本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





尾川多計

没年月日:1945/10/12

 美術批評家尾川多計は交通事故の為10月12日逝去した。享年39。明治39年東京に生れ、川端画学校洋画部に学び、美術雑誌「アルト」「中央美術」「エコー」等の編集をなし後、毎日新聞社に入り文化部嘱託として美術評論を担当していた。

河野桐谷

没年月日:1944/11/15

 美術評論家河野桐谷は11月15日逝去した。享年66。本名穣。明治12年東京に生れ、早稲田大学文科を卒業し、劇の研究に志し、後秋田雨雀、楠山正雄等と共に美術劇場を起した。また国桂文芸会に従事、戯曲と美術に関する著書を出し、「南画鑑賞」の主幹として健筆を揮つた。

外狩素心庵

没年月日:1944/04/22

 素心庵外狩顕章は4月22日急性肺炎の為逝去した。享年52。明治26年愛知県に生れ、曹洞宗大学を出て、大正2年二松学舎を卒業、同年中外商業新聞社に勤務、美術記者として独自の境を開いた。その評論批判は斯界の注目を惹き、古美術に関する造詣深く、美術骨董界に貢献する所大きかつた。大正13年同社学芸部長、昭和3年参事、昭和18年嘱託となつた。又、多趣味で知られ、書道・絵に達し、詩や句も作つたが、ことに南画は数回展覧会に出品したことがある。遺著も数種ある。

新田章童

没年月日:1943/11/16

 美術雑誌「都市と芸術」を主宰した京都の新田章童は11月16日逝去した。氏は「都市と芸術」を発行する事30年に及びその間京都美術界の発展に尽した。

田口掬汀

没年月日:1943/08/09

 美術雑誌「中央美術」を主宰した田口掬汀は8月9日逝去した。享年6 9。本名鏡次郎。明治8年秋田県角館に生れ万朝報、大阪毎日、東京日日などの記者をつとめ、美術一般に造詣深く創作評論で知られた。中央美術を創刊し、大正5年金鈴社の結成には大いに力を尽した。同社が華々しい活躍をして当時の日本画壇に大きな影響を与えたのも、その努力の賜である。後、東京府美術館常議員となつた。田口省吾は子息にあたる。

山本広洋

没年月日:1942/10/20

 「新美」編輯者山本広洋は腸狭窄症のため10月20日死去した。享年56。本名信太郎、明治21年3月15日姫路に生れ、同45年東京美術学校日本画科卒業、大正元年より神戸一中の図画教師を勤めたが、後新聞界に入り、神戸新聞、大阪時事新報等に関係した。久しく兵庫県美術協回を主宰し、本年1月兵庫県新美術聯盟結成されるやその幹事となつてゐたものである。

坂井犀水

没年月日:1940/07/31

 美術記者坂井犀水は7月31日逝去した。享年70歳。本名義三郎、明治4年3月石川県に生れた。明治24年帝国博物館技手兼臨時全国宝物取調局技手に任ぜられしも、後辞し、関西学院等にて宗教を研究す。34年「東京評論」を発行、傍ら「美術画報」を編輯す。38年雑誌「月刊スケツチ」を発行、又白馬会機関誌「光風」の編輯に当る。42年「美術新報」主幹、後「美術」及び「美術週報」主筆となる。43年白馬会会員となる。大正2年国民美術協会創立に参与し、同会理事兼主事となつた。その著書に「画聖ラフアエル」(明治35年)、「日本木彫史」(昭和4年)及び「黒田清輝」(昭和12年)がある。

関如来

没年月日:1938/02/20

 美術評論家関如来は動脈硬化症の為、東京府立大塚病院に於て逝去した。享年73歳。 本名巌二郎、慶応2年11月16日大和櫛羅藩永井信濃守の家臣関祐忠の四男として葛城山下の藩地に生る。明治10年大阪府立大阪英語学校に入学、ついで東京大学予備門に転じ、同18年同校を退き、同27年読売新聞社に入社、文学及美術を担当した。同30年、一時帝国博物館の帝国美術略史編纂を嘱託され、又同年臨時博覧会事務局の事務を嘱託され、同32年には臨時博覧会鑑査官を仰付けられた。同31年日本美術院創立に参画し依つて天心よりその正員たらんことを求められたが受けなかつた。同35年読売を退社、美術史の著作に従事し、傍ら「ステユデイオ」社の日本通信員となつた。同43年読売に復社し美術部主任となつたが、大正3年退社した。昭和4年京都日出新聞社より聘せられてその発行人となり爾後京都に寓居した。読売入社当時訪問記事「当世名家蓄音器」を連載、その後31年の美術学校紛擾の際も美術記者として筆を揮つた。又29年より美術評論の執筆に生涯を終始した。「美術」「書画之研究」「関」等の雑誌を発行したことがあり、著者としては「当世名家蓄音機-文禄堂発行」、「五色の酒-春陽堂発行」があり、其他「日本靖献帖」の解説編輯、「霊華追悼画集」の編纂等がある。

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