴木慶則は11月21日、脳こうそくのため静岡市内の病院で死去した。享年74。1936(昭和11)年1月13日、静岡県清水市(現、静岡市清水区)に生まれる。腺病質で友だちがいなく、孤独な幼少期にひとりでできる遊びとしてクレヨン画をよく描いた。実家はもともと地主であったが農地改革で土地を失い、父は終戦時に結核で亡くなった。高校では美術部に入り、図書館で見つけた福島繁太郎著『エコール・ド・パリ』がきっかけで美術にのめり込む。54年多摩美術大学美術学部絵画科(油画)に入学。在学中は大沢昌助、川端実、末松正樹らに学ぶ。57年第25回独立展に出品し入選。4年生のときに清水市にある鈴与倉庫に勤める義理の姉の同僚であった木村泰典(石子順造の本名)と出会い、翌年静岡でグループ「白」を結成。大学卒業後は、清水市立第一中学校に美術教師として赴任、教職と並行して作家活動を行う。58年第11回日本アンデパンダン展(日本美術会主催)に出品、以後61年第14回展まで毎年出品を続ける(第14回展は「グループ「白」、石子順造、鈴木慶則」名義で出品)。58年静岡県展で中部日本新聞社賞を受賞。59年第7回ニッポン展に出品。60年村松画廊で「伊藤隆史・鈴木慶則」展を開催。同年石子順造、伊藤隆史とともに評画・記録漫画の冊子『フェニックス』を創刊。同年第13回前衛美術展に出品、以後出品を続ける。このころ静岡雙葉学園に移り、13年間非常勤として勤務。63年第15回読売アンデパンダン展に出品。同年清水・純喫茶フレンドで個展を開催。64年アンデパンダン’64展に出品。65年椿近代画廊において東京での初個展を開催。同年東京芸術柱展(東京都美術館)に出品。66年静岡の作家とともに前衛美術グループ「幻触」を結成し、中心メンバーとして活動。同年第10回シェル美術賞展で佳作賞を受賞。67年第11回シェル美術賞展で2等受賞。同年「50A.F.(Apres “La Fountaine”)」展(ギャラリー新宿、企画=石子順造、刀根康尚)に出品。68年「トリックス・アンド・ヴィジョン」展(村松画廊、東京画廊、企画=石子順造、中原佑介)に出品。同年第8回現代日本美術展コンクール部門で入選。同年第5回長岡現代美術館賞展に招待出品。69年第9回現代日本美術展第2部「現代美術のフロンティア」に招待出品。同年「現代美術の動向」展(京都国立近代美術館)に招待出品。同年「今日の美術-静岡」展(静岡県民会館)に出品し今日の美術展大賞を受賞。60年代後半から、名品とされる絵画や彫刻をモチーフにトロンプ・ルイユ(だまし絵)の技法を用いた平面作品を展開、「高橋由一風鮭」(1966年)、〈非在のタブロー〉シリーズ(1968年~)など発表。70年京都書院画廊で個展を開催。71年第10回現代日本美術展招待部門「状況-物質と行為との対話」に「Twin endress-ring」と題するインスタレーションを出品。同年「言葉とイメージ」展(ピナール画廊、企画=針生一郎)に出品。72年ギン画廊で個展を開催。73年『芸術生活』で連載を1年間担当、「死角の絵画」と題して毎月新作を発表。74年第11回日本国際美術展国内部門「複製、映像時代のリアリズム」に「長谷川等伯風猿猴捉月図」を招待出品。以後、銀座・ギャラリー手(1974年、1978~88年、1992~2009年)、大阪フォルム画廊東京店(1991年)、ソウル・松川画廊(1994年)、ギャラリーQ(2010年)などで個展を開催し、「今日の静物・展」(横浜市民ギャラリー、1975年)、「現代作家6人」展(静岡・ギャラリー美術舎、1982年)、「日仏合同ALAC」展(1985年)、「石子順造とその仲間たち〈グループ幻触を中心に〉」展(清水・虹の美術館、2001年)、「幻触1968年」展(静岡文化芸術大学ギャラリー、2002年)など多くの企画展に出品。1970年代からあぶり出しによる平面構成、カンバスに金属粉を吹き付ける技法を用いた作品、〈WATER-Edge〉シリーズ、〈Water Drawin〉シリーズなどを展開、素材の物質性に基づいた表現へと変貌した。2010(平成22)年日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴによりインタビューが行われ、同団体のウェブサイトに公開された。

