本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,817 件)





竹田道太郎

没年月日:1997/12/10

 美術評論家で元女子美術大学教授の竹田道太郎は12月10日午前2時58分、肺炎のため川崎市幸区の病院で死去した。享年91。明治39(1906)年11月6日新潟県柏崎市に生まれる。早稲田大学文学部独逸文学科を卒業後、昭和7(1932)年4月、都新聞第二部(社会部)に入り警視庁、裁判所詰めを経て文部省クラブに所属、金井紫雲のあとをうけて美術記者を務めた。同10年帝展改組の折には改組反対の立場から精力的に記事を書き、なかでも小杉放庵の芸術院会員辞退の特ダネを抜き、注目された。同11年2月より朝日新聞社会部、学芸部、雑誌編集室(週刊朝日)で美術関係を担当。昭和36年11月定年退職以後、武蔵野美術大学教授、女子美術大学教授を務める。主要編著書『新聞における美術批評の変遷』(朝日新聞調査研究室報告 昭和30年2月)『日本画とともに 十大巨匠の人と作品』(鈴木進と共著 雪華社 昭和32年12月)『画壇青春群像』(雪華社 昭和35年4月)『美術記者30年』(朝日新聞社 昭和37年7月)『日本近代美術史』(近藤出版社 昭和44年)『小林古径』(集英社 昭和46年12月)『続日本美術院史』(中央公論美術出版 昭和51年1月)『今村紫紅とその周辺』(至文堂 昭和51年11月)『大正の日本画』(朝日新聞社 昭和52年9月)『原三溪』(有隣新書 昭和52年11月)『巨匠達が生れる迄』(真珠社 昭和60年6月)『安田靫彦』(中央公論美術出版 平成元年10月)

赤根和生

没年月日:1997/05/26

 美術評論家で、元大阪芸術大学教授の赤根和生は、下咽頭ガンのため5月26日午前6時20分、神戸市灘区の六甲病院で死去した。享年72。大正13(1924)年6月8日、秋田県秋田市に生まれ、昭和23(1948)年東京外国語大学イタリア語学科を卒業後、オランダ国立美術史研究所に留学した。帰国後、同45年の大阪万国博覧会では、現代美術部門の企画を担当し、同47年にはドイツ、カッセル市におかるドクメンタ・5で、日本代表コミッショナーをつとめた。また、国立国際美術館運営委員、兵庫県立近代美術館審美委員、神戸須磨離宮公園野外彫刻展選考委員などを歴任した。美術研究の面では、モンドリアン研究に専念し、日本で初めての本格的な評伝「ピート・モンドリアンーその人と芸術」(美術出版社、1971年)をはじめ、訳編「自然から抽象へ モンドリアン論集」(モンドリアン著、美術出版社、1975年)、訳「抽象への意志 モンドリアンとデ・ステイル」(ハンス・ルードヴィッヒ・ヤッフェ著、朝日出版社、1984年)を残し、その研究は国際的にも評価された。

増田洋

没年月日:1997/05/11

 美術評論家の増田洋は、5月11日午後9時33分、食道ガンのため死去した。享年64。昭和7(1932)年6月17日、兵庫県神戸市に生まれ、同31年に神戸大学文学部哲学科芸術学専攻を卒業後、同年に石橋美術館の学芸員となり、同35年からは大阪市立美術館学芸員に転任した。同44年兵庫県立近代美術館学芸課長に赴任した。同61年、同美術館次長となり、平成6年には参与となった。編著書に「小出楢重」(日本の名画17巻 中央公論社)、「平福百穂・富田溪仙」(共著 現代日本美術全集2巻 集英社)、「小磯良平油彩作品全集」(求龍堂)、「小磯良平」(現代日本素描全集9巻 ぎょうせい)、「向井潤吉・小磯良平」(共著 20世紀日本の美術17巻 集英社)などがある。こうした美術研究のかたわら、美術館学芸員として、37年間一貫して現場から発言をつづけ、それらは「学芸員のひとりごと」(増補新装版 芸艸堂)としてまとめられた。

岡田隆彦

没年月日:1997/02/26

 美術評論家、詩人で慶應大学環境情報学部教授の岡田隆彦は、2月26日午後2時5分、下咽頭ガンのため、埼玉県富士見市の三浦病院で死去した。享年57。慶應大学文学部仏文科在学中に、吉増剛造、井上輝夫らと詩誌「ドラムカン」を創刊、詩集「史乃命」などで60年代を代表する詩人のひとりと目された。昭和60(1985)年には、詩集「時に岸なし」(思潮社)によって第16回高見順賞を受賞した。一方、東京造形大学教授、「三田文学」編集長、美術評論家連盟事務局長などをつとめ、近現代美術を中心とする美術評論も積極的に執筆した。主要な美術に関する著作、翻訳は下記のとおりである。「日本の世紀末」(小沢書店、1976年)、「ウィリアム・モリスとその仲間たち」(岩崎美術社、1978年)、「美術散歩50章」(大和書房、1979年)、「かたちの発見」(小沢書店、1981年)、「ラファエル前派」(美術公論社、1984年)、「現代美術の流れ」(エドワード・ルーシー・スミス著、水沢勉共訳、パルコ出版局、1986年)、「アーシル・ゴーキー」(メルヴィン・P・レーダー著、篠田達美共訳、美術出版社、1989年)、「ラファエル前派の夢」(ティモシー・ヒルトン著、篠田達美共訳、白水社、1992年)、「芸術の生活化」(小沢書店、1993年)。

