本データベースは東京文化財研究所刊行の『日本美術年鑑』に掲載された物故者記事を網羅したものです。(記事総数 2,850 件)





手塚俊一

没年月日:1984/09/23

 舞台美術家の手塚俊一は、9月23日午後6時14分、小脳血管芽シュのため、東京都新宿区の東京医科大病院で死去した。享年39。昭和19(1944)年10月15日東京都新宿区に生まれる。中央大学法学部在学中より舞台美術を志し、高田一郎に師事する。44年早稲田小劇場の研究生となり翌年入団、同年の「劇的なるものをめぐって2-白石加代子抄」では宙吊りにした古障子約50枚を可動させ日常と非日常を同一空間に交錯させた特異な装置を製作、「’70舞台美術フェスティバル」の銅賞を受賞する。49年早稲田小劇場を退団した後はフリーとして活動、転形劇場(「硝子のサーカス」)、演劇団(「邪宗門」)、斜光社時代を含む秘法零番館(「少年巨人」)、転位21(「漂流家族」)、黒色テント68/71(「与太浜パラダイス」)、不連続線、シェイクスピア・シアター、こんにゃく座など、現代の日本の演劇に重要な役割を果たす小劇場演劇を代表する秀作の舞台美術を手がけた。その数は最後の作となった秘法零番館出演「食卓秘法2、いただきまあす、別役実さん」まで50本以上に及ぶ。衣類や布団、トタン、電気器具などの古ぼけた最早廃棄物的な日用品を用い、一見演劇内容と無関係に見える装置で逆に舞台との緊張感と本質的な連繋を生む手法で注目を集めていた。

吉田謙吉

没年月日:1982/05/01

 築地小劇場創立メンバーの舞台美術家吉田謙吉は、5月1日午前4時55分、大動脈りゅう破裂のため、東京都港区の都済生会中央病院で死去した。享年85。1897(明治30)年2月10日、東京都中央区に生まれる。京橋小学校の同級生に坂東三津之丞がおり、後に松竹社長となる城戸四郎は先輩にあたる。1909年府立一中に入学するが3年生進級の際、父の倒産により中退する。11年府立工芸学校金属科鋳金科に入学。15年同科を卒業し、海軍造兵廠鋳金工場に勤務する傍ら、葵橋洋画研究所に学び、また、土岐善磨に師事し生活歌を学ぶ。17年、東京美術学校図案科第一部に入学、22年同科を卒業する。同年第9回二科展にLA LOKOMOTIVO PLOVIZEJO SUBIGINTA SUB URBO(街に沈んだ機関車庫)で初入選する。23年「アクション」「三科」などのグループをつくり新しい絵画運動を起こす。24年築地小劇場の創立に美術部宣伝部員として参加し、第1回公演「海戦」の舞台美術を担当。以後、同劇場で上演されたロマン・ロラン作「狼」、イプセン作「幽霊」等の舞台美術を手がけ、土方与志との共同制作による丸太組み舞台のスタイルをつくり上げる。29年築地小劇場分裂後は、新築地劇団の同人となる。日華事変には海軍従軍舞台装置家として大陸に渡る。46年帰国後、日本大学、多摩美術大学、玉川大学の演劇科で教鞭をとる。60年現代マイムを日本へ移入すべく日本マイム協会をつくり、同会会長となる。作画、著作のほか、旅館・喫茶店等の設計・内装も手がけ、著書に「たのしい舞台装置」「築地小劇場の時代-その苦闘と抵抗」となどがある。