中里斉

没年月日:2010/07/18

 現代美術家の中里斉は7月18日(日本時間)、ニューヨークの病院で死去した。7月中旬に自宅ではしごから転落し入院していた。享年74。1936(昭和11)年3月15日、東京府南多摩郡忠生村(現、東京都町田市)に生まれる。父は鉄道員、母は専業主婦で、両親はキリスト教(プロテスタント)を信仰していた。5人兄弟の長男。母の実家は、旧町田街道にあった紺屋「なるとや」で、その裏庭に伸子張りされた染物の連なり干された有様が原風景としてあることを後年追懐している。羽仁もと子の教育論を好んだ母の元、さかんにクレヨンで絵を描く幼少期であった。48年桜美林中学校に入学、54年桜美林高等学校を卒業。2年間浪人したのち、56年多摩美術大学美術学部絵画科(油画)に入学、在学中は大沢昌助らに学ぶ。60年同大学を卒業。卒業後は半年ほど『北海タイムス』の美術記者として北海道旭川市に勤務したのち、桜美林学園の専任講師となり中学・高等学校の美術、桜美林短期大学のデザイン学、色彩学を担当する。62年渡米、ウィスコンシン大学大学院に入学、専攻として絵画を、副専攻として版画を学ぶ。そのかたわら、通訳として日本の技術者を工場見学に案内しているうちに、システム・デザインに眼をひらかれる。64年ミルウォーキー、セント・ジェームス・ギャラリーで初個展を開催。同年ペンシルヴァニア大学美術大学院に入学、ピエロ・ドラツィオ、ニール・ウエリバーらに学ぶ。66年ロックフェラーⅢ世基金奨学金を受けニューヨークに移る。このころシステマティックに形成された線と色面を組み合わせた〈ペンシルヴァニア・シリーズ〉に取り組む。68年ヨーロッパと中近東を旅行し帰国、結婚。同年10月、多摩美術大学の専任講師となりデッサンを担当するかたわら、駒井哲郎の版画授業を手伝う。同年12月学園紛争により全学封鎖となったため、連日の教授会や自主ゼミへの参加。70年3月日本万国博覧会の古河パビリオンの壁画を制作。同年7月第5回ジャパン・アート・フェスティバル国内展示で、日本の伝統的な大工道具である墨壷を使用しカンバス上に直線を引いた絵画《マチス》により優秀賞(文部大臣賞)を受賞。同年8月第14回シェル美術賞展で佳作賞を受賞。同年11月青山・ピナール画廊で個展を開催。71年5月第10回現代日本美術展(東京都美術館)の招待部門に出品。同年12月現代日本美術展(グッゲンハイム美術館)に出品。71年学園闘争の緊張が募り体調を崩し、医者に転地を勧められる。ヨーロッパを旅行した後、渡米しニューヨークに居住、同年9月ペンシルヴァニア大学美術大学院で版画の専任講師となる。以後、ニューヨークに制作の拠点をおき、日本、アメリカで作品を発表。日本においては甲南高校アートサロン(1981年)、原美術館(1987年)、東京画廊SOKO(1997年)、村松画廊(2004年)、町田市立国際版画美術館(2010年)などで個展を開催し、「アメリカの日本作家」展(東京国立近代美術館、1973年)、「現代絵画の20年〈1960-70年代の洋画と新しい『平面』芸術の動向」(群馬県立近代美術館、1984年)、「日本の版画」(栃木県立美術館、1985年)、「絵画1977-1987」(国立国際美術館、1987年)、「断面アスペクト1979-1994」(ハラ・ミュージアム・アーク)など、現代日本の平面作品を検証する多くの企画展で作品が展観された。また82年から文化庁芸術家在外研修員の滞在先として20名あまり受け入れる。ペンシルヴァニア大学美術学部長を歴任。1970年代のニューヨークにあっても一貫して平面における抽象性を貫き、抑えたカラーフィールドの美しさとモノクロームの中に知的な線を維持し、平面作品において独自の世界を展開させた。2009(平成21)年日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴによりインタビューが行われ、同団体のウェブサイトに公開された。

今泉省彦

没年月日:2010/07/13

 画家、評論家だった今泉省彦は、7月13日死去した。享年78。1931(昭和6)年11月30日、埼玉県所沢に生まれる。父は陸軍少尉で、今泉は幼少期を満州(現、中国東北部)で過ごす体験もした。18歳のころ、友人から白樺派やセザンヌを知り、美術に傾倒していき、春陽会に出品するも落選。50年日本大学芸術学部美術科に入学、ほとんど通わず美術館などで過ごし、左翼美術運動に関わる。61年には全電通労働組合分会執行委員を務める。68年、現代思潮社の川仁宏より絵の学校の企画を持ち込まれ、翌年「美学校」(千代田区神田神保町2―20 第2富士ビル3階)の開校に参加、日本電信電話公社を辞職し、現代思潮社美学校事務局長となる。これが美術界で今泉の名を知らしめるものとなる。教育者というと今泉は反論しただろうが、反美術大学的な「芸術作品と作家のありざまを本来的に捉えかえす機関」「表現を練磨し表現未生の闇へ果敢に肉迫する真の工房」として、特異な画塾とでもいうべき美学校、酒が絶えないその空間において彼は中心的な役割を担い、カリキュラムを編成した。75年に現代思潮社から分離、学校の経営は多難だったが、2000(平成12)年まで校長を務めた。画家として個展こそは少ないが、カットや装幀もよくし、その軽妙な画風から赤瀬川原平は今泉を「永遠のデッサン家」といった。評論活動は1953年から同人誌に執筆、『作品・批評』、『形象』などに、岸田劉生、関根正二、長谷川利行、ケーテ・コルビッツらを取り上げ、また60年代以降の美術情況、前衛美術界やハイレッドセンターなどを『日本読書新聞』、『美術手帖』などで論じた。復刊『機關』11号で「今泉省彦特集」が組まれている。『彷書月刊』98年3月号は「特集・美学校の30年」。 著書 『ビッグ・パレード』(赤組、1983年)