久保貞次郎

没年月日:1996/10/31

 美術評論家で跡見学園短大学長、町田市立国際版画美術館館長をつとめた久保貞次郎は10月31日午前11時30分、心不全のため東京都千代田区の半蔵門病院で死去した。享年87。 明治42年5月12日、栃木県足利市に、父小此木仲重郎、母ヨシの次男として生まれる。昭和3年4月日本エスペラント学会に入会。同8年東京帝国大学文学部教育学科を卒業して同大大学院に進学する一方、同年4月より一年間、大日本聯合青年団社会教育研究生となる。また、同年11月結婚により久保家の婿養子となり、久保と改姓する。同10年、日本エスペラント学会の九州特派員として九州各地をまわり、宮崎で後に瑛九となる杉田秀夫に出会い、現代美術への興味を深め、以後瑛九を通じてオノサト・トシノブなどの作家たちと交遊を持つにいたった。同13年4月栃木県真岡町小学校校庭に久保講堂が竣工し、その記念事業として児童画展が行われるに伴いその審査員をつとめ、同年8月児童美術ならびに美術の研究のため北アメリカ、ヨーロッパへ渡り翌14年5月に帰国する。同19年秋、真岡に航空会社を設立。戦後の同26年瑛九を中心にデモクラート美術協会が結成されると、会員とはならずに外部から評論家として支援。同27年創造美育協会設立に参加した。評論家、収集家として主に現代版画の振興に尽くし、瑛九のほか、北川民次、利根山光人、泉茂、吉原英雄、池田満寿夫、小田㐮、深沢史朗、木村光佑らと交遊が深かった。同41年にはヴェネツィア・ビエンナーレの日本代表をつとめる。同52年10月跡見学園短期大学学長に就任し、8年間その任にあたった。また、同61年9月から平成5年3月まで町田市立国際版画美術館館長をつとめた。著書に『ブリウゲル』(美術出版社)、『シャガール』(みすず書房)、『児童画の見方』(大日本図書)、『児童美術』(美術出版社)、『子どもの創造力』(黎明書房)、『児童画の世界』(大日本図書)、『ヘンリー・ミラー絵の世界』(叢文社)、『久保貞次郎 美術の世界』全12巻(叢文社)などがある。平成4年6月、町田市立国際版画美術館で「久保貞次郎と芸術家展」が開かれ、その業績が回顧された。

鈴木健二

没年月日:1996/10/08

 美術評論家で滋賀県立陶芸の森館長、元九州芸術工科大学教授の鈴木健二は、10月8日午後10時、肝硬変のため福岡市南区の病院で死去。享年67。昭和4(1929)年9月27日山形県に生まれる。同30年東京芸術大学美術学部芸術学科を卒業し、同35年に京都大学大学院文学研究科博士課程を修了。同38年国立近代美術館京都分館(現・京都国立近代美術館)文部技官となり、特別展「現代の陶芸―カナダ・アメリカ・メキシコと日本」(昭和46年)などを担当。その後同館主任研究官、九州芸術工科大学教授、佐賀県立有田窯業大学校長などを経て平成5(1993)年滋賀県立陶芸の森館長に就任。近代以降の陶芸を中心にした工芸が専門。とくに戦後の陶芸の動きに積極的に発言し、九州の現代作家についても活発に評論活動をした。『現代日本の陶芸』(講談社)を編集。

高見堅志郎

没年月日:1996/09/16

 美術評論家で武蔵野美術大学教授の高見堅志郎は、9月16日午前2時50分、肺水腫のため千葉県市川市の国府台病院で死去した。享年62。昭和8(1933)年兵庫県に生まれる。同32年早稲田大学文学部卒業。同36年同大大学院修士課程(美術史学専攻)修了。同38年より武蔵野美術大学で教鞭をとり、後に武蔵野美術大学短期大学部生活デザイン学科教授、早稲田大学文学部講師を務める。主な著書に『近代世界美術全集 第11巻 近代建築とデザイン』(共著 社会思想社 昭和40年)、『ヴィヴァン 第22巻 シャガール』(講談社 平成7年)、監修に『世界の文様』(青菁社 平成元年)など近代美術・近代デザインに関するものが多い。昭和62年から雑誌『武蔵野美術』の責任編集者。武蔵野美術大学が運営する「ギャラリーαM」の企画にも関わる。平成6年からは市政顧問(館長予定者)として、新設される宇都宮美術館の構想・企画・作品収集などに従事していた。