林悌三

没年月日:1978/07/05

 舞台美術家、脚本家、日本演劇協会理事林悌三は、7月5日脳硬ソクのため京都府宇治市のユニチカ中央病院で死去した。享年67。明治44年2月16日東京に生まれ、昭和10年京都市立絵画専門学校本科(日本画)を卒業、引き続き研究科に進み同13年修了した。山元春挙に師事し、同7年第13回帝展に「梅雨霽れ」が初入選、同9年には第15回帝展に「龍安寺拝観」、第21回院展に「松島高砂町」がそれぞれ入選し、同12年まで帝展に出品した。同13年より17年まで応召、同19年には陸軍報道班員としてビルマに従軍した。同21年帰還し画業を再開したが、翌22年から京都鴨川おどり等舞踊劇及び踊脚本、並びに舞台美術を手がけた。また同27年には大阪歌舞伎座「新平家物語」の舞台美術を担当し、依頼歌舞伎座、新橋演舞場、明治座、帝国劇場、日生劇場、新宿コマ及び大阪歌舞伎座、中座等で1,100余件の舞台美術を実施した。ことに緻密な作風と確かな時代考証に定評があり北条誠と組んだ舞台美術は高い評価を受けた。また、同28年の「吉野太夫」の脚色をはじめ、「傾成反魂香」、「名作切篭曙」、「玉藻譚」など20余の脚本又は脚色、あるいは演出をなした。手がけた主な舞台美術に、「古都憂愁」(42年)「建礼門院」(44年)、「浮舟」(45年)、「源氏物語」(46年)、「奥の細道」(50年)などがある。著書に『人形の顔』、『写景図の参考』。

鳥居清忠〔8代目〕

没年月日:1976/07/13

 日本画家で舞台美術、TVの分野にも活躍した鳥居清忠は、7月13日肺ガンのため神奈川県伊勢原市の東海大附属病院で死去した。享年75。明治33(1900)年11月21日鳥居派七代目宗家の家に生れ、大正3(1914)年立教中学を中退して小堀靹音に師事し、大和絵、有職故実を学んだ。翌年には言人と号し、絵の修業をする傍ら“演芸画報”などの挿絵や、芝居の絵番附などを描いた。大正7年(1918)芝居絵に関連する画だけにあきたらずして、鏑木清方に師事して、美人画を学んだ。昭和4(1929)年には鳥居派八代目を継承し、この頃より“言人版画”という美人画版画を数多く制作した。昭和10年号を清言と改め、専ら作画生活をつづけ、昭和27年美人画「髪」が第8回日展に入選した。昭和16(1941)年父七代目清忠死去により、昭和37(1962)年父の名跡をついで清忠と改名した。鳥居派は、抑揚ある線描、けばけばしい泥絵具、瓢箪のような足の形など独特の様式を具え、歌舞伎の絵看板などとは不離の関係にあって懐しいものだが、清忠のあと後継者がない。清忠のほか、戦争中から昭和45年の春まで歌舞伎の看板は、先代清忠の弟子鳥居忠雅がかいていた。昭和45年忠雅急逝し、清言が再び歌舞伎の看板をかくようになった。なお清忠は昭和41(1966)~47(1972)日本大学芸術学部演劇科の講師をつとめ、舞台美術について教えていた。

田中良

没年月日:1974/12/31

 舞台美術の先駆者であった田中良は、12月31日午後11時14分、老衰のため東京・渋谷のセントラル病院で死去した。享年90歳。田中良は、明治19年(1886)10月29日、東京市麹町区に生まれ、明治37年(1904)学習院中等部に在学中、太平洋画会研究所に通い、翌38年4月東京美術学校西洋画科に入学した。同期生には池部釣、九里四郎、近藤浩一路、田辺至、長谷川昇、藤田嗣治、山脇信徳などがいる。明治43年(1910)3月同校を卒業、同年の第4回文展に「牧夫」が入選し、褒状をうけた。翌44年3月に建てられた帝国劇場に、45年から背景部助手として勤め舞台美術にたずさわることになった。その後、大正3年(1914)第8回文展に「銅」を出品し入選して褒状をうけ、翌大正4年第9回文展にも「朝鮮の少女」が入選したが、以後、油彩画の制作を離れて舞台美術の研究に従事し、大正8年(1919)にはアメリカ、イギリス、フランス、イタリアの舞台美術を視察のため6ヶ月旅行し、同年10月歌舞伎座で「隅田川」の舞台装置を担当した。以降、舞台美術に専心、大正12年(1923)には宝塚歌劇団に背景部を新設して指導にあたり、昭和11年(1936)東京宝塚劇場開設とともに同劇場舞台課長に就任した。戦後は、昭和26年から29年まで早稲田大学芸術科の講師をつとめ、同29年には東横ホール顧問に就任、また、文部省芸術祭邦舞部審査員、東京新聞社主催舞踊コンクール邦舞部審査員などをつとめている。昭和33年に日本舞踊協会賞、紫綬褒章をうけ、同38年に毎日新聞特別賞、昭和49年勲三等瑞宝章をうけた。没後の昭和50年東京新聞社舞踊芸術功労賞をうけている。著書に、『舞台美術』(昭和19年)、『歌舞伎定式舞台図集』(昭和33年)、『日本舞踊百姿』(昭和49年)がある。