大野一雄

没年月日:2010/06/01

 舞踏家の大野一雄は6月1日、呼吸不全のため横浜市内の病院で死去した。享年103。1906(明治39)年10月27日、北海道函館区弁天町(現、函館市弁天町)に生まれる。生家は北洋漁業の網元で、母は弾琴に長じ、西洋音楽を好んだ。10人兄弟の長男。1919(大正8)年旧制函館中学校に入学、翌年母方の秋田県の親戚に預けられ、県立大館中学校に編入。在学中は陸上部に所属、中距離競争の選手であった。25年同校を卒業。卒業後函館近村の泉沢尋常高等小学校の代用教員を1年間務めたのち、26年日本体育会体操学校(現、日本体育大学)に入学、同年から1年4か月の兵役を経て復学。1929(昭和4)年帝国劇場でスペインの舞踊家ラ・アルヘンチーナの来日公演を観て、深い感銘を受ける。同年日本体育体操学校を卒業、横浜の関東学院中学部に体育教師として赴任。33年横浜の捜真女子学校勤務の準備のため、石井獏に1年間入門、モダンダンスをはじめる。36年江口隆哉、宮操子の研究所に入門。38年召集を受け、華北、ニューギニアを転戦。終戦後、46年復員、江口・宮舞踊研究所に復帰、48年まで所属。49年大野一雄現代舞踊第1回公演を神田共立講堂にて開催。1950年代半ばに土方巽と出会い、よき協力者として彼の代表作「あんま」「バラ色ダンス」などに出演。暗黒舞踏派での共演などを通じ、西洋の影響を強く受けたモダンダンスから、日本人の内面的な問題を扱う身体表現へ転換、「舞踏(BUTOH)」として知られるスタイルを展開していく。1960年代終わりから映画作家長野千秋による舞踏映画製作に没頭、約10年間ソロでの公演から遠ざかる。76年画家中西夏之個展で観た絵画により29年に帝国劇場で観たアルヘンチーナの舞台の感動がよみがえり、これをきっかけに復帰を決意。77年「ラ・アルヘンチーナ頌」を土方巽の演出で初演、翌年第9回(77年度)舞踊批評家協会賞受賞。80年フランスの第14回ナンシー国際演劇祭で初めて海外の舞台に立つ。西洋のダンス界に衝撃を与え、世界的な舞踏ブームを作る端緒となる。以後ヨーロッパ、北米、中南米、アジア各国でも精力的に公演を行うとともに、横浜にある自身の稽古場に、舞踏を学ぶ研究生を世界中から受け入れた。93年神奈川文化賞受賞。98年日本デザイン賞、横浜文化賞受賞。99年イタリアで第1回ミケランジェロ・アントニオーニ賞受賞。2000年左臀部下内出血を患い歩行が困難になってからも、座ったまま手の動きのみで表現を行う新たな境地を開き、07年まで舞台に出続けた。01年第3回織部賞グランプリ受賞。02年朝日舞台芸術賞特別賞受賞。04年から大野一雄舞踏研究所とBankART1929の主催で毎年「Kazuo Ohno Festival」が開かれる。代表作に「わたしのお母さん」(1981年)、「死海ウインナーワルツと幽霊」(1985年)、「睡蓮」(1987年)などがある。著書に『大野一雄舞踏のことば〈御殿、空を飛ぶ。〉』限定版(思潮社、1989年)、聞き書きに『わたしの舞踏の命』(矢立出版、1992年)、『大野一雄稽古の言葉』(フィルムアート社、1997年)、『Kazuo Ohno’s world』(Wesleyan University Press、2004年)など、映像資料に『大野一雄 美と力』(NHKソフトウェア、2001年)、『大野一雄御殿、空を飛ぶ。』(クエスト、2007年)など多数。また石内都『1906 to the Skin』(河出書房新社、1994年)、細江英公『人間写真集胡蝶の夢舞踏家・大野一雄』(青幻舎、2006年)など、多くの芸術家が大野をモデルとした作品を制作した。岡山県牛窓国際芸術祭(1988年)、曽我蕭白展関連イベント「大野一雄、蕭白を舞う」(千葉市美術館、1998年)、大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレプレイベント「中川幸夫花狂い」(2002年)など美術関係のイベントにも参加。また大野一雄舞踏研究所により積極的にアーカイブ収集・整理が進められ、02年にイタリアのボローニャ大学大野一雄資料室、03年に愛知芸術文化センター大野一雄ビデオライブラリーが開設した。