河北倫明

没年月日:1995/10/30

 美術評論家で文化功労者の河北倫明は10月30日午前3時45分心不全のため、東京都文京区の順天堂病院で死去した。享年80。大正3(1914)年12月14日福岡県浮羽郡山春村に生まれる。久留米市立篠山尋常小学校を経て、昭和6(1931)年福岡県立明善校を修了。同10年旧制第五高等学校を卒業して京都帝国大学文学部に進学し、同13年同大哲学科を卒業して同大学院に進学する。同18年帝国美術院付属美術研究所(現・東京国立文化財研所)助手となり、日本近代画家の調査・研究に取り組む。戦後、同23年ころより日本近代美術史に立脚した現代美術評論活動を盛んに行うようになった。同23年同郷の洋画家青木繁の調査・研究成果として『青木繁』(養徳社)を刊行。また、同年『近代日本画論』(高桐書院)を刊行して、個々の作家、作品についての調査・研究に基づぎながら、史的流れのうえにそれらを位置づける日本近代絵画史の新たな方向を提起した。同27年国立近代美術館(現・東京国立近代美術館)事業課長となり、日本で最初の近代美術館の運営に尽力。また、美術評論の分野でもその活性化と相互の連絡を目的として同29年美術評論家連盟を結成し、事務局長に就任した。同38年3月東京国立近代美術館次長となる。同42年5月美術交流展覧会のためソヴィエト連邦を訪れる。以後も、美術による国際交流のため中国、西欧、アメリカ、南米等を訪れる。同44年2月京都国立近代美術館館長となって、関西方面の美術館活動にも深く関わるようになり、同45年大阪万博では同博覧会美術館委員をつとめた。同57年美術館連絡協議会理事長に就任し、歿するまで全国の美術館運営、学芸員の調査・研究の奨励に寄与した。同61年10月より平成6(1994)年まで美術評論家連盟会長をつとめる。昭和61年京都国立近代美術館館長を退き、京都芸術短期大学の設立に尽力して翌62年6月同大学学長となった。平成元(1989)年1月より同4年6月まで横浜美術館館長をつとめ、この間同3年より同7年3月まで京都造形芸術大学学長をもつとめた。また、平成元年私財を投じて全国の若手の美術館学芸員、美術研究者の活動を支援すべく「倫雅美術奨励賞」を創設。同5年より式年遷宮記念神宮美術館館長、同7年より京都造形芸術大学名誉学長となった。主要著書に『日本の美術』(昭和33年 社会思想研究社出版部)、『大観』(同37年 平凡社)、『村上華岳』(同44年 中央公論美術出版)、『坂本繁三郎』(同49年 中央公論美術出版)、『河北倫明美術論集』全5巻(昭和52-53年 講談社)、『近代日本絵画史』(高階秀爾と共著 昭和53年中央公論美術出版)、『河北倫明美術時評集』全5巻(平成4-6年 思文閣出版)がある。

浜口隆一

没年月日:1995/01/02

 建築評論家の浜口隆一は1月2日午後7時心不全のため静岡県掛川市亀の甲の自宅で死去した。享年78。大正5(1916)年3月26日に東京に生まれる。昭和13(1938)年東京帝国大学工学部を卒業して同校大学院へ進学する。近代建築史を中心に研究し、同19年『新建築』に「日本国民建築様式の問題」を発表。同23年東京大学建築学科助教授となり、のち日本大学教授となる。同26年アメリカにわたり、建築雑誌の編集にたずさわる。同27年日本の現代建築に関する著書『ヒューマニズムの建築』を刊行。建築評論家の先駆として注目され、以後建築ジャーナリズムの中心的存在として活躍した。同42年『現代建築の断面』を刊行。日本サイン学会会長、社団法人日本サインデザイン協会顧問をもつとめた。近年はネオンサインや看板などを含めた都市景観について発言していた。