河野國夫

没年月日:1973/05/20

 舞台美術家河野國夫は、5月20日細網肉しゅのため東京港区の日赤病院で死去した。享年59歳。大正3年2月22日アメリカ、ロスアンゼルスに生れた。昭和7年現在の九段高校を卒業、昭和10年東京高等工芸造型科を卒業した。同11年野砲第一聯隊第七中隊第4班、砲兵本科幹部候補生となった。同18年には東宝演劇部設計課に入社し、昭和34年日本テレビ放送網美術部に入社した。新劇関係の舞台美術家として活躍したが、最近はテレビの美術も手がけ、日本舞台テレビ美術家協会専務理事であった。第1回毎日演劇賞・装置賞受章。主要作品 舞台=「罪と罰」「ハムレット」「蛙昇天」「かもめ」「アンネの日記」「山鳩」「ビルマの竪琴」。テレビ=「荒野」「ひとりぽっち」「赤い陣羽織」「つくし誰の子」。著書「舞台装置の仕事」(昭和40年)。

伊藤熹朔

没年月日:1967/03/31

 舞台装置家、芸術院会員伊藤熹朔は、3月31日肺ガンのため東京都杉並区の自宅で逝去した。享年67才。明治32年8月1日東京に生れる。大正12年東京美術学校西洋画科を卒業、在学中から舞台美術を志し、土方与志模型舞台研究所に基礎を学び、舞台装置家としての第一歩を踏みだした。本格的な仕事をはじめたのは築地小劇場においてで、1925年(大正14年)、上演の「ジュリアス・シイザア」が最初の装置となり、ゴードン・クレイやアドルフ・アッピアなどの反写実的、象徴的な斬新な表現で注目された。しかし、後年は写実主義的な舞台装置の研究に進み、「土」「夜明け前」「大寺学校」など多くのすぐれた作品を創り出している。著書“舞台生活三十年”の中で、自分たちは戦前、写実主義その他のイズムを通ってきたような錯覚を持っているが、どれも徹底していない。こうした、やりのこした仕事を今度こそしっかりと世界的水準にしたい、写実主義にしても、これを徹底して研究するには生涯を必要とする、と述べている。この一章は、そのまま、明治以降の近代絵画への批判にも通じるが、彼の写実主義への指向も、念願の舞台美術におけるアカデミズムの樹立を実践しようとしたものであった。写実的な装置をすすめる傍ら、戯曲によっては、彼が好んだと思われる、きわめて象徴的な優れた装置も少くない。単純化された、簡潔な装置は俳優の動きを引きだし、ひき立たせるとともに、その動きによって空間は生き生きと見事な精彩を放っていた。彼程、戯曲を理解し、俳優の動きを生かした装置家は少ないといわれるが、その独創的な構成からもうかがえるように豊かな天分の持主でもあった。作品の幅は広く、新劇から歌舞伎、新派、新国劇、舞踊、歌劇、更に映画、テレビとあらゆる分野に亘り、作品は4,000を越えると伝えられている。舞台装置家の仕事の、全く確立されていない時代にあって、大道具師の古い手法から舞台装置を独立させ、舞台美術として高め、また詳細な設計図によって、組織的な製作法をとり入れるなど、舞台装置の近代化を身をもって開拓し、装置家の地位を高めた功績者の一人であった。受賞歴-昭和24年、芸術院賞。37年菊池寛賞。38年朝日賞、芸術院会員。著書「舞台装置の研究」(小山書店)「舞台装置三十年」(筑摩書房)

to page top