荒川修作

没年月日:2010/05/19

 美術家の荒川修作は5月19日、ニューヨークの病院で死去した。享年73。1936(昭和11)年7月6日、名古屋市瑞穂区雁道町に生まれる。51年、愛知県立旭ヶ丘高校(旧制愛知一中)美術課程に入学。同級生に美術家赤瀬川原平、一学年上に彫刻家石黒鏘二がいた。56年、武蔵野美術学校(現、武蔵野美術大学)に入学(のちに中退)。57年、第9回読売アンデパンダン展に初出品(以降、61年まで出品をつづける)。翌年の同展に出品された「人間―砂の器B」が瀧口修造に注目され、知遇を得る。60年、吉村益信、篠原有司男、赤瀬川原平、風倉匠、有吉新、石橋清治、上田純、上野紀三、豊島壮六とともに、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズを結成し、4月、7月、9月にネオ・ダダ展を開催。しかし、同9月に初の個展「もうひとつの墓場」(村松画廊、東京)を開いたことで、グループの規律を乱したとして批判され、グループを離れる。61年、江原順の企画により2回目の個展を夢土画廊(東京)で開催。同12月、単身、ニューヨークへ渡る。62年、マドリン・ギンズと出会い、以降共同で作品を制作する。63年のシュメラ画廊(デュッセルドルフ)以降、欧米各地で個展を開催。また、後に「意味のメカニズム」として実現されるプロジェクトを開始。このころには、「棺桶」シリーズと呼ばれる箱状の作品から、ダイアグラム絵画と呼ばれる言葉や記号などを組み合わせた作品へと制作の重点が移る。65年、南画廊(東京)で開催した個展で渡米後の作品を初めてまとまったかたちで展示。66年、第7回現代日本美術展(東京都美術館ほか)に「作品―窓辺」を出品し、大原美術館賞。67年、第9回日本国際美術展(東京都美術館ほか)に「Alphabet Skin No.3」を出品し、東京国立近代美術館賞。68年、第8回現代日本美術展(東京都美術館ほか)に「作品」を出品し、最優秀賞。このころ、ニューヨーク、ウェスト・ハウストン通りのビルに転居。70年、第35回ヴェネツィア・ビエンナーレの日本館(コミッショナー・東野芳明)に「意味のメカニズム」シリーズを出品。71年、マドリン・ギンズとの共著『意味のメカニズム』をドイツ語で出版。72年、ドイツ政府の奨学金で西ベルリンに約8か月滞在し、ヴェルナー・ハイゼンベルクをはじめとする多くの物理学者・生物学者と交友を結ぶ。同年、「意味のメカニズム」展がドイツ各地を巡回。77年、デュッセルドルフを皮切りに、ヨーロッパ各都市を巡回する大規模な個展を開催し、その評価を確立する。79年、ヨーロッパでの巡回展に準ずる規模の個展を国内で初めて開く(西武美術館)。同年には、「意味のメカニズム」(国立国際美術館)、「荒川修作全版画展」(兵庫県立近代美術館)など国内での大きな個展が相次ぎ、『意味のメカニズム』第二版(英語、日本語、フランス語)も刊行。86年、「前衛芸術の日本」(ポンピドゥー・センター、パリ)に出品。87年、マドリン・ギンズとともに、Containers of Mind Foundation(現、Architectural Body Research Foundation)を設立。1991(平成3)年、国内での大規模な回顧展「荒川修作の実験展―見るものが作られる場」(東京国立近代美術館ほか)が開かれ、日本の観客に荒川の全貌を知らしめる機会となった。94年、磯崎新設計による奈義町現代美術館に常設作品「偏在の場・奈義の竜安寺・心」(現、「偏在の場・奈義の竜安寺・建築する身体」)が完成。斜めに傾いた円筒状のギャラリーの内壁に、竜安寺の石庭を配置するというものだった。この作品にみられるように、晩年の荒川は、鑑賞者の身体感覚に訴える建築的作品へと傾倒していった。翌年には、大規模な野外施設としての作品「養老天命反転地」が竣工。すり鉢状の地形に様々なパビリオンが点在し、それらが遠近感や平衡感覚を狂わせることで、日常生活においては無自覚な身体感覚を再認知させる。97年、グッゲンハイム美術館(ニューヨーク)で日本人として初めてとなる個展「宿命反転―死なないために」を開催。2002年、『建築する身体』(英語版)を出版。このころから、「芸術、哲学、科学の総合に向かい、その実践を推し進める創造家」としてのコーデノロジストを名乗り始める。05年、「三鷹天命反転住宅 In Memory of Helen Keller」、08年、「バイオスクリーヴ・ハウス」(ニューヨーク)が完成。これらの作品は様々な分野の研究者の関心を惹き、05年に第1回アラカワ+ギンズ国際会議(パリ第10大学)が開かれる。その後も、08年に第2回(ペンシルベニア)、10年に第3回(on line)が開かれた。10年、初期の「棺桶」シリーズを集めた「死なないための葬送―荒川修作初期作品展」(国立国際美術館)が生前最後の個展となった。主な受賞歴として、1986年、芸術文化勲章(シュヴァリエ)受章、88年、ベルギー批評家賞、96年、第28回日本芸術大賞、2003年、日本文化芸術振興賞および紫綬褒章、10年、旭日小綬章など。

眞板雅文

没年月日:2009/03/09

 立体造形において独自の試みを展開した美術家の眞板雅文は、3月9日心筋梗塞のため自宅で倒れ、神奈川県大磯町の病院で死去した。享年64。1944(昭和19)年11月11日、中国東北部撫順(旧満州)で生まれる。47年引き揚げ後、神奈川県横須賀で育ち、私立三浦高校在学中、教師の柴田俊一から指導を受け、現代美術に興味を示すようになる。1966年第7回現代日本美術展に出品、同年銀座の村松画廊で初個展(以後同画廊で83年までに5回個展を開催)を行う。初個展の作品は、矩形の支持体に複数の板をレリーフ状に構成したものだった。60年代末からは、海面を撮影した写真と鉛の棒、ガラス、電灯などを組み合わせたインスタレーションの作品を展開するようになる。71年、第6回国際青年美術家展で大賞を受賞、シェルター・ロック財団等の奨学金を得て2年間のフランス滞在を果たす。パリのギャラリー・ランベールで個展を開催するも、肺結核にかかり療養生活を余儀なくされたが、この体験は眞板にとって制作の姿勢を見つめ直す機会ともなった。73年に帰国後、神奈川県二宮町に住む。74年から、紀伊國屋画廊での第2回次元と状況展に参加、このグループ展には10回展まで出品を続ける。76年、第37回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品。77年、第10回パリ・青年ビエンナーレに出品。海外への出品、旅行により、各地の風土にふれ、より自然と美術との関わりに思いをめぐらすようになる。80年代に入ると、ロープや布を用い、それを織り込んだ、網状や円のかたちをとる呪術的な趣を醸し出す作品を展開する。国内の画廊での個展や美術館の企画展への出品を重ねる中で、85年、ガストン・バシュラール生誕100年祭企画でのフランス、トロア市での展示、86年、第42回ヴェネツィア・ビエンナーレへの出品は、ひとつの転機となった。作品の巨大化と野外彫刻、公共スペースのモニュメントの仕事が多くなっていく。構造上、作品の素材にはそれまで以上に、石や金属が使用されるようになるが、自然、とくに水へのこだわりは、止むことがなかった。その作風を耕すかのように、神奈川県秦野市(81年から)や長野県富士見町(94年から)の古民家を改造したアトリエで過ごすことも多くなっていく。1994(平成6)年、畏友安齋重男との神奈川県立近代美術館での展覧会「写真と彫刻の対話」では、代表作ともいえる29個の水盤状の立体「永遠の一端」を制作した。95年第7回本郷新賞を受賞。この頃から、竹を逆円錐状に組み上げる巨大な作品をみせるようになる。その環境造形としての試みは、97年下山芸術の森発電所美術館や2003年大原美術館の個展「音・竹水の閑」にみられた。現代美術の領域において、竹、自然石、布、水といった人々に親しめる素材を用い、ダイナミックに時に繊細に表現した作家といえよう。作品集に『眞板雅文1999』(小沢書店、1999年)がある。