匠秀夫

没年月日:1994/09/14

 日本近代美術史研究者で、現代美術の評論においても幅広く活動した茨城県近代美術館館長の匠秀夫は、9月14日食道がんのため東京都文京区の順天堂病院で死去した。享年69。日本近代洋画史の研究で著名であった匠は、大正13(1924)年11月28日北海道夕張郡夕張町字住初社宅19号-2 (現夕張市)に生まれ、幼少時から札幌で養育され、北海道庁立札幌第一中学校を経て、昭和19年京都帝国大学文学部選科へ進んだが、翌年陸軍二等兵として入営した。戦後の同23年京都大学を中退し北海道大学文学部史学科に入学、堀米庸三教授の下で西洋中世史を研究し、同32年同大学大学院を修了した。この頃から日本近代洋画史への関心を深め、精査な資料収集と調査を開始し、また、河北倫明著『青木繁-生涯と芸術』(同23年)に啓発されたり、土方定一を識り作家研究の方向性を示唆されたこともあり、本格的に日本近代美術史を専攻するに至った。同39年、最初の著書『日本近代洋画の展開』を昭森社から刊行、同書は美術と文学との関わりに注目する等、事実の羅列に止まらない独自の史観を盛った斬新な日本近代洋画史論として高く評価された。一方、北海道出身の作家研究も独自に展開、同43年に「三岸好太郎-昭和洋画史への序章』、翌年『中原悌二郎』の二書をその成果として世に出した。この間、同39年から、札幌大谷短期大学で教鞭を執ったが、同43年神奈川県立近代美術館主任学芸員に迎えられ、以後、同館での数多くの企画展に関わり、日本現代美術、西洋近・現代美術へも研究の領域を広げるとともに、美術評論の活動も精力的に展開した。同51年、神奈川県立近代美術館副館長、同56年同館長に就任、同60年同館を定年退職した。また、中原悌二郎賞審査委員、安井賞選考委員、現代日本美術展審査委員、高村光太郎大賞審査委員、日本国際美術展選考委員など数々の委員に携わったほか、杉野女子大学、法政大学文学部、札幌学院大学、愛知県立芸術大学などの非常勤講師をつとめた。同60年、茨城県参与(新美術館担当)を委嘱され、同63年茨城県立近代美術館開設と同時に館長に就任し、同館の運営に尽力した。執筆活動は晩年に至るまで極めて旺盛で、その全容は、残後一周忌にあたり上梓された『匠秀夫 年譜・著作目録』 (陰里鉄郎編)に詳しい。同誌から、著書(含共著、編著等)のみを以下に掲げる。著書『近代白木洋画の展開』(昭森社、昭和39年12月)『中原悌三郎・その生涯と芸術<旭川叢書二> 』(旭川市、昭和43年3月)「三岸好太郎-昭和洋画史への序章』(北海道立美術館、昭和43年11月)「中原悌二郎』(木耳社、昭和44年12月)『近代の美術 第26号 三岸好太郎」(至文堂、昭和50年1月)『小出楢重』(日動出版部、昭和50年2月)『近代日本洋画の展開』(昭森社、昭和52年2月)『近代日本の美術と文学-明治大正昭和決の挿絵-』(木耳社、昭和54年11月)『近代の美術 第58号 日本の水彩画』(至文堂、昭和55年4月)『岩波ジュニア新書 22 絵を描くこころ』(岩波書店、昭和55年10月)『大正の個性派』(有斐閣、昭和58年4月)『棟方志功 讃』(平凡社、昭和59年11月)『小出楢重』(日動出版部、昭和60年2月)『日本の近代美術と文学-挿画史とその周辺』(沖積社、昭和62年11月)『物語 昭和洋画壇史Ⅰパリ豚児の群れ』(形文社、昭和63年10月)『戦中病兵日記』(昭森社、平成元年8月)『物語 昭和洋画壇史II“生きている画家たち” -閉塞の時代』(形文社、平成元年11月)『日本の近代美術と西洋』(沖積社、平成3年9月)『三岸好太郎-昭和洋画史への序章』(求龍堂、平成4年8月)『日本の近代美術と幕末』(沖積社、平成6年9月)共著、編著、訳書、監修本『彫刻の生命』中原悌二郎著、匠秀夫編(中央公論美術出版、昭和44年2月)『小熊秀雄・詩と絵と画論』小田切秀雄、匠秀夫共編(三彩社、昭和49年1月)『世界の巨匠シリーズ ムンク』トーマス・メッサー著、匠秀夫翻訳(美術出版舎、昭和49年11月)『大切な雰囲気』小出楢重著、匠秀夫編(昭森社、昭和50年9月)『衣服の文化史-美術史との交響』井上泰男、匠秀夫共著(研究社、昭和53年5月)『有島生馬芸術論集-一つの予言』紅野敏郎、匠秀夫、有島睦子編(形象社、昭和54年9月)『中原悌二郎の想出』中原信著、匠秀夫監修・編集(日動出版部、昭和56年1月)『小出楢重全文集』匠秀夫編(五月書房、昭和56年9月)『日本水彩画名作全集 二 石井柏亭』匠秀夫編・著(第一法規出版、昭和57年6月)『日本水彩画名作全集 五 中西利雄』匠秀夫編・著(第一法規出版、昭和57年7月)『現代日本の水彩画<全5巻>』匠秀夫監修(第一法規出版、昭和59年)『ハムレット-神奈川県立近代美術館収蔵のドラクロワの版画-<美術館収蔵名作シリーズ>』ドラクロワ、F.V.E著、匠秀夫監修(形象社、昭和59年)『日本の水彩画<全20巻>』匠秀夫監修(第一法規出版、平成元年)『ゴッホ巡礼<とんぼの本>』向田直幹、匠秀夫著(新潮社、平成2年11月)『土方定一 美術批評 1946-1980』土方定一著、匠秀夫、陰里鉄郎、酒井忠康編(形文社、平成5年10月)『児島善三郎の手紙』匠秀夫編(形文社、平成5年10月)『原勝郎画集』匠秀夫編(原勝郎画集刊行委員会[原のぶ子方]、平成6年2月)『小出楢重の手紙』匠秀夫編(形文社、平成6年5月)