館勝生

没年月日:2009/01/16

 画家の館勝生は1月16日、がんのため大阪市で死去した。享年44。1964(昭和39)年2月1日、三重県桑名市に生まれる。87年大阪芸術大学芸術学部美術学科卒業。在学時にはデモクラート美術家協会の創立メンバーだった泉茂のゼミに入る。ニュー・ペインティングの影響を受けながら、大きなストロークによる有機的な形象の平面作品を個展やグループ展で発表、中原浩大、石原友明、松井智恵ら“関西ニューウェーヴ”の作家として注目を集める。1991(平成3)年、東京で初個展を開催(永井祥子ギャラリーSOKO)。94年VOCA展奨励賞を受賞。98年、原美術館で旧作を含めた個展「ハラドキュメンツ5 館勝生―絵画の芽」を開催。この時期を境にストロークを控え、余白の中に核となる痕跡をとどめた作を発表。2001年三重県立美術館県民ギャラリーで展覧会を開催。晩年はがんに侵されていることを知りつつも創作意欲は衰えず、亡くなる前月までアトリエで制作を続けていた。没後の09年8月、学生時代より個展やグループ展をほぼ毎年開催してきた大阪のギャラリー白で個展が開かれるとともに、画集『館勝生 Tachi Katsuo』が刊行された。

風倉匠

没年月日:2007/11/13

 1960年代に「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」に参加し、ハプニングやパフォーマンスによって既成の概念を揺るがした風倉匠は、11月13日、肺がんのため大分市の病院で死去した。享年71。1936(昭和11)年1月23日、大分市大字津留696番地に生まれる。本名橋本正一。幼少期より正巳と呼ばれる。津留国民小学校に入学するが、戦争により大分県内に疎開。48年4月大分市立城東中学校に入学し、51年に同校を卒業して大分県立大分工業高校に入学する。52年、腹膜炎の後、結核に罹り、翌年5月まで休学。この間、読書に没頭し詩人を志す。また、地元の演劇活動を手伝い、新世紀群アトリエに出入りして、デッサンや油彩画を描くようになる。「凡倉惰作」の名を用いるが、風倉と誤読され、以後、風倉と称する。56年4月武蔵野美術大学油絵科に入学。同年、第19回大分県美術展に風倉省策の名で出した「女」が初入選。同年10月砂川闘争に参加し、赤瀬川原平を知り、赤瀬川を通じて吉村益信を知る。57年、春休みの帰省中に大分県総合文化祭(大分県教育会館ホール)で行われた演劇で、椅子から何度も落ち続けるハプニングを行う。58年3月第10回読売アンデパンダン展に「陣地」を出品。同年7月の第11回日本アンデパンダン展には「人工庭園」を出品する。59年、吉村益信らのグループ「オール・ジャパン」の結成に参加。60年、第13回日本アンデパンダン展に「眠らされた」を、第12回読売アンデパンダン展に「城」他2点を出品。同年、吉村益信、赤瀬川原平、篠原有司男らとともに「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」の結成に参加し、同年4月の第1回ネオ・ダダ展(銀座画廊)にビニール作品などを出品。同年7月の第2回展(吉村アトリエ)にトタンのロボット、モビール、ドローイングなどを出品。この頃から、風倉匠と名乗るようになる。同年9月の第3回ネオ・ダダ展(日比谷画廊)にロープによる作品等を出品。61年3月第13回読売アンデパンダン展に「ムード屋」「K2」を出品。同年6月、安保闘争で死去した樺美智子追悼統一集会にVAN映画科学研究所の所員と共に乱入し、バルーンを膨らませるハプニングを行った。同年10月に第1回個展(村松画廊)を開催し、初日に椅子のハプニングを、会期中にバルーンを膨らませるハプニングを行う。62年第14回読売アンデパンダン展にフーコー振り子、サイレン、バルーン等による「サイレン」「祖堂人命救助法」を出品。同年8月15日、「敗戦記念晩餐会―芸術マイナス芸術」(国立市公民館)に参加し、「サドの遺言執行式」を土方巽と共演。同年11月「九州派の英雄たちの大集会」(博多湾・百道海水浴場)に参加する。63年、第15回読売アンデパンダン展に「アウグスチヌスの道具の時間」「事物は何処から来て何処へ行く」を出品。同年5月大分市キムラヤギャラリーで個展「リリパッド王国」を開催。同年11月第32回大分県美術展で「作品二の一」(旧名「陣地」)が大分県美術協会賞を受賞。64年、高松次郎、赤瀬川原平、中西夏之によるグループ「ハイレッドセンター」の「ドロッピング・イヴェント」(池坊会館)、「首都圏清掃促進運動」(銀座並木通)に参加。71年第10回現代日本美術展にフーコーの振り子による「魔術によって宇宙の一部を証す道」を出品。73年11月から北海道網走に移り住みカフカの『流刑地にて』を映画化する試みを開始する。以後2年撮影を続けるが未完に終わり、帰京。同年、個展「リリパッド王国秘宝展」を開催。76年から美術学校夜間部で教鞭を取る。78年、ホワイトクロス個展(国分寺画廊9)、風倉匠個展―WHITE CROSS EXHIBITION(大分市、府内画廊)を開催。79年塩商人の語本指(大分市、府内画廊)に赤瀬川原平、田中信太郎らとともに参加。同年9月、大分に帰郷し絵画塾を開く。80年大分県立芸術会館で「風倉匠個展―絵画の基点を探す点検作業」を開催し、絵画、オブジェなど150点を出品。86年、パリのポンピドゥ・センターで行われた「前衛芸術の日本1910~1970」に参加し、小杉武久とバルーンなどを用いたパフォーマンスを行い、同展後、ドイツでも小杉とのパフォーマンスを行う。88年4月より福岡市内の会社に勤務し、以後1994(平成6)年まで福岡に単身赴任。92年「巨大都市の原生 東京―大阪行為芸術1992年ヨーロッパ・ツアー」に参加し、ドイツ、オランダ、ベルギー、フランスを巡りパフォーマンスを行う。93年、福岡市美術館で「流動する美術Ⅲ ネオ・ダダの写真」が開催される。95年第7回バングラディシュ・アジア美術ビエンナーレに参加し、バルーンによるパフォーマンス等を行う。2002年大分市美術館で「風倉匠展」が開催され、初期からのしごとが跡づけられた。年譜は同展図録および『時計の振り子 風倉匠』(佐野画廊、1996年)に詳しい。

松澤宥

没年月日:2006/10/15

 独自のコンセプトによる作品とパフォーマンスで知られた美術家の松澤宥は、肺炎のため、長野県諏訪市の病院で死去した。享年84。1922(大正11)年2月2日、長野県諏訪郡下諏訪町に生まれる。1946(昭和21)年、早稲田大学理工学部建築学科を卒業、49年から諏訪実業高校定時制下諏訪分校で数学の教諭となる(82年まで勤務する)。52年、第4回読売アンデパンダン展、第12回美術文化協会展に出品。54年、美術文化協会を脱退。55年、ウィスコンシン州立大学よりフルブライト交換教授として招聘され、翌年から57年までコロンビア大学にて現代美術、宗教哲学を研究した。64年には、「オブジェを消せ」という啓示をうけたとされ、66年には「人類よ消滅しよう行こう行こう」という言葉を生みだし、垂れ幕にして会場に展示するなどのパフォーマンスをつづけた。そうした活動は、瀧口修造、中原佑介、針生一郎等の美術評論家たちの注目するところとなり、70年の第10回日本国際美術展「人間と物質」展に参加した。71年には、樹上小屋「泉水入瞑想台」を完成させるなど、従来の発表活動からも離れた独自の創作活動をつづけた。76年のヴェネツィア・ビエンナーレ、77年のサンパウロ・ビエンナーレにも参加。88年には『量子芸術宣言 芸術のパラダイム・シフト』を刊行。その後、各地の美術館における個展として、1994(平成6)年、山口県立美術館で「ミメントゥ・モーライ 死を念え」展、97年に斉藤記念川口現代美術館(埼玉県川口市)で「スピリチュアリズムへ・松澤宥1954―1997」展、2004年に広島市現代美術館にて同館収蔵作品展として「松澤宥作品&松澤宥キュレーション作品展 消滅と未来と」が開催された。また、82年7月、富山県立近代美術館での「第1回現代芸術祭 瀧口修造と戦後美術」展をはじめとして、戦後美術から現代美術までを「回顧」する各地の美術館の企画展にも、たびたび取り上げられその先駆性と特異な位置が検証されている。同時に、近年では、02年の東京都現代美術館における「傾く小屋 美術家たちの証言 since9.11」展、04年の豊田市美術館における「生命の美術―IN BED」展など、現代美術を通して現代の状況をとらえようとするグループショーにも積極的に参加していた。自宅でもある下諏訪の「プサイ(ギリシャ語のψ)の部屋」と名付けられたアトリエは、過去に制作された情念的なオブジェ等で埋まり、そのなかで松澤は半世紀近くにわたり東洋的な宗教観、宇宙観、現代数学、宇宙物理学等を組み入れながら思考を深め、そこから導き出された思想、観念そのものを芸術として表現しようとした。その点から日本における「コンセプチュアル・アート」の先駆的な存在とされているが、現代美術にあってそうした位置づけにとどまらない、「芸術の終焉」を見つめようとした思想性をもった希有な芸術家であった。