中村傳三郎

没年月日:1994/08/23

 東京国立文化財研究所名誉研究員の美術史家、美術評論家の中村傳三郎は、8月23日大腸がんのため千葉県市川市の東京歯科大学市川総合病院で死去した。享年77。日本近代美術史、とくに日本近代彫塑史の実証的研究に先鞭をつけた中村は、大正5(1916)年10月30日兵庫県芦屋市西蔵町2番地11号に生まれ、昭和15年甲南高等学校高等科を卒業し東京帝国大学文学部美学美術史学科へ進み、同17年9月卒業した。同年4月陸軍二等兵として入営し、戦後の同21年5月ラパウルから名古屋に帰還、除隊する。翌22年5月から兵庫県武庫川学院中学校教諭となったが同年9月に退職、10月、国立博物館附属美術研究所(現東京国立文化財研究所美術部)に奉職した。以後、同24年文部技官となり、同42年美術部主任研究官、同47年美術部第三研究室長に昇任、同53年4月定年退官した。美術研究所入所当初から日本近代美術、特に従来殆んど未開拓であった明治以降の彫塑史研究に着手し、すでに同26年には「明治末期におけるロダン」を研究所の機関誌「美術研究」第163号に発表した。同論文は、日本近代彫刻における西洋彫刻の受容と展開に着目したものであり、この分野における実証的研究に先鞭をつけた論考として注目された。続いて、ロダンの影響を最初に受け、真に彫刻界に近代をもたらしたとされる荻原守衛の生涯と芸術に関する詳細な研究を続行し、その成果を同33年以来「美術研究」誌上に6回にわたって発表した。一方、平櫛田中ら木彫家の作家研究、明治以来の彫塑団体の系統的調査研究を併行し、日本近代彫刻史の史的展開を総合的に把握するに至った。上記研究の主要な論文は、著書『明治の彫塑』(平成2年)にまとめられ、同書で平成3年、第45回毎日出版文化賞を受賞した。また、彫塑・立体造型を主とする現代美術の動向の調査研究にも従事し、その成果は在職中の『日本美術年鑑』の編集、執筆に生かされている。さらに、日本美術評論家連盟会員として、批評活動も展開し、数多くの美術批評を新聞や雑誌に発表し、作家の創作活動に大きく寄与した。主要著書・論文著書明治の彫塑(共著)(昭和31年11月、洋々社)彫塑界とロダン(共著)(昭和36年9月、角川書店)竹内栖鳳(共著) (昭和38年1月、講談社)彫刻界の動き(共著)(昭和39年7月、角川書店)工芸・彫刻(共著)(昭和50年3月、東京国立文化財研究所)岡田三郎助(共著)(昭和50年5月、集英社)北村西望-その人と芸術(共著)(昭和51年6月、講談社)工芸・彫刻(共著)(昭和52年1月、有斐閣)荻原守衛とその周辺(昭和52年3月、至文堂)近代日本彫刻の流れ(共著)(昭和52年6月、東京芸術大学)明治の彫塑(平成3年3月、文彩社)論文明治末期におけるロダン(昭和26年11月、美術研究163)明治時代の彫塑団体青年彫刻会について(昭和31年1月、美術研究184)四条派資料「村松家略系」と呉春・景文伝(昭和36年5月、美術研究216)松村景文筆雪中白梅豆鳥図(昭和38年12月、国華861)荻原守衛-生涯と芸術-(昭和39年7月、美術研究235(以下、264、266、274、279、290号に継続))平櫛田中-人と芸術-(昭和48年4月、形象12)(なお、「碌山美術館報」第16号に詳細な著作目録-中村傳三郎「近・現代日本の彫塑」主要著作目録-が編集収載されている。)

岩崎吉一

没年月日:1994/06/13

 東京国立近代美術館次長で、美術評論家の岩崎吉ーは、6月13日午後7時25分、肺がんのため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年59。岩崎は、昭和10年5月13日、福岡県北九州市八幡西区香月町に生まれ、都立日比谷高校卒業後、学習院大学文学部にすすみ、富永惣ーの指導をうける。同38年学習院大学大学院修士課程を修了、同36年から東京国立近代美術館に勤務。その問、同44年から翌年にかけて、大阪万国博覧会開催にともなう、万国博美術館に勤務、展覧会企画および運営を担当。同54年に、同美術館美術課長、同57年からは、企画資料課長を歴任し、平成4年からは次長となった。在職中、「徳岡神泉遺作展」(昭和49年)、「フォンタネージ、ラグーザと明治前期の美術展」(同52年)、「東山魁夷展」(同56年)、「村上華岳展」(同59年)、「モディリアーニ展」(同60年)、「写実の系譜II 大正期の細密描写」展(同61)、「杉山寧」展(同62年)、「高山辰雄展」(平成元年)、「手塚治虫展」(同2年)等、数多くの企画展を担当した。さらに、こうした美術館活動のかたわら、「名古屋市美術館開館記念館 20世紀絵画の展開」(昭和63年)をはじめ、各地の美術館、新聞社等の企画展にも積極的に協力した。また、画集『村上華岳』(日本経済新聞社、昭和59年)、『平山郁夫画集』 (朝日新聞社、平成元年)、『小茂回青樹画集』(日本経済新聞社、同2年)、『定本徳岡神泉画集』(朝日新聞社、同5 年)等の画集の監修執筆など、代表的な近、現代の日本画家の作家論を中心に執筆活動も旺盛におこなった。その評論は、美術館で今泉篤男、河北倫明の薫陶をうけ、作家の全体像をつねに念頭におぎながら、その芸術の本質を把握しようとつとめる姿勢がつらぬかれていた。なお、歿後、亡くなるまでの十年間の日本画に関する代表的な論考をまとめた、論集『近代日本画の光芒』(京都新聞社、平成7 年)が公刊され、同書巻末に「岩崎吉一主要著作」として初期から晩年にいたるまでの著作目録が付されているので、参照されたい。

重森弘淹

没年月日:1992/10/13

 武蔵野美術大学教授、東京総合写真専門学校長の写真評論家重森弘淹は10月13日午前7時15分、心不全のため東京都大田区の東邦大学大森病院で死去した。享年66。大正15(1916)年7月27日、岡山県上房郡に生まれる。昭和19(1944)年京都府立桃山中学校を卒業し、同21年同志社大学文学部に入学するが同23年4月に中退。同25年8月から月刊誌「いけばな芸術」の編集に従事。同30年6月上京し、この頃から安倍公房らが結成した「夜の会」に参加。同年より写真評論を始める。同32年多摩美術大学講師となり写真理論を講じ、翌年より武蔵野美術大学講師を併任。同33年9月東京フォトスクールを創立する。同41年、同校を学校法人写真学園東京総合写真専門学校と改め、同校理事長、校長を兼任した。同48年写真評論誌「写真批評」を創刊。同49年日本映像学会の設立に参加。同55年多摩美術大学ならびに武蔵野美術大学客員教授となったが、平成2(1990)年に武蔵野美術大学に映像画科を新設するのに伴って同科教授となり多摩美術大学を退いた。東松照明、奈良原一高らを早くから紹介するなど写真界の若手育成に尽くしたほか、北海道東川町国際写真フェスティヴァル等の審査員をつとめるなど、写真芸術の振興に寄与した。著書に『現代の写真』(社会思想社)、『広告写真を考える』(誠文堂新光社)、『写真芸術論』(美術出版社)、『現代のいけばな』(八阪書房)等がある。

ジョセフ・ラヴ (Joseph Love)

没年月日:1992/04/15

 元上智大学文学部教授で、西洋美術、現代美術評論を執筆する一方、墨絵や木版画の制作にもあたったジョセフ・ラヴは、4月15日午後8時58分、急性肺炎のため、東京都多摩市の病院で死去した。享年62。1929年8月1日、アメリカ、マサチューセッツ州ウースターに生まれる。同56年ボストン大学神学部修士課程を修了し、同年イエズス会士として来日。64年に上智大学神学部修士課程を修了。67年にはアメリカ、コロンビア大学美術史科修士課程を修了した。後、再来日し、89年まで上智大学で美術史を教えた。現代美術評論もよくし雑誌「美術手帖」等に執筆。木版画や墨絵を制作する作家でもあり、61年の米国ワシントンD・Cにあるコーコラン美術館での個展をはじめ、66年ニューヨークのアロンゾ・ギャラリー、71年サンタ・クララのディセセット美術館、73年オーストラリア・シドニーのボニソン・ギャラリー等各国で個展を開いた。日本では1972年東京の南画廊での個展を皮切りに、75、76年東京のオオサカ・フォルム画廊で、78年から81年まで毎年ギャラリー手で、83、84年ギャラリーQで個展を開き、85年IBM川崎市民ギャラリー、90年にはINAXギャラリー、92年にはパルテノン多摩でも個展を開催した。80年代後半から体の自由を失なって車椅子生活に入り、詩人大岡信、谷川俊太郎ら友人の支援を得て活動していた。カトリック司祭でもあり、著書に『教えるヒント学ぶヒント』(新潮社 1982年)、『夜を泳ぐ』(リブロポート 1991年)がある。