金山明

没年月日:2006/09/02

 元具体美術協会会員で、現代美術家の金山明は9月2日、肺がんのため、三重県川越町の病院で死去した。享年82。1924(大正13)年、兵庫県尼崎市に生まれる。1947(昭和22)年に多摩美術大学を中退、大阪市立美術研究所に学ぶ。ここで52年に、同研究所で学んでいた村上三郎、白髪一雄等とともに0会結成、また後に妻となる田中敦子(1932―2005)を知る。54年、0会展を大阪そごう百貨店で開催。55年、第7回読売アンデパンダン展(会場、東京都美術館)、「真夏の太陽にいどむモダンアート展(芦屋市美術協会主催、会場、芦屋川畔、同展の40数名の出品者中、前年結成の具体美術協会のメンバーが23名参加していたことから同協会の第1回野外展とされている)。同年10月、第1回具体美術展を東京で開催(会場、小原会館)、金山は、作品として白い巨大なアドバルーンと赤い電光を天井からつり下げ部屋全体を赤く照らす「たま」を室内に展示した。具体美術協会の展覧会では、従来の絵画、彫刻の概念を超えるために、素材や身体性を過剰なまでに強調した作品、あるいはパフォーマンスが注目されたが、金山の作品は、それとは逆に展示される「空間」そのものを意識させたという点で、むしろ具体のメンバーたちに強い影響をあたえた。当時のメンバーのひとりである嶋本昭三は、この金山の出品作について、つぎのように述べていることからも了解される。「一つの作品は巨大なアドバルーン状のもので部屋の天井から床までとどくようなものが会場の真中にどすんと居座っているのです。形そのもののもつ異様な感じもさることながら、会場全体に、もうこれ以上大きくはなれない、というような精一杯はち切った感じは正に奇観です。(中略)作品のこのような提示方法は美術の一つの在り方として、画期的なものであると思うのです。」(「金山明氏の『たま』」、『具体』4号、56年7月より)このように金山は、身体による表現性を抑制し、作品が置かれた空間、環境を鑑賞者に意識させる作品を発表し続け、1965年の第15回具体美術展まで毎回出品をつづけた。68年から翌年にかけて、アメリカ、カナダを巡回した「エア・アート」展に出品。80年代以降は、81年の「現代美術の動向Ⅰ 1950年代 その暗黒と光芒」展(東京都美術館)、85年の「絵画の嵐・1950年代―アンフォルメル・具体・コブラ」展(国立国際美術館)、86年の「前衛芸術の日本1910―1970」展(パリ、ポンピドーセンター)、1990(平成2)年の「具体―未完の前衛集団」展(渋谷区立松涛美術館)等、日本の戦後美術、あるいは具体美術協会の活動の再評価と検証を試みる各地の企画展に、その作品が出品された。93年には、「エア・アート」展以来の新作として「金山明 第1回個展 1950/1992」を名古屋市の「ギャラリーたかぎ」で開催した。この個展には、クラシック音楽をアナライジング・レコーダーによって記録された振動を視覚化し、作品として出品した。ここでも、人為的な関与を最小限にとどめ、ミニマルなかたちで音楽の視覚化としての「絵画」を制作した。具体美術協会の創立メンバーながら、その創作活動は、コンセプチュアルアートの先駆けをおもわせる、一貫して概念的で知的な思索と行為から生まれ、その点からも寡黙だがユニークな芸術家であった。没後の2007年1月、豊田市美術館にて「金山明」展が開催され、その芸術が初めて回顧された。

井田照一

没年月日:2006/06/05

 造形作家の井田照一は6月5日午後7時10分、がんのため京都市上京区の病院で死去した。享年64。  1941(昭和16)年9月13日、京都市に生まれる。京都市立美術大学西洋画科に入学し、同学卒業後、西洋画科専攻科に進学し、65年に修了する。絵画の持つ情緒性から脱することができ、多数の鑑賞者を得ることができることから石版画という技法に注目し、独自のかたちと明快な色彩によるリトグラフを制作。65年、京都の画廊紅で個展を開催。67年、第2回フランス政府留学生選抜毎日美術コンクール展で2位となり、翌年大賞を受賞し、フランス政府留学生として69年にパリへ留学。パリ滞在中の70年ころ、カール・アンドレらと知り合いコンセプチュアル・アートに触れ、マルセル・デュシャンのしごとを知る。ジョン・ケージとも交友し「時間と空間の同時性の中に自分の感性を取り込むこと」を造形のなかで試みるようになる。71年、シルクスクリーンによる「Surface is the Between」(表面は間である)の制作を開始。またこの頃、版画作品で展覧会場全体を埋め尽くすインスタレーションを試みる。76年には「Surface is the Between」シリーズの一環としてアトリエの床をフロッタージュし、水平の床に作家が垂直の力を加えた痕跡を作品化した「Surface is the Between―Between Vertical and Horizon “Paper Between Floor and Floor No.2”」を制作。同年、第10回東京国際版画ビエンナーレで文部大臣賞受賞。79年紙による制作「Lotus Sutra」シリーズを開始。79年大阪府立現代美術センターで回顧展を開催。85年、原美術館で回顧展を開催。86年、交友のあるロバート・ラウシェンバーグとともに日米文化国際交流名誉賞を受賞する。87年には郷里京都市美術館で回顧展を開催。1989(平成元)年サントリー美術館賞受賞。89年米国オレゴン州のポートランド美術館で個展、90年には同国オハイオ州シンシナティー美術館で個展を開催する。水平と垂直の出会いに深い興味を抱き続けた井田は、版面に垂直に落とされた腐食液が水平に広がって版を浸蝕するスピットバイト技法を好んだ。腐食の際に発生するガスが一因してがんを発症し、90年に食道がんの手術を行なう。闘病しつつも、京都のアトリエにとどまらず、国内のみならず海外にまで制作の現場を移す「移動するアトリエ」と自らが称した制作態度を貫いた。95年山口源大賞受賞。2001年、『Garden Project Since 1968 in Various Works 井田照一作品集』(阿部出版)を刊行。04年1月、豊田市美術館で「井田照一 版画の思考」展が開催され、初期から近作まで120点の作品によって作家の歩みを回顧する展観となった。人を含む諸物の存在は、他者との接触や出会いによって生ずる表面(Surface)であるとし、版画のほか、布、ガラス、陶器、鉄など多様な素材を用いて、表と裏、地と図が両義性を持つことを、色やかたちといった造形要素により見るものに訴えた。