藤本韶三

没年月日:1992/04/04

 「アトリエ」「三彩」「古美術」等の美術雑誌を刊行した美術ジャーナリスト藤本韶三は、4月4日午前0時8分、呼吸不全のため東京都目黒区の病院で死去した。享年95。明治29(1896)年10月3日、長野県下伊那郡に生まれる。同44年長野県立飯田中学校を中退して上京。写真製版印刷会社に勤める一方、白馬会葵橋洋画研究所に学び黒田清輝に師事する。のち、川端龍子、山本鼎の指導を受け、山本の農民美術研究所の仕事に参加する。同12年、山本らの勧誘により美術月刊誌「アトリエ」の編集に創刊時から従事。昭和14(1939)年まで編集長をつとめた。また同14年10月には雑誌「造形芸術」を創刊する。同16年、美術雑誌統制により「造形美術」を「画論」と改題、同18年再統制により大下正男らと日本美術出版株式会社を設立してその専務取締役となり、雑誌「美術」を発行した。同21年美術出版社から「みづゑ」を復刊するとともに月刊誌「三彩」を創刊。同32年造形芸術研究所出版部(のち三彩社と改称)を創立し、美術出版社から「三彩」を譲り受け、同誌の発行を続けた。同38年雑誌「古美術」を創刊。多くの画家、評論家と交遊し、また自ら多田信一、松原宿の名で評論にも筆をふるった。著者に『画室訪問1・2』(三彩社、昭和44年、同47年)『青龍社とともに』(美術出版社)などがある。

寺田千墾

没年月日:1990/12/19

 東京新聞美術記者として活躍した寺田千墾は、12月19日午後4時11分、腹部腫瘍のため川崎市の日本医大第二病院で死去した。享年72。大正7(1918)年8月4日、高知県室戸市に生まれる。昭和17(1942)年9月、早稲田大学政経学部を卒業し、同年10月都新聞社文化部に入社する。同19年4月、海軍に入隊。同20年11月1日、都新聞の後身である東京新聞に復職し、同42年10月1日、東京新聞が中日新聞と合併するに伴い中日新聞社社員となった。常に文化部にあって美術欄を担当し、同49年8月31日定年退職後も同社嘱託および寄稿者として美術評を執筆した。西洋美術史、日本近代史への興味にもとづく視点から現代美術への疑問を投げかける個性的な評論を紙上に展開したほか、作家論等も著し、著書に『現代日本の美術 第6巻 徳岡神泉・奥村土牛』(集英社)『裸婦 第4巻 国領経郎』(学習研究社)などがある。また、同49年より日本大学文理学部構師をつとめた。

谷川徹三

没年月日:1989/09/27

 哲学者で、思想、芸術、文学など広範な領域で評論活動を行い、平和運動にも積極的にかかわった文化功労者、日本芸術院会員の谷川徹三は、9月27日虚血性心不全のため東京都杉並区の自宅で死去した。享年94。帝室博物館次長、法政大学総長、財団法人明治村理事長などを歴任した谷川徹三は、明治28(1895)年5月28日愛知県知多郡に生まれた。愛知県立第五中学校、第一高等学校を経て、西田哲学にひかれ京都帝国大学文学部哲学科へ進み、大正11(1922)年卒業した。その後、竜谷大学、同志社大学、京都市立絵画専門学校などで講師をつとめ、昭和3年法政大学教授に就任、のち文学部長となる。また、和辻哲郎、林達夫らと雑誌「思想」の編集に携わる。戦前の著作に『感傷と反省』(大正14年、岩波書店)、『生活・哲学・芸術』(昭和5年、岩波書店)などがあり、宮沢賢治の研究、紹介は戦後にも及んだ。戦後は雑誌『心』同人に参加。同20年11月から翌年11月までの間中央公論社理事、同21年11月から同23年6月まで帝室博物館(のち国立博物館)次長、同38年2月から同41年8月の間、法政大学総長をつとめた。同50年日本芸術院会員となり、同62年には文化功労者に顕彰された。この間、柳宗悦らとの交際をはじめ、はやくから映画を含む芸術活動全般に深くかかわり、卓越した鑑賞能力により芸術作品へもすぐれた洞察を示し、多くの評論、随想を残している。戦後の著作に、『東と西の間の日本』(昭和33年、岩波書店)、『芸術の運命』(同39年、岩波書店)、『茶の美学』(同52年、淡交社)、『生涯一書生』(同63年、岩波書店)などがある。没後、従三位勲一等瑞宝章が追贈された。

矢内原伊作

没年月日:1989/08/16

 法政大学名誉教授の文芸、美術評論家矢内原伊作は8月16日午前5時8分、胃がんのため東京都港区の虎の門病院で死去した。享年71。大正7(1918)年5月2日、愛媛県に生まれる。経済学者で元東京大学学長の矢内原忠雄の長男。昭和16(1941)年京都帝国大学文学部哲学科を卒業し、戦後、同22年宇佐見英治らと『同時代』を創刊する。同29年C・N・R・S(フランス国立科学研究所)の招聘により渡仏し、31年に帰国。この間、ジャコメッティと交遊し、その作品のモデルともなったほか、ミロ、ザッキン、シャガールなど美術作家たちを知る。学習院大学、大阪大学、同志社大学などで教鞭をとり、同45年より法政大学教授となる。サルトル、カミュの実存主義哲学を紹介する一方、西欧の作家たちとの交遊と独自の視点にもとづく芸術評論を行なった。著書に『ジャコメッティとともに』『芸術家との対話』『抵抗詩人アラゴン』『京都の庭』『宝生寺』『サルトル』『矢内原伊作の本』などがあり、訳書にはジャコメッティ著『私の現実』、カミュ著『ジンフォスの神話』、アラン著『芸術について』などがある。

村松寛

没年月日:1988/04/28

 美術評論家、大阪芸術大学名誉教授の村松寛は、4月28日午前11時50分、胃ガンのため大阪府寝屋川市の青樹会病院で死去した。享年75。明治45(1912)年6月24日京都市中京区に生まれる。昭和11年京都大学文学部史学科(国史)を卒業し、同年滋賀県立八幡商業学校教諭となる。15年朝日新聞大阪本社に入社。20年同社学芸部勤務となり、美術担当記者として美術評論を手がける。37年同企画部となったのちも美術評論を続け、42年6月同社を停年退職。同年10月大阪芸術大学美術学科教授となり、のち同大学名誉教授となる。一方、47年より梅田近代美術館館長、のち大阪府立現代美術センター所長となり、美術館活動にも携わった。著書に昭和35年『美術館散歩』(河原書房)、42年『京の工房』(同)などがある。

久富貢

没年月日:1988/02/23

 美術評論家、東京学芸大学名誉教授の久富貢は、2月23日午前8時45分、心筋梗塞のため東京都世田谷区の至誠会第二病院で死去した。享年79。明治41(1908)年8月28日福岡県山門郡に生まれる。広島高等学校卒業後、京都帝国大学に入学し、昭和7年同大文学部美学美術史学科を卒業する。同年東京帝国大学文学部大学院に入学したが、10年中退、日本大学講師となる。12年国際文化振興会に勤務し、21年4月同編纂課長となった。22年中央労働学園専門学校講師、23年3月法政大学講師を経て、25年4月東京学芸大学講師、26年同大教授となり、教鞭をとった。同26年「日本来朝前のフェノロサ(1)(2)」(『国華』712、713)、続いて27年「フェノロサについて」(美学2(4))、29年「アーネスト・フェノロサ-その思想と美術上の活動」(東京学芸大学研究報告第6集別冊(1))を発表。32年にはそれらをまとめ、優れた最初のフェノロサ研究書『フェノロサ-日本美術に捧げた魂の記録』(理想社)を刊行した。その後も、39年「Lawrence W.Chisolm,“Fenollosa;the Far East and American Culture”について」(東京学芸大学研究報告16(1))、42年「チゾムの『フェノロサ』を中心として」(本の手帖61)、同年「フェノロサとその周辺」(日米フォーラム13(8))などを発表する。34年より36年まで東京学芸大学附属図書館館長を兼任し、39年には文部省在外研究員として欧米に出張している。47年3月東京学芸大学を停年退官、同年6月名誉教授となった。翌48年4月共立薬科大学教授となり、49年跡見女子大学教授(共立薬科大学教授を引続き兼任)となる。この間、38年10月『小川芋銭・富田渓仙』(講談社『日本近代絵画全集』第19巻)、49年1月『前田青邨』(集英社『現代日本美術全集』第15巻)、『安田靫彦』(中央公論社『日本の名画』第14巻)などを刊行。さらに55年『フェノロサ-日本美術に捧げた魂の記録』に加筆訂正した『アーネスト・F・フェノロサ』(中央公論美術出版社)、56年ジョン・ラファージの日本旅行記を翻訳した『画家東遊録』(中央公論美術出版社、桑原住雄と共著)を出版するなど、フェノロサをはじめ近代日本美術研究に多大の貢献を残した。研究業績については、フェノロサ学会機関誌『Lotus』第9号を参照されたい。

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