村上善男

没年月日:2006/05/04

 前衛的な作品で知られる現代美術家の村上善男は、5月4日、心不全のため岩手県盛岡市の自宅で死去した。享年73。1933(昭和8)年、岩手県盛岡市の染物屋に生まれる。岩手大学在学中の53年、二科展に「蛾」を出品して初入選を果たす(以後61年の第46回まで出品)。54年に教諭として岩手県花巻市立湯本中学校へ赴任。翌年の第40回二科展に出した「ヴァグースQ」が岡本太郎の目にとまり、この年新たに設けられた二科九室、通称太郎部屋に展示される。それまでのシュルレアリスム的表現から、形象化された人の手と糸で構成された「綾取りシリーズ」への移行がこの作品には顕著にみられる。57年には転勤先の岩手町で齋藤忠誠らと諮り、岩手町在住者を主体として「エコール・ド・エヌ」を結成。60年から、工業製品をポリエステルで固めたアサンブラージュによる「注射針シリーズ」「計測シリーズ」を展開していく。高校教師として再び転勤する61年にエコール・ド・エヌを退会、さらに岡本太郎の二科会脱退に続いて62年から団体展への出品も取りやめる。以降、グループ展や個展など表現方法の制約にとらわれない場での活動を重視するようになる。同年、詩人・高橋昭八郎に呼びかけ「一人の詩人、八人の画家と一人の芸術家、舞踏家による盛岡四月八日の日曜日」と題するショーを開催、この時の参加者・大宮政郎、柵山龍司らと共に盛岡で「集団N39」を結成。同年、第6回シェル美術大賞展において第3席受賞。「集団N39」は東北を拠点とした新たな前衛美術運動として注目されるが、次第にその活動は停滞、形式ばかりの存続を潔しとせず、69年解散を決意するに至る。68年に仙台へ転居していた村上は70年から、やはり数字や記号を取り入れた「気象シリーズ」に着手、ブルーやグレーを基調色として再び描写による制作を始める。続く「貨車シリーズ」では、「積空」「ワム」「テム」など、興味を抱いた貨車記号のイメージを独自の詩的解釈に基づいて画面に再構成していった。82年、弘前大学教育学部教授就任に伴い弘前に拠点を移す。津軽の民俗的大気に魅せられた村上は新たに「釘打ちシリーズ」を構想。津軽凧の裏打ちに使われていた古文書に思いがけなく美を発見。裏返して画面に貼り付け点を打ち線で結ぶ構成により津軽の記憶とイメージを形象化していった。2004(平成16)年盛岡に戻った後は、アトリエを花巻に置いて制作を続けていた。2005年には川崎市岡本太郎美術館を立ち上げとして回顧展「北に澄む」が開催された(萬鉄五郎記念美術館等に巡回)。翌06年には岩手町立石神の丘美術館で「村上善男展―1950年代を中心に 冷たい計算から熱い混沌へ…」が催されるが、村上自身は開催を目前にして世を去るかたちとなった。また美術家としてのみならず研究家としても知られ、萬鉄五郎をはじめ郷土に纏わる著述を特に多く残している。主な著書に『松本竣介とその友人たち』(新潮社、1987年)、『萬鉄五郎を辿って』(創風社、1997年)、『東北という劇空間』(創風社、2004年)などがある。

脇田愛二郎

没年月日:2006/01/26

 立体造形、版画等の平面作品を、アメリカ及び国内で発表していた美術家脇田愛二郎は、肝不全のため、東京都文京区の病院で死去した。享年63。1942(昭和17)年、現在の東京都港区に、画家脇田和(1908―2005)の二男として生まれる。64年武蔵野美術大学を卒業後に渡米。翌年からニューヨークに住み、ブルックリン・アート・ミュージアムに学ぶ。69年、ニューヨークのマーサ・ジャクスン・ギャラリーで個展を開催。60年代から工業製品であるワイヤーを素材に使用、円形状に並べたレリーフ状の作品を制作、さらにそれを転用して版画作品を制作した。以後、70年代にかけて、「螺旋」をテーマにした立体(木製、金属製)、平面作品を発表した。また78年に『脇田愛二郎の環境造形』(アート・テクニック・ナウ第12巻、河出書房新社)を刊行。(95年に増補版を刊行。)同書で、「彫刻とか、絵とか、版画とかさまざまなカテゴライズされた仕事をするのではなく、人間と物と場の相関関係を重視すべきであろう。」と述べている。その創作活動は、素材を問わない多岐なものだが、いずれも立体、平面作品において、つねに作品が置かれることで、その空間の意味を変移させようとする志向がはたらいていたといえる。そのために脇田は、70年代から「環境」への関心を早く持つようになった。70年代末頃からステンレス製の直方体に木製の太いリングがからみつく作品を発表、これにより83年に第11回平櫛田中賞を受賞。85年、詩人辻井喬との共作で詩画集『錆』(河出書房新社)を刊行。86年の第2回東京野外現代彫刻展(会場、東京都世田谷区砧公園)に「ねじられた錆の柱」を出品、大賞受賞。同年7月に渋谷区立松涛美術館にて「特別陳列脇田愛二郎」展を開催。鉄、アルミニウム等の金属による立体作品「ねじられた柱」のシリーズ16点を出品した。